二十八章 届かずとも
その女には片足がない。絶たれた足首からは血が流れ、女の歩んできた軌跡を赤く汚している。
華奢な体躯を包む深緑のドレスもまた、そこここが破れ、血や泥に汚れていた。
けれど、欠けたベールの下、真紅に色づいた唇は、殺伐たる
「……フフ」
手近な樹木に手をついたところで、彼女は肩越しに目を向けた。
視線の先に、化け物が降りたった。
「……」
それは麗しい顔立ちの女だったが、双眼は
ストロベリーブロンドの頭髪は乱れ、左腕はぶらりと力なく、肌には無数の裂傷が刻まれている。
だが何よりも異質なのは、右腕と腹に巻かれたロープが、独りでに
化け物を前にしても、女は怖気づく様子ひとつ見せなかった。
むしろ、歓迎の意を示すように両腕を拡げてみせた。
「早かったわね、シンデレラ」
声色は人を食ったように甘ったるい。
「なぜ逃げなかった、ジュスティーヌ」
一方、美女の口調は意外にも淡白だ。
ジュスティーヌはそのギャップに可笑しみを感じ、くすくすと笑う。
「逃げてきたわよ?」
「もっと遠くまで逃げられたはずだ。お前の力で生命を生みだせば。その足を借りれば」
「フフ、そうね」
ジュスティーヌはあっさりと認め、悠然と美女に向き直った。欠けた足を地にこすりつけながら。
「何故でしょうね? うまく言葉にできないわ。でもあえて言うなら、そうね。ワタシがそうしたかったからよ」
「そうしたかっただと?」
目を眇める美女に、ジュスティーヌは穏やかな頷きを返した。
「ええ。ワタシは欲求に忠実なの。自他に
「殺される事を望んだとでも言うのか?」
ジュスティーヌは肩をすくめた。
「殺されるつもりはないわ。でも、あなたがここに来るのを待っていた。それがワタシの欲望なの」
「訳が分からんな……」
「フフ、理解する必要などないのよ。人間同士でさえ理解し合えないというのに、何故、ワタシを理解できると思うのかしら?」
美女はしばし沈黙した。その目に一瞬、人間じみた哀切が過ぎった。
「……やはりお前は、人間じゃないんだな」
「どうかしらね」
「何者なんだ、お前は?」
抑揚なく放たれた美女の問いに、ジュスティーヌの肩は震えた。
くつくつと笑いがこみあげ、やがてキャラキャラと耳障りな哄笑に変わった。
美女は顔をしかめた。
「なにが可笑しい」
「ウフフ! ごめんなさい。この期に及んで、まだワタシを理解しようとするのだもの。可笑しいじゃない?」
「確かに、理解する必要なんてないな」
その時なぜか美女も笑った。卑下するような笑みではなかった。恥じらいを繕うような笑みだった。
「殺せばいいだけだ」
それはすぐ憎悪に染めあげられた。
ジュスティーヌにはその変化がたまらなかった。
思わず快感に身をよじり、熱い吐息をもらした。
それが開戦の合図となった。
美女を中心に殺気が渦を巻き、虚空を波打たせた。
昼を夜に変えてしまうような、どす黒い感情の波動だった。
実際、雲の裏の陽光は、急いたように傾き始めていた。
――
レイラの短剣は空を馳せるなり獣の肉を裂いていく。ロープとともに乱舞し、血の雨降りしきる活路をひらく。
しかし次の瞬間には、新たな獣が視界を塞ぎ襲いかかってくる!
「ッ!」
レイラは、ウェイグから拝借した剣に手をかけた。
樹木が次々と獣へ変わっていく所為で、ロープを用いた移動は制限されていたが、一方で、剣を阻むものもなかった。
「オオッ!」
渾身の力で
鞘走った刃が、一撃のもとに獣の首を刎ね飛ばす!
ここぞとばかりにレイラは踏みこむ。
魔女を剣の間合いに捉えると、すかさず大上段から斬りかかる!
