// 5 Nineph《ニンフ》
僕が『ニンフ』という言葉の意味をちゃんと辞書で調べたのは、初めて
ニンフとは、ギリシア神話に登場する森と川を守護する妖精・精霊のことらしい。若い美女の姿をしており、歌と踊りを好む下級の女神としてファンタジー界隈では広く知られている。
一方、ドローイングデバイスとしての
しかし語感が同じだからという事なのか、
そう、モチーフ。
絵やロゴデザインに限らず、あらゆる創作物にはモチーフが重要となる。コンセプトと呼ぶこともあるが、大枠での意味は同じだ。
要するにその創作において何を伝えたいのか、何を表現したいのかという創作物の核になる着想のことをモチーフあるいはコンセプトと呼ぶ。
それに倣うなら、例えば
作品を
「うーん……」
それゆえに、軸となるモチーフが定まらず、何時間も白紙のキャンバスの前で唸り続けるというのはクリエイターにはザラにあることだ。
ユウ、という名の不思議な青年との邂逅から数時間後。僕は自宅へと戻り、机のスタンドライトのみを点けた薄暗い部屋の中で、机の上に鎮座する小さな長方形の板と睨めっこを続けていた。
つい数時間前までは、もう二度と
どんなに言葉で否定したフリをしても結局、僕は骨の髄までデザイナーで、描くことがどうしようもなく好きなのだ。幼少からずっと続けてきた自分の生き方は、そう簡単には変えられない。
自嘲気味な思考を浮かべながら、僕は机の上のチップをじっと眺める。
灰色の色褪せたフレームに包まれた、最初期型のアーキタイプ・チップ。その中には、まだ誰も筆を付けていない真っ白な状態の
アーキタイプチップは、
半年に一回ほどのペースで新型のモデルが更新されるため、型の移り変わりが激しく、前バーションのチップはすぐに店頭から姿を消す。
チップは事実上の使い捨てであり、一度Artsを組み上げるとそのチップでは他の
なぜなら、
そういった事情もあって、新しい作品を描くたびにチップを買いなおすというのがアトリエのデザイナーの間では暗黙の了解となっているが、実践している人間がどれだけいるかは少し疑問が残る。
もっとも、チップの型番は
確かに、既に記憶された
けれど、僕自身としては、やっぱり軽々しく消去することは考えられない。
あのユウという白金髪の青年にも指摘されたとおり、僕がこれまで描いてきた
しかし、それでも――――僕の内側から生まれたものに変わりはない。
たとえ苦しい思いをして描いたとしても、
そんな
だから僕は、今まで描いた
小さく息を吐きながら、視界にAR投影された
時刻は既に午前一時を回っていた。昔から夜通し絵を描くクセがあるため、これくらいの時刻に創作をするのには慣れっこだが、どうにも描くべきものが浮かばない。
普段
しかし、今回はそうもいかなかった。
これから使おうとしているのは、様々な補正機能や高性能アーキタイプを積んだ最新のチップではなく、最初期のモデルのチップだからだ。なにしろ、最初期型のチップには現在市場に出回っている比較的新しいバージョンのチップと違い、《心核補正》のプログラムが組み込まれていない。
《心核補正》とは、デザイナーが
例えば、心の奥底に特定の誰かへ強烈な好意を秘めているデザイナーがいたとする。そのデザイナーが、心核補正のないチップを使って胸に秘めた気持ちとは全く関係のない邪悪な魔剣士の
その魔剣士には、デザイナーが込めた『かっこよくて邪悪で残忍な最凶の剣士』というイメージとは別に、誰にも暴かれたくない想い人への赤裸々な気持ちまでもがしっかりと反映されてしまう。
結果、その魔剣士はデザイナーの想い人を前にすると状況に関わらず熱烈な求愛行動を始めるようになり、それがもし級友との集まりやストラグルの対戦中だった場合、誰にも知られたくなかった秘密や思想を大衆の前で大々的に暴露されることに繋がりかねない。
こういった話は心核補正の話を分かりやすくするために少々誇張されてデザイナーたちの語り草となっているが、
実際、チップに心核補正の備わっていなかった初期には、過去に経験した強姦未遂事件の犯人の男の言葉を熊のぬいぐるみ型
以来、
疎まれた結果数が減り、それで希少価値が上がってコレクターから人気が出るとはなんとも皮肉な話だが、補正がない最初期型のチップを使って
誰かに見せたいもの、表現したいものだけでなく自分自身の内面全てを反映してしまう恐れのあるいわくつきのチップ。中途半端なモチーフで描こうものなら、組み上がった
そう考えると、スタイラスのペン先が止まる。思考が緩やかに速度を失って、色を失っていく。
「やっぱり……無理なのかな……」
暗い記憶に足首を掴まれたような気がして、僕は背中をデスクチェアに預けて天井を仰ぎながら全身を弛緩させた。大きく息を吐き、メガネを外して瞼を閉じる。
どうして彼は――――あのユウという青年は、僕にこんなチップを渡したのだろうか。
あの時はあまりにレアな最初期型のチップの実物を目の前にして動転していたので気にならなかったが、冷静に考えてみればこのチップを使って
暗い過去を明かした直後にこのチップを渡すというのは、額面通り受け取るならタチの悪いブラックジョークか嫌がらせでしかない。そうであるならば、僕は目の前にある最初期型チップを今すぐネットオークションにかけて、ユーリと同じく最新型の
けれど、それを実行しようという気にはどうしてもなれなかった。
まったくの勘でしかないが、あのユウという青年がそんな悪質な嫌がらせをする人間にはどうしても思えないのだ。彼のあの薄青い瞳が湛えた光は、一番身近で
僕が単に馬鹿にされていることに鈍いだけという可能性もあるが、少なくとも僕はユウの言葉を、あの瞳を信じたいと思った。
――――でもキミは、きっとまた筆を取るよ。
――――今夜の出会いには大きな意味があったんだと、キミがその手で証明してくれ。
「……よしっ……」
僕はもう一度大きく深呼吸すると、メガネを掛け直してホルダーからスタイラスペンを引き抜いた。
机に横たわっていたチップを摘み上げ
まだ、ユウが僕にチップを託した意図はわからない。
でも今はきっと、わからなくても筆を進めることが必要なんだ。何も浮かばない時は、とにかく何かを描いてみることでイメージが固まっていくこともある。今までだって何度かあったことだし、その度に無心になって描くことで乗り越えてきたのだ。
未だ形のない感情に形を与えて、命を吹き込むのが創作だ。ユウに言われた通り、僕はそれを忘れていた。言葉ではわかっていても、心の中では無理だと諦めていたのだ。
だから僕は、まずそこから始めないといけない。
どうせ一度は本気で絵描きとしての夢を、文字通り
胸の内にわだかまっていた暗い気持ちは、いつの間にか色を失って消えていた。
鮮明になった頭の中――――あるいはそのもっと奥のどこかから、誰かの声が聞こえる気がする。
描け、と。
AR表示された描画ソフトのインターフェースの中からペン先の質感と線の太さを設定し、僕は意を決して、白紙のアートボードに最初の線を走らせた。
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