// 5 Nineph《ニンフ》


 僕が『ニンフ』という言葉の意味をちゃんと辞書で調べたのは、初めてNinephニンフを手に入れた日からしばらく経ってからの事だった。

 ニンフとは、ギリシア神話に登場する森と川を守護する妖精・精霊のことらしい。若い美女の姿をしており、歌と踊りを好む下級の女神としてファンタジー界隈では広く知られている。


 一方、ドローイングデバイスとしてのNinephニンフは、単に長ったらしい英語名の頭文字を取って作った造語なのでギリシア神話の精霊とは何の関係もない。

 しかし語感が同じだからという事なのか、Ninephニンフ本体のフレーム表面には女性の横顔をモチーフにしたロゴマークが刻印されている。


 そう、モチーフ。

 絵やロゴデザインに限らず、あらゆる創作物にはモチーフが重要となる。コンセプトと呼ぶこともあるが、大枠での意味は同じだ。

 要するにその創作において何を伝えたいのか、何を表現したいのかという創作物の核になる着想のことをモチーフあるいはコンセプトと呼ぶ。


 それに倣うなら、例えばNinephニンフのロゴマークのモチーフとなったものはギリシア神話の美女妖精であり、ロゴデザインもそれに合わせて女性の横顔を模したシルエットロゴに仕上げた、という具合だ。

 作品を設計デザインするという行為は、まずモチーフあるいはコンセプトを中心に枝葉を広げ、表現したい物事へと肉付けしていく作業に他ならないのだ。


「うーん……」


 それゆえに、軸となるモチーフが定まらず、何時間も白紙のキャンバスの前で唸り続けるというのはクリエイターにはザラにあることだ。


 ユウ、という名の不思議な青年との邂逅から数時間後。僕は自宅へと戻り、机のスタンドライトのみを点けた薄暗い部屋の中で、机の上に鎮座する小さな長方形の板と睨めっこを続けていた。

 つい数時間前までは、もう二度とArtsアーツを描くことはないと本気で心に決めていたはずだった。しかし、いざ激レアのアーキタイプチップを前にしてしまうとその覚悟もぐらついてしまうのだから、我ながら調子の良い性格をしている。

 どんなに言葉で否定したフリをしても結局、僕は骨の髄までデザイナーで、描くことがどうしようもなく好きなのだ。幼少からずっと続けてきた自分の生き方は、そう簡単には変えられない。


 自嘲気味な思考を浮かべながら、僕は机の上のチップをじっと眺める。

 灰色の色褪せたフレームに包まれた、最初期型のアーキタイプ・チップ。その中には、まだ誰も筆を付けていない真っ白な状態のArtsアーツの基礎知性プログラムが記憶されているはずだ。

 アーキタイプチップは、Ninephニンフの開発元でありヴァーヴス・ストラグルの運営でもあるヴァーヴス・エンライト社が販売しているNinephニンフの周辺機器だ。Artsアーツの知性の基となる人工知能の基本構造が、小指の先ほどの大きさのチップに記憶されている。


 半年に一回ほどのペースで新型のモデルが更新されるため、型の移り変わりが激しく、前バーションのチップはすぐに店頭から姿を消す。

 チップは事実上の使い捨てであり、一度Artsを組み上げるとそのチップでは他のArtsアーツを組むことはできない――――というか、組むことはタブーとされている。

 なぜなら、ArtsアーツArtsアーツとして完成したその瞬間からデータの集まりではなく一つの存在とも言える、デザイナー自身の分身であるからだ。それを軽々しく消去してしまうのは、極端に言えば殺人のようなものであるという大多数のデザイナーの主張と、Artsアーツはイラストやモデルデータの延長にあるもので、あくまで創作物であるから消去するのは本人の自由である、という2つの主張の対立はアトリエ内では度々議論になるテーマだ。


 そういった事情もあって、新しい作品を描くたびにチップを買いなおすというのがアトリエのデザイナーの間では暗黙の了解となっているが、実践している人間がどれだけいるかは少し疑問が残る。

 もっとも、チップの型番はArtsアーツのクオリティを少なからず左右するとも言われており、旧型のものを使うメリットは安価なこと以外にはほぼないため、より高位のArtsアーツを描きたいデザイナーは型が新しい方のチップを使うのが常識だが。


