二十七章 あなたがいるということ

 噴きあがった血がレイラの顔に降りかかった。

 魔獣が僅かに顎をひらけば、ウェイグの亡骸はずるりと抜け落ち、血だまりの中に沈んだ。


 白銀の双眸そうぼうが、ひたとレイラを見据える。

 次こそは、お前の番だと言うように。

 そして、ふらつく足で地を踏み砕いた。

 レイラは後方の樹木にロープを絡ませ、無理やり立ちあがった。

 双方、満身創痍だ。

 すぐさま駆けだす余力もない。


「……アタシもお前も、いよいよ独りだな」


 レイラはショートソードを構え、力なく笑った。

 一度は諦めようとした命をウェイグが救ってくれた。

 復讐に生きてきた、憎悪と血の人生にも掴めたものはあったのだと教えてくれた。

 けれど救世主は、自分を庇って命を落としてしまった。

 ようやく掴んだもの、掴んでいると気付けたものさえ、運命は無情にさらっていく。


 命とは孤独だ。

 それでも生きなければならないのだろう。

 一つを掴み、何かを託されたなら。

 たとえこの身一つでも、目の前に誰がいなくとも、命とは自分一人のものではないのだから。


「あ、あぁ……クソ!」


 意志に反して、レイラの膝は砕けた。

 魔獣は血を吐いたが、爪で地を抉った。

 縞模様が高く宙を舞った。

 感覚が鈍磨どんまし、異形の巨躯がゆっくりと落ちてきた。

 手のひらの熱だけが鮮烈だった。

 美貌がくしゃりと歪んだ。


 ああ、まだ死にたくないな……。


 こんなことを思うのは、実に七年ぶりだった。

 村人たちに追われたあの日から、忘れてしまった感情だった。


「独りじゃ、ない!」


 その胸を叩く声があった。

 焼けるような熱が飛び込んできた。


 正しく時が動きだした。


 剣が傍らに滑り、レイラは地面を転がった。

 魔獣の爪牙がゴッと風を切り裂いた。

 醜い傷を刻んだ女が、真上から覗きこんできた。


「……ラーナ」


 レイラは彼女の名を呼んだ。

 生きている事に安堵した。

 顔の半分は血で覆われているけれど。

 ここにいる事に安堵した。


「立って!」


 ラーナが手をとった。

 レイラは痛みを堪え立ちあがった。

 手のひらから伝う熱を、己の胸の炎にくべながら!


「来る!」


 ラーナのかけ声で、レイラは反射的に異能を発動した。魔獣を一瞥もせず、結わえたままのロープに己が身を引かせ跳躍する!


 ブゥン!


 耳もとで唸る風。頬にかかる魔獣の吐息。

 尻目に一瞥。

 刹那、交わる災厄と呪いの眼光。


 レイラは意外にも静かな心持ちで対峙した。

 反して魔獣は荒々しく後足のばねを用い、毒々しい斑の風と化す!


「ゴアォン!」


 その時、短い悲鳴があがった。

 ラーナの異能だった。

 レイラは腹のロープを飛ばし、かろうじて近くの枝を掴むと横にとんだ。

 魔獣は頭を振り乱しながら、木々のあわいを驀進ばくしんした!


「ゴガアアアオオォン……!」


 間もなく凄まじい衝突音が山を揺らした!

 魔獣が樹木に突っこんだのだった。

 幹がメキメキと音をたてて割れ、地中からは根がせり上がった。

 樹冠がゆっくりと天を裂いた。大地の神が振るう、巨大な槌の如く!

 まっすぐに魔獣の身体を押し潰す――!


