第2話 帰り道にて
彼の運転する車は、郊外の閑散とした道をゆっくりと走っていた。嫌に安全運転だな〜と思いながら僕は、どこまでも続く青い空と、まるでいつまでもそこに留まっていたいかの様に緩やかに流れる雲を見つめていた。優しいママの顔を思い出し、知らず知らずに悲しい声を出していた様だ。不意に彼が僕に話しかけてきた。
「悲しい声出してどうした?母親が恋しいか?」
と言いながら、僕の頭を撫でてくれた。しっかり前を見て運転してくれよ〜という僕の思いとは裏腹に
「俺の名前は颯太。カッコイイだろ〜死んだ爺ちゃんが付けてくれたんだ。お前の名前もかっこいいのにしないとな〜」
と話を続けた。
「前の家族にはクロって呼ばれてたんだろ〜色が黒いからクロっていう名前は単純だよなぁ」
と独り言の様に呟き
「でも、全然違う名前で急に呼ばれても、お前も混乱するよな〜。うーむ」
と一人頭を悩ませている。しばらく黙っていた颯太だったが、突然
「クマって名前はどうだ?!」
と僕を見て言った。お前は色も黒いし、クロとクマは音もにてるし、それに熊って言う動物は、大きくて強い森の王者だからお前には似合ってる、と言って一人で嬉しそうに納得していた。
「よし、クマで決まりな!これからよろしくな!クマ!」
こうして僕の名前はクマに決まった。
僕の家を出発して15分程たった頃から、颯太の様子がおかしくなってきた。妙にお尻を運転席の上でモゾモゾ動かしたり、深呼吸をしたりしている。額にはうっすらと汗が滲んで、大変辛そうにみえる。
ワンワン
(おい、颯太、大丈夫か?)
と声を掛けてみるが、颯太の耳には全く聞こえていないようだ。ふと、左前方に目を向けると、なにやら空気が濁っている場所が見えた。目を凝らしてみると、どうやらその場所だけ妙に木が茂っている。ちょっと気味の悪い場所だな〜と思って見ていると、突然、風太が大きくハンドルを左に切った。
キャンキャン!!
(颯太、何やってんだ。今日は助手席に僕が座ってるのを忘れたのか〜?!)
と叫びながら僕は、必死に振り落とされない様にシートにしがみついていた。颯太の様子は相変わらずおかしい。車のタイヤがガタガタと音を出し始め、車の揺れは、さっきよりも激しくなっていく。おやっ?と思い前を見ると、その道はさっき見た濁った空気に包まれた森に向かっている。
ワンワンワン!
(颯太、この道はやばいぞ。颯太!)
無視。全く無視。
ワン!
(人の話を聞け〜)
と颯太に飛びかかろうとした時、颯太がやっと口を開いた。
「ごめんよ。ちょっとお腹の調子が急に悪くなってさ。あそこにある建物でトイレを借りようと思って。ちょっと寄り道するよ。」
ワンワンワンワン!
(あそこはヤバいぞ。最悪だぞ。あんな所でトイレなんて、殺されにいくようなもんだ!僕みたいに外ですればいいじゃないか!気持ちいいぞ!)
ワンワン!
(無視すんな〜〜!)
僕の気持ちとは裏腹に、車は徐々に加速していく。颯太を見ると、人間とは思えない形相で前を見つめている。禍々しい森に囲まれたその建物が、徐々に近ずいてくる。僕は覚悟を決めて、その建物を見ていた。物凄い嫌悪感が、僕の中でどんどん膨らんでいく。車は建物の門をくぐり抜けた。その時、僕の目に飛び込んで来たのは『水蓮荘 特別養護老人ホーム』の看板だった。颯太は車を入り口近くに停車させ
「ごめんな、ちょっと車の中で待っててくれ。トイレを済ませたらすぐに戻ってくるから。」
と僕を安心させる様に言った。颯太は車を降りると、変な走り方でその老人ホームの中に消えて行った。
ワンワン!
(変な走り方だぞ颯太、でも無事に戻って来てくれ)
と祈りながら、その禍々しい建物を見つめ、僕は助手席のシートにチョコンと座っていた。突然、背後に奇妙な気配を感じ、僕は振り返った。その瞬間、ドーンと言う音と共に車が激しく揺れ始めた。僕の心臓はパニックで爆発寸前だった。
ワンワン!!