「乱暴ね」
無論、片足とはいえ、そう容易く死刃を受け入れる魔女ではない。
頭上に残像が刻まれた刹那、拳が剣の側面を打った。軌道が逸れ、刃は地に沈む。
ビョウ!
その時、ロープの短剣が風を切る。
ジュスティーヌの薄ら笑いを貫くべく!
それも柄を掴んで止められる。
レイラは腹を蹴りつける!
「ング……」
入った!
相手が怯んだ一瞬、レイラの足は円弧を刻んだ。レイラを中心に剣が回転した。
横薙ぎ。
今度は逸らされたとしても確実にダメージを与えられる軌道。
魔女の脇腹に刃が迫る!
「ウフフ!」
ところが、それも血肉に届かなかった。
剣はドレスのみを裂き、肌に至る寸前で止まった。
反動がレイラの腕をじんと痺れさせた。
「な……」
魔女の肘と膝が上下から刃を挟みこんでいた。
想定外の挙動。動揺は、たちまち隙となる。
ジュスティーヌは地を蹴り後退すると同時、掴んでいた短剣を投げ返した!
「……ッ!」
レイラはとっさに異能を発動させたが、わずかに遅れた。頬に赤い線がはしり、じわりと血が湧いた。
魔女が背後の樹木に触れた。
魔女の恩寵は誕生の赦しだ。
ふたたび獣が顕現する!
「オオオォォォン!」
巨大な狼だ。
それが色を失いつつある空に吼え牙を剥いた。
空が応えるように雲を散らした。薄い銀の月が覗いた。
狼は跳躍した。
レイラは真横に跳んだ。
すれ違いざまに首を斬った。
「グルァ!」
血が滲んだだけだ。
転がるように着地した狼は、すぐさま爪を振りかぶった。
レイラは剣で受けた。
無論、片腕では弾き返せない。獣の巨躯に押し倒される!
同時に、レイラの背中に熱がともった。
「ギィ、アッ!」
狼の首に短剣が飛来した。
ロープが獰猛に脈打ち、獣の血と涎を溢れさせた。それがレイラのこめかみを濡らした。
獣の眼から生気が抜け落ちた。
レイラは狼の腹を蹴りあげ、立ちあがる。
この間に魔女は、次の樹木に触れていた。
樹木の輪郭が歪み、魔女を跳びこし襲いかかる。
さらに枝はヘビ、葉はハチと化して群れをなす!
レイラは軽やかなステップで獣の体当たりを躱し、的確に急所へ剣を抉りこむ。腹のロープが風とともに唸りヘビを牽制し、宙を舞う短剣がハチの群れを
数が増えれば、その分生みだされる姿は歪になるらしい。植物の部位をもった半端な雑兵たちだ。動きが鈍く脆い。
しかし対処せねばならない相手が増えれば、注意は拡散し、手数を消費する。魔女へ肉薄する余裕がない。
……クソッ。
何よりレイラは満身創痍だ。
有象無象を的確に躱すも紙一重。肌に裂傷が増え、足はもつれ、視野は霞んでいく。
三波、四波、五波――。
いくら群れを崩しても、一向に魔女との距離は縮まらない。
捌けない敵の数ばかりが増えていき、レイラはついに片膝をついた。
膝が濡れた感触を捉えた。血ではなかった。
清冽な水の感触だった。
それは緩やかに坂を下り、今まさに襲来する有象無象の足許を貫くようにして延びていた。
そして冷ややかな感触は、次いで熱をともした。
背中に真っ赤に灼けた鉄の杭を打ちこまれたような気がした。
背負ってきた
もっと強く、優しく、真っ直ぐな――きっと、視線だった。
「……ああ」
レイラはそれを信じた。
まだ、それ以外の何も信じられなかったが、今はそれだけで充分だった。
「ぁあああああぁあああぁああぁあッ!」
ありったけの力で地を蹴り、這うようにとび出した。
刹那、有象無象の動きが狂う!
レイラの覇気に怯んだのか、魔女が何か手違いを起こしたのか。
獣がびくんと震え、ヘビが棒を呑んだように固まり、虫はあらぬ方向へ飛翔した。
水の流れに
レイラはそこへ潜りこむように突っこみ転がった。
視界が二度も三度も反転し、頭上に爪牙が閃いた。
姿勢をたて直したその時、レイラは見た。
かすかに
「ジュスティーヌッ!」
それを背後に佇む、魔女の姿を!
レイラは異能を発動する。
短剣を結わえたロープが夜を飛翔する!
ジュスティーヌは悠然と身構える。片腕が霞む。
ところが突如、その動きが狂う。先の獣たちと同様に。
「あァら……?」
当惑の声が夜に
魔女の眼前にゴッと風が唸った。
それは傷だらけで、なお美しい女の姿をしていた。はね上げられたベールの下、黒一色の双眸がそれを認めた。
次の瞬間には、もう一方の腕が斬り飛ばされ、魔女は押し倒されていた。
レイラはロープの短剣を掴み、魔女の胸に突き付けた。
「……ようやく、この時が来た」
ジュスティーヌは穏やかに笑んだ。
「お喋りしてる余裕があるのかしら。獣たちが来るわよ?」
「なんとかなるだろうさ」
「そうみたいね」
ジュスティーヌは、あっさりと認めた。
背後から響きわたる、血と斬撃の音。
誰かが獣たちと戦う、その音を、二人は確かに聞いていたのだ。
「……フフ。楽しかったわ、シンデレラ。あなたの怒り、憎しみ、悲しみ、どれも甘美だった」
「それがアタシの人生を狂わせた理由か?」
訊ねれば、魔女は倒れ伏したまま肩をすくめてみせた。
「まだワタシを知ろうとするのね? 無駄だというのに」
「無駄、なんだろうな。でもアタシは、無駄じゃないと信じたかった」
「なぜ?」
魔女の問いは子どものように無邪気だった。
対するレイラにも邪な
「……それが人だからだ」
「へえ?」
「人は、他者を理解することなんてできない。歩み寄ってみて無駄に終わったり、裏切られたり、自分から裏切ってしまう事だってある。それでも……届かずとも、人は触れ合おうとする。そういう生き物なのさ」
誰も信用してこなかった。その必要もないと思っていた。
けれど本当に誰も信用せず、歩み寄る必要もないなら。
魔獣に変貌した人々を狩り続けなくてもよかった。
酒場で冒険者を待たなくてもよかった。
ラーナの同行を赦す必要もなかった。
「何のために?」
心底解らないという風に、ジュスティーヌは首を傾げた。
レイラは苦しげに微笑んだ。
「……淋しいからさ」
「淋しい?」
「有体な言葉だが、人は独りじゃ生きていけないんだ。この七年で、アタシはそれを学んだ」
「解らないわ」
「だろうな」
今度こそレイラは冷たい声色で返した。
黒一色の目を見据え、はっきりとこう言い放った。
「お前は化け物だから」
「あら、それはあなたも同じではなくて?」
レイラの双眸に炎が燃え盛った。
しかし、それが彼女を蝕むことはなかった。
「違うな。アタシには信じるものが……いや、まだ信じたいものかもしれない。でも、それがある。怒りも、憎しみも、悲しみも、だから生まれるんだと気付いた。気付かされた」
ジュスティーヌは何故か笑った。そこには怒りも、憎しみも、悲しみもなかった。
「もう呪いじゃない。〈ウズマキ〉でも化け物でもない。アタシは」
レイラは刃を押しこんだ。それが胸を抉ると同時、魔女の耳もとで告げてやった。
「
魔女は腕をもちあげた。しかし半ばから断たれた腕は、如何なるものにも触れることはできなかった。
間もなく魔女の身体は灰と化し、ザラザラと崩れ落ちた。
そこに風が吹きつけた。
灰が高く舞い上がった。
「……」
そうしてレイラは、一時、灰に染まった髪色を水面に見た。
またぞろ風が吹けば、それは美しいストロベリーブロンドをあらわにした。
レイラは引きつった笑みを浮かべると、池の水を掬って飲んだ。渇いた身体に、それが沁み渡った。
反して、胸を満たすものはなかった。達成感すら湧いてこなかった。冷たい水の感触だけが、いつまでも胸の中に留まっているような気がした。
おもむろに立ちあがれば、背後から足音。
坂を下ってきたそれは、レイラのすぐ後ろまで来て止まった。
「……魔女は?」
足音の主は訊ねた。
「死んだ」
レイラは振り返らず答えた。
池を見つめ続けていた。凍えるような風が吹きつけ、水面は震えていた。
「そうか。これから、どうするの?」
相手はふたたび訊ねてきた。
レイラはいつまでも水面を見つめていた。
「……さあな。決めてない」
「じゃあ――」
「一緒には行かないぞ」
レイラは先んじて相手の提案を遮った。
返ったのは唸り声だ。相手は納得しなかった。
「どうして?」
「まだ足りないからだ」
「なにが?」
レイラは己の胸を見下ろす。その中は空虚で、けれど痛い。
「……罰だ。アタシは大勢殺してきた。中には、きっと殺さなくていい命もあった。いや、殺していい命なんてなかったのかもしれない。裏切った相手だっている。アタシは、その罪と向き合わなくちゃいけない。受け入れて苦しまなくちゃいけないんだ」
二人の間を乾いた風が吹き抜ける。
一瞬の沈黙が、その音を大きく錯覚させた後、相手は震える声でこう返した。
「……それなら、独りじゃなくてもいいじゃないか」
「え?」
思わずレイラは振り返ってしまう。もう相手の顔も見ず、立ち去るつもりでいたのに。
醜い傷痕の女を見る。月明かりに煌めく涙に濡れた、その美しい女を見る。
「お父さん、言ってたんでしょ? 罰は罪を自覚して苦しむことだって。なら、独りになる必要なんてない」
「……」
「そうでしょ……シンデレラ」
ドン。
胸の中には痛みしかない。
それ以外は、果てしない空虚ばかりのはずなのに。
熱くなる。胸が、殴られたように熱くなる。
「……アタシを、その名で呼ぶな」
「どうしてッ!」
拒絶すれば、怒りの声がさらに強く胸を殴りつけた。
そんな真摯な声は、久しく聞かなかった。
あるいは、生まれて初めて聞いたのかもしれない。
「人生狂わされて、幸せになるはずの時間奪われて……。魔女がいた間、確かにその名前さえ憎かったかもしれない。でも魔女は死んだ。もう過去を捨てて生きなくていいんだ」
「それは……」
レイラは口ごもる。なにか反射的に返したいのに、言葉が見つからなかった。
「思い出すの辛いかもしれない。苦しいかもしれない。でもあの頃、幸せだったんでしょ? だから、ここにいるんでしょ?」
ラーナは泣きながら近づいてくる。
レイラは後退ろうとする。
けれど、後ろは池だ。退くことはできない。
「もう自分を偽る必要ない。シンデレラで、いいはずだよ」
ラーナの腕が、背中に回りこんできた。
耳もとに息がかかる。
鼓動が伝わる。
それがまた熱をともす。
何もない胸の中に、じんと。
「それでもアタシは独りで行く」
レイラは相手の肩を押して遠ざける。
拒絶ではなく。
相手の目をしっかりと見られるように。
何か言いかけたラーナの唇に指を当て、レイラは言った。
「だから、また出逢ってくれ。もしもアタシを見つけたら」
そして今度は自ら、ラーナの温かな身体を抱きしめた。
「その時もう一度、名前を呼んでくれ」
レイラの目尻から一筋の滴がこぼれ落ちた。
「あぐ……ッ!」
それが土に滲みるより前に、ラーナの鳩尾へ膝蹴りを叩きこんでいた。
ラーナの見開かれた目から急速に光が失われていった。
だから最後の一言は届いていたかどうか。
「……そうしたら、きっとアタシも世界を信じられるから」
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