二十六章 希う未来

 ウェイグはレイラを信じていた。彼女となら〈ガラスの靴〉を手に入れ、共に幸福な未来を歩める気がしていた。

 だが、仮面の中の相貌そうぼうを見た時、裏切りを痛感せずにはおれなかった。

 レイラ・サンディは〈ウズマキ〉だった。〈ガラスの靴〉の許に現れ、旅人を殺す殺戮者だったのだ。


 幾つもの「なんで?」が弾け、無数の「どうして?」が砕けた。


 それを直接、問い質す気にはなれなかった。責める気にもなれなかった。

 もうこれ以上、傷付きたくなかったから。

 眠る彼女をラーナに押しつけ、あの場から去ったのだった。


 夢は、ふと気付いたときには、もう始まっているものだ。

 いつから冒険者を志したのかは判然としない。

 けれど夢の終わりは明確だった。


 ……冒険者を引退しよう。


 そう思った瞬間が、長い夢の終わりだった。


「なら、お前ともお別れしなくちゃな」


 ウェイグは腰にいた剣を撫でた。

 いつも一緒にいてくれた、大切な相棒だった。

 適当なところで売りさばく気にはなれなかった。


「相応しい墓が必要だな」


 幸い、〈悪魔の手〉は目前だった。

〈ガラスの靴〉に惑わされた愚か者の剣。

 それを眠らせるのに、これ以上相応しい場所はないような気がした。


 レイラのこと、魔獣のこと、今後のこと。

 何一つ考えようとはしなかった。

 ウェイグはただ最後の旅を始め、重い一歩一歩を踏みしめた。


「いつか、お前を負って歩いたときは辛かったな」


 何度も剣の鞘を掴んで歩いた。

 何度も柄に触れ話しかけた。

 歩みは重くても、相棒はちっとも重くなかった。

 いつの間にか、こんなにも馴染んでいた。

 こんなにも馴染むまで、こいつは付き合ってくれた。


 俺は、本当に冒険者を辞めるのか?


 ふいに逡巡が胸を過ぎった。

 故郷を捨てたあの日から、掴もうとしたものは、すべてこの手の中をすり抜けていった。


 それなのに今度は、自ら手離してしまうのか?


 踏みだした身体が左に傾いだ。

 ウェイグは足を止め、剣を見下ろした。

 柄に手をかけてみた。抜けば、違和感があった。手に吸いついてくるようなのに、どこかぎこちなかった。


「……」


 ウェイグは剣を目の前にかざした。白い輝きが眩しかった。

 だが、何故だろう。

 輝きの中に、深い闇が見えた。

 自分の手も、互いの目さえも見えない夜の闇が見えた。


『それでも嬉しかったです』


 と、闇は言った。


「……俺も嬉しかったよ」