(ママ〜助けて〜!!)
と悲鳴にも近い鳴き声をあげると、激しかった車の揺れがぴたりと止まった。あまりの出来事に身動きが取れない僕の目の前を、古い看護服を着た若い女の人が横切って行った。えっ!?と思って彼女を目で追っていると、いつの間にか彼女は車の後ろの席に座ってギラギラした目で僕を見つめている。いつの間にか、車の周りには無数の手が地面から生えている。それらの手は、見えない何かを掴もうとするかの様に空中を掻きむしっている。慌てて女の方に振り返ると、生気の無い青白い顔で、無表情のまま口を開けて笑っている。驚いて助手席のシートから落ちてしまった僕は、ダッシュボードの下から、彼女に向かって吠えまくった。
ワンワンワン!
(誰だお前は!そこで何してる!笑うな気持ち悪い!ってか臭いんだよ!)
犬の嗅覚は凄いのである。しかし今は自分の鼻を呪うしかなかった。
ワンワン!
(臭い臭い!どっかに行け!)
彼女の口がさらに大きく開いた、その時、車のスピーカーから
「美味しそうな仔犬ね。」
と言う女の人の声が聞こえた。
ワンワンワンワン!
(食べるのか?!僕を食べるのか?!犬を食べるなんてどうかしてる!)
彼女の大きく開いた口から白い舌がチラチラと動いているのが見える。食べられる!と思ったその時、ガチャっと言う運転席のドアが開く音と共に、颯太が車に乗り込んで来た。
「あ〜スッキリした。死にそうだったよ。あれ、クマ、そんな所で吠えてどうした?何かあったか?」
と不思議そうな顔で僕を見つめる颯太。その胸に、尻尾を振りながらダッシュで飛び込む僕。
ハッハッハッ!
(スッキリした?死にそうだった?それはこっちの台詞だ!待たせやがってこのヤロ〜。戻って来ないかと思ったぞ!)
僕の頭を優しく撫でながら、
「寂しかったのか?可愛い奴だな〜お前は。ってかクマ、オシッコもらしたのか?トイレに行きたくて吠えてたんだ。気付かなくてゴメンよ〜」
と呑気に話しかける颯太。自分がいた場所を見ると、確かにオシッコの跡がある。全く記憶に無いのだが……。颯太には見えていない様だが、後ろの席にはまだあの女が座っている。どうやら人間には何もしない様だ。
颯太が僕の粗相のあとを掃除している間も、女は座ったまま微動だにしない。僕は、彼女の事が気になりはしたが、食べられてしまうのは嫌なので、颯太から片時も離れなかった。颯太はそれが嬉しくてたまらなかったのか、鼻歌を歌っていた。人間って言うのは幸せな生き物だ。颯太が車用の臭い消しスプレーを撒いた瞬間、もう少しだったのにとかブツブツと何かを言いながらその女は消えて行った。その言葉を聴いた瞬間、僕の全身にあの恐怖と悪寒が蘇り、またオシッコを漏らしてしまった。今度は運転席のシートの上に……。
あ〜〜〜っと頭を抱える颯太。
クゥ〜ンクゥ〜ン!
(ゴメンよ、颯太!)
と尻尾を力一杯振ってみる。それを見て大笑いする颯太。颯太となら上手くやって行けそうだ。トランクからバスタオルを出して、それをシートの上に置いて颯太は運転席に座った。
「もう少しで家に着くからな!そしたら家の近くを一緒に散歩しよう!」
と笑顔で僕に話しかける颯太。僕も大きく尻尾を振りながら
ワン!
(おう!!)
と力強く答えた。後ろにはあの禍々しい森が佇んでいる。いったいこの森で何があったのか?あの老人ホームで何があったのか?あの看護服を着た女はいったい誰だったのか?この先も、僕には知る由も無いだろう。ただ僕が願う事は、もしあの淀んだ空間が人間達によって作られた物だとしたら、いつの日か、人間達の手によって浄化される事。そしてあの場所に留まる全ての魂が、いつの日か救われる事を僕は願う。
車は再び帰路についた。空がだんだん茜色に染まっていく。まるで、さっき起こった出来事を忘れなさいと、僕に語りかけているみたいだ。自然はいつでも優しいなと思いながら、颯太の顔を見る。僕を見ながら鼻歌交じりで車を運転する颯太を見て、僕はまた、力一杯尻尾を振った。
つづく
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