 もはや悲鳴もなく、辺りを埋めつくしたのは雑多な破砕音。

 土や雪が混沌と舞いあがる。


「ッ!」


 掴んだ枝は折れ、レイラはそのまま地面に投げだされた。転がった拍子に口の端が切れ、左腕の裂傷から血が飛んだ。わずかに爪がかすめていた。

 レイラはロープを手許へ戻し、傍らの幹に短剣を刺して立ちあがった。そのまま樹皮を剥ぎ、木部に左腕の血を擦りつけた。

 対面にそびえる樹木にも同様に血を滲みこませた。数歩後ろへ下がると、尻から倒れ込んだ。


 ラーナが傍らに駆けつけた。

 レイラは土埃を睨んでから、ラーナの目をじっと見つめた。


「あいつはまだ死んでない」

「うん、判る」

「じゃあ、できるか?」

「……」


 見つめ返すラーナの目は悲愴に潤んでいた。葛藤が透けて見えるようだ。

 けれどレイラには判る。

 その悲しみは、深いところで彼女の心が決まっている証だと。


「アタシが合図をする。そしたら力を使え」

「うん」

「少しでも力を長く維持できるか?」

「無理すれば多少は」

「じゃあ、無理してみせろ。できるだけ長く奴の視界を奪え。こっちの意図を読まれれば終わりだ」

「分かった」


 決然とした頷きが返る。

 土煙の向こうで、パキパキと乾いた音が鳴る。

 黒いシルエットがむくりと起き上がる。

 迸る殺気が万の針のごとく二人の肌を貫いた。


「……ハガーさん」


 ラーナは短剣を構えた。

 レイラは見上げた。

 ひどく小さな背中だった。震えてなんとも頼りなかった。

 無理もない事だ。

 きっと今、誰より頼りたいのは彼女なのだから。


「大丈夫だ。信じろ。お前が信じてきたものを」


 だからレイラは、彼女の背に触れた。

 掴んだ熱を逃さぬように、そっと。


「……」


 それが伝わったのだろうか。

 次第に震えは治まり、背中は一回り大きく見えた。


 ふいに風が唸った。


 虚空がパンと弾けた。

 衝撃波だった。

 しかし角の欠けた力は不安定で。

 砕けたのは土埃。

 魔獣の巨躯は、その割れ目から飛び出した。赤の斑に染まった形相が死の顎をひらいた。

 もはや咆哮もなかった。


 叫んだのは、






「今だ、ラーナぁ!」






 レイラだった。

 合図とともにラーナは異能を発動した。

 白銀の眼が殺意を留めたまま淀んだ。

 魔獣の足は止まらなかった。風を穿ち迫りきた。迷いなく、思慮もなく、見る見るうちにその輪郭は膨れあがった。


「……ゥ!」


 ラーナは異能を発動し続けた。

 頭の奥に火花が散り、全身の筋肉が痙攣した。眉間が杭を打たれたように痛んだ。顔の傷があの日の恐怖を呼び起こし、煙の中に消えていく魂を幻視させた。


 挫けそうだった。壊れそうだった。

 けれど、背に触れた手のひらは熱くて。

 とくとくと脈を打ち、優しくも力強く心を叩いてくれる。


 ラーナは己の顔を鷲掴み、目を見開いた。

 限界まで異能を酷使し続けた。

 それが魔獣を罠へと導いた。

 獲物へ喰らいつくべく後足が地を砕いた瞬間だ。


 ……バキバキ。


 その身体が跳ね上がり加速して、


「――」


 止まった。

 魔獣の爪が、ラーナの眼前でぴたりと静止した。

 実際は、ほんの一瞬だった。葛藤が知覚させた、長く引き延ばされた一瞬に過ぎなかった。


 ……ハガーさん。


 その間に、様々なものが胸を過ぎった。

 百の、千の迷いが去来した。

 それらと対峙するたび傷つかざるを得なかった。

 だが、受けとめる事もできた。


 ほんの束の間でも交わり。

 後悔を知り、願いに寄り添い。

 いまも信じ続けているから。


 ハガーのことを。

 ハガーを信じる自分のことを。


 いつか――。


 彼の言葉が、態度が、この心を救ってくれたように。

 今度はこちらが手を差し伸べる番だ。

 彼の残してきたものを届ける番だ。

 心が悲鳴を上げようと、傷に裂け血をしぶいたとしても。

 この一瞬を無駄にはできない。無駄にはさせない――!


「ガオオォオオォォオオオォォオォォォオオオオオオォン!」


 魔獣の絶叫が、時の停滞を裂いた。

 突如、両脇から飛来した二本の幹が、魔獣の身体をたたき縫い留めたのだ。


 レイラが咳きこみ血の唾を吐くと同時だった。

 遮二無二ふり回される爪を寸毫すんごうの差でかいくぐり、ラーナは魔獣の眼前に踏みこんだ。


 手の中で短剣の刃が煌めいた。

 白銀の双眸に照り返った光が、ふとそこに意思めいた色彩を宿らせた。


「うああぁぁああぁあああぁあああぁあああぁッ!」


 刃が毛皮を貫いた。


 額の角の根元に深々と突き刺さった。

 その時、魔獣の前足もまたラーナの背へと襲いかかっていた。


「ガァ……」


 ところが、それは接触の間際で力を失った。

 彼女を抱きしめるように止まったのだ。


「あ……」


 魔獣の額の傷が歪んだ。

 ラーナの顔が歪んだ。

 次の瞬間、魔獣の輪郭は融けるように崩れた。


「ハガー、さん……」


 手中から短剣がこぼれ落ちた。

 恐るおそる手を伸ばした先は虚空だった。


「あ、あァ……っ」


 ラーナはくずおれた。

 たまらず顔を覆えば、とめどなく涙。

 堰き止めていた感情が溢れだしてきた。


「あああぁぁああぁあああぁあぁぁあああああぁああぁ!」


 風が吹いた。

 憐れな旅人を慰めるような穏やかな風だった。

 それは幾らか滴を払うと、やがて歔欷きょきと木々を泣かせ、天高く空へ昇っていった。

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