 確かに、既に記憶されたArtsアーツのデータを消去して、別のArtsアーツを最初から組み上げることは、理論上は可能だ。開発元であるエンライト社も、推奨はしないとしながらも、Ninephニンフにアーキタイプチップの初期化設定を組み込んでいる事からArtsアーツの消去は容認しているのだろう。


 けれど、僕自身としては、やっぱり軽々しく消去することは考えられない。

 あのユウという白金髪の青年にも指摘されたとおり、僕がこれまで描いてきたArtsアーツたちは心の底から楽しんで描いたものばかりではない。殆どが、絵描きとしての自分の存在を証明するために描いた、焦燥感と強迫観念ばかりが反映された作品たちだ。


 しかし、それでも――――僕の内側から生まれたものに変わりはない。

 たとえ苦しい思いをして描いたとしても、Artsアーツ自体に罪があるわけじゃない。むしろ未熟な自分を投影した姿こそが彼らなのだ。

 そんなArtsアーツたちを消去してしまえば、僕を構成している『自分』が少しずつ削れていって、やがて消えてなくなってしまう気がする。

 だから僕は、今まで描いたArtsアーツのアーキタイプ・チップは全て自室の机の引き出しの中に大切にしまっておいている。


 小さく息を吐きながら、視界にAR投影されたNinephニンフデスクトップの時計に視線を動かす。

 時刻は既に午前一時を回っていた。昔から夜通し絵を描くクセがあるため、これくらいの時刻に創作をするのには慣れっこだが、どうにも描くべきものが浮かばない。

 普段Artsアーツを描く時は、基本的に人型のもので対人戦が強そうなモチーフを探して描いているため、比較的すぐにモチーフを決めることができた。その方がストラグルで有利な事が多いし、Artsアーツに動き方を学習させる時も、普段動かしている身体の使い方を思い浮かべれば良いのだから楽だ。


 しかし、今回はそうもいかなかった。

 これから使おうとしているのは、様々な補正機能や高性能アーキタイプを積んだ最新のチップではなく、最初期のモデルのチップだからだ。なにしろ、最初期型のチップには現在市場に出回っている比較的新しいバージョンのチップと違い、《心核補正》のプログラムが組み込まれていない。


 《心核補正》とは、デザイナーがArtsアーツを描いている時に、『作品への想い以外の自意識』がArtsアーツ側に反映されないようにArtsアーツの知性の構成情報を補正する機能のことだ。

 例えば、心の奥底に特定の誰かへ強烈な好意を秘めているデザイナーがいたとする。そのデザイナーが、心核補正のないチップを使って胸に秘めた気持ちとは全く関係のない邪悪な魔剣士のArtsアーツを描いた場合どうなるか。

 その魔剣士には、デザイナーが込めた『かっこよくて邪悪で残忍な最凶の剣士』というイメージとは別に、誰にも暴かれたくない想い人への赤裸々な気持ちまでもがしっかりと反映されてしまう。

 結果、その魔剣士はデザイナーの想い人を前にすると状況に関わらず熱烈な求愛行動を始めるようになり、それがもし級友との集まりやストラグルの対戦中だった場合、誰にも知られたくなかった秘密や思想を大衆の前で大々的に暴露されることに繋がりかねない。


 こういった話は心核補正の話を分かりやすくするために少々誇張されてデザイナーたちの語り草となっているが、Artsアーツを構成する上では実際かなり深刻な問題ではある。

 Artsアーツは、デザイナーがArtsアーツに込めた想いをリソースに構成されるが、そこに作品への想いとは関係ない『デザイナー自身の自意識・人格・思想』が反映されてしまうと、先の例え話のように知られたくない秘密や過去が暴露されたり、ともするとデザイナーの心の傷やトラウマとなっている過去がArtsアーツとなって表出し、デザイナーを精神的に追い詰めることに繋がってしまう可能性すらあるのだ。

 実際、チップに心核補正の備わっていなかった初期には、過去に経験した強姦未遂事件の犯人の男の言葉を熊のぬいぐるみ型Artsアーツがしきりにつぶやくようになり、Artsアーツを描いた女性デザイナーがPTSD(心的外傷ストレス障害)を発症したという事件がニュースになったこともあった。


 以来、Artsアーツの元となるアーキタイプ・チップには『作品に込めた想い』以外の雑念を排除する心核補正プログラムが必ず組み込まれるようになり、補正が入っていない初期型のチップはデザイナーたちから忌避されて市場から姿を消すことになる。


 疎まれた結果数が減り、それで希少価値が上がってコレクターから人気が出るとはなんとも皮肉な話だが、補正がない最初期型のチップを使ってArtsアーツを描くというのはそういうことなのだ。

 誰かに見せたいもの、表現したいものだけでなく自分自身の内面全てを反映してしまう恐れのあるいわくつきのチップ。中途半端なモチーフで描こうものなら、組み上がったArtsアーツがどうなるかわかったもんじゃない。下手をすれば、5年前の辛い記憶に形を与えてしまう恐れすらある。誰かを死に追いやってしまったかもしれない恐怖と、世界中から非難されているような重圧に押し潰されそうだったあの数週間を、自らの手で蘇らせてしまうかもしれない。

 そう考えると、スタイラスのペン先が止まる。思考が緩やかに速度を失って、色を失っていく。


「やっぱり……無理なのかな……」


 暗い記憶に足首を掴まれたような気がして、僕は背中をデスクチェアに預けて天井を仰ぎながら全身を弛緩させた。大きく息を吐き、メガネを外して瞼を閉じる。


 どうして彼は――――あのユウという青年は、僕にこんなチップを渡したのだろうか。

 あの時はあまりにレアな最初期型のチップの実物を目の前にして動転していたので気にならなかったが、冷静に考えてみればこのチップを使ってArtsアーツを描くのは、僕にとっては過去のトラウマや情けない自分像を自ら表に引きずり出すようなもので、それはあの白金髪の青年も理解していたはずだ。

 暗い過去を明かした直後にこのチップを渡すというのは、額面通り受け取るならタチの悪いブラックジョークか嫌がらせでしかない。そうであるならば、僕は目の前にある最初期型チップを今すぐネットオークションにかけて、ユーリと同じく最新型のNinephニンフをフルカスタムで買うか、あるいは何か別の趣味か勉強のために投資してしまうべきだろう。


 けれど、それを実行しようという気にはどうしてもなれなかった。

 まったくの勘でしかないが、あのユウという青年がそんな悪質な嫌がらせをする人間にはどうしても思えないのだ。彼のあの薄青い瞳が湛えた光は、一番身近でArtsアーツを楽しんでいる幼馴染のユーリやツバサの瞳と同じものに感じたし、二人よりももっと強い――――何か、Artsアーツに対する慈愛や尊敬のような感情さえ、彼の言葉の端々には滲み出ていた気がする。

 僕が単に馬鹿にされていることに鈍いだけという可能性もあるが、少なくとも僕はユウの言葉を、あの瞳を信じたいと思った。


 ――――でもキミは、きっとまた筆を取るよ。


 ――――今夜の出会いには大きな意味があったんだと、キミがその手で証明してくれ。



「……よしっ……」


 僕はもう一度大きく深呼吸すると、メガネを掛け直してホルダーからスタイラスペンを引き抜いた。

 机に横たわっていたチップを摘み上げNinephニンフ本体のスロットへと挿入すると、視界に表示されていたARデスクトップ画面が描画用ソフトのインターフェースへと自動で切り替わり、視界中央に白紙のアートボードが表示される。


 まだ、ユウが僕にチップを託した意図はわからない。

 でも今はきっと、わからなくても筆を進めることが必要なんだ。何も浮かばない時は、とにかく何かを描いてみることでイメージが固まっていくこともある。今までだって何度かあったことだし、その度に無心になって描くことで乗り越えてきたのだ。

 未だ形のない感情に形を与えて、命を吹き込むのが創作だ。ユウに言われた通り、僕はそれを忘れていた。言葉ではわかっていても、心の中では無理だと諦めていたのだ。


 だから僕は、まずそこから始めないといけない。

 どうせ一度は本気で絵描きとしての夢を、文字通りNinephニンフごと投げ捨てようとしたのだ。全てを投げ出す覚悟があるのなら、最後だと思って全力で取り組める筈だ。


 胸の内にわだかまっていた暗い気持ちは、いつの間にか色を失って消えていた。

 鮮明になった頭の中――――あるいはそのもっと奥のどこかから、誰かの声が聞こえる気がする。


 描け、と。


 AR表示された描画ソフトのインターフェースの中からペン先の質感と線の太さを設定し、僕は意を決して、白紙のアートボードに最初の線を走らせた。

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