二十九章 失うよりも永遠な

 血と汗のにおいがした。枯れ葉や木の焦げたにおいも。

 吹きつける風は、いよいよ凍てついた舌のように肌を舐める。間もなく停滞の季節がやって来るのだ、とラーナは、ぶるりと震えながら目を覚ました。


「んん……」


 その目に融けてきたのは、蜂蜜の流動する天井だ。意思を持ったように揺曳する蜂蜜は、時折、赤いものを招いては踊っていた。


 なんか和やかな景色。


 霞がかった意識の中でラーナは思った。

 そして、ふと気付いた。

 蜂蜜は寄せては返す波のように、左からやって来て左へ返っていくことに。


「ん」


 その行方を追おうとしたラーナは、しかし吹きつけた強い風に、まず右を向いた。すると、丸い岩肌が続いているのが見て取れた。その果ては怪物の口腔のような闇で、風が吹くのに合わせて何かがざわざわと蠢いていた。


 どうやら洞窟の中らしい。


 おぼろげな意識のまま、ようやく左に目を転じた。そこに蜂蜜の正体はあった。石に縁どられた焚火が苦しげに揺れていた。弱々しい炎の明かりは、ちろちろと眠気を炙った。それは氷が融けるように消えていった。


「あっ!」


 ラーナは跳ね起きた。


「あいぃ……ッ!」


 たちまち全身に痛みがはしり、顔をしかめた。皮膚の下で、痛みが波打ち拡がっていくような気がした。

 中でも鳩尾の痛みが鮮烈だった。手足にできた無数の擦り傷や痣よりも、それが痛かった。


「はぁ……」


 這う這うの体で壁に寄りかかり、深い吐息をもらした。


「また独りになっちゃったな」


 長い夢を見ていたような気がした。

 どこからが夢だったのだろうか。


 と、ここで話したとき?

 ハガーと出会ったとき?

 旅を始めたとき?

 それとも魔獣に故郷を滅ぼされたときだろうか?


「……」


 ラーナは顔の傷痕に触れた。忌々しいぶよぶよとした感触は、依然そこにあった。

 次いで短剣を探った。近くに帯革ごと投げだされていた。

 抜いてみると赤い。血の色ではない。炎を照り返した色だ。


 けれど解る。


 この短剣は血を吸っている。

 愛する者の血を吸っている。


 そして自分はここにいる。


 すべて夢ではない。現実だ。

 ただ何も残らなかっただけだ。

 愛する者を殺めた罪、その痛み、途方もない孤独の他には、何も。


「どうしよう、これから」


 誰に聞かせるともなく呟いた。そもそも聞いてくれる人など誰もいなかった。


「帰ろうかな……」


 そんな時、思い浮かんだのは師の顔だった。

 ラーナは自嘲的に笑った。

 制止を振り切って山を下りてきたくせに。今更どんな顔で帰るつもりだろう。

 だが他に行くべきところも、行きたいところもなかった。


「……」


 どこにもなかった。どこにも。


『――また出逢ってくれ』


 本当に、そうだろうか。

 行きたい場所があるのではないか。

 思い残した事があるのでは――。


「ない、ない、ないよ……!」


 ラーナは頭を抱えた。何も思い出したくなかった。

 それなのに記憶は押しよせる。

 数々の苦しみと決断と温もりを。


 解っている。

 何も残らなかったなんて嘘だ。

 けれど、それはもうここにないのだ。


 ラーナはその事実を確かめるようにして、もう一度洞窟の中を眺めた。

 壁際に目を留めると、そこにの姿をまざまざと思い浮かべることができた。

 一緒にいられた時間は短かった。ハガーとの旅よりもずっと。


 それなのに濃厚だった。


 はあの壁で、自身の過去を語ってくれた。

 迷う自分に『信じろ』と言ってくれた。

 山の頂で、ハガーを救うため、共に戦ってくれた。

 手を繋げたのだと思っていた。

 ハガーを信じたように、を信じたつもりでいたのだ。


「……でも、もういない」


 ラーナは炎に目を戻した。

 それは、すっかり消えかかっていた。

 ラーナはおもむろに薪の代わりを探した。しかし寝床の枯れ葉くらいしか燃えそうなものはない。


 荷物の中に何かなかったかな?


 壁際に置かれた荷物袋を引き寄せ、中をまさぐった。


「ない」


 ラーナは苦笑し、袋を元の場所へ戻そうとした。


「……?」


 すると、そこに小袋が転がっているのを見つけた。

 中を見て、胸の奥が熱くなった。


「なんだよ……」


 そこに樹皮があったからだ。

 いつかが焚火の中に放っていた、シラカンバの樹皮があったからだ。


「なんだよ、あいつ!」


 胸の熱がラーナを衝き動かした。

 全身の痛みにも構わず、の痕跡を探し始めた。


 小袋の下、帯革の下、敷き詰められた落ち葉の裏、焚火の周囲、洞窟の奥――。


 他のどこにも、の痕跡は見つけられなかった。

 しかし、ラーナは探し続けた。

 そもそも自分がここにいる事が、が存在した証だったから。

 一度は検めたはずの荷物袋を再度まさぐった。

 あるはずがない。何もあるはずがない。

 そう諦めかけていたときだった。


「あった……」


 ラーナは見出した。

 荷物袋に挿された羊皮紙だった。

 訳文とは別のもう一枚だ。

 捨ててやろうと思っていた、あの下手くそな地図だ。

 その裏に、植物の汁が滲んでいた。

 汚れや黴ではない、それは文字だった。


 したためられていたのは一言だった。たった一言だった。


『ありがとう』


 そのたった一言が、ラーナを震わせた。


「ふざけるな」


 わなわなと震わせた。


「それくらい自分の口で言えよ!」


 怒りのあまり膝を殴っていた。痛かった。だがその痛みさえ、を思い出させた。


『――その思いは、勝手に手を離されただけで涸れてしまうようなものか』

「うるさい……」


 ハガーが魔獣になったとき、ラーナは絶望した。大切な人が目の前からいなくなった事実に傷つき、身動ぎひとつできなくなった。

 そんな時、が救ってくれた。

 壊れかけた心に柱をくれた。

 否、橋を架けてくれたのだ。

 大切な者たちと繋がる、決して折れることない橋を。


『……そうしたら、きっとアタシも世界を信じられるから』


 そして、それはにも繋がっているのだった。


「ああ、クソ! めんどくさいな、あいつッ!」


 何も残っていないはずがなかった。

 ハガーのことも、のことも。

 渡された橋から、絶えることなく流れこんでくる。


 忘れようとしても、忘れられない。

 偽ろうとしても、偽れるものではない。


 所詮、己さえ自由に操れない人間だから。


「……見つけてやる。見つけてやるから、絶対に」


 失うよりも永遠な、に抗えるはずもない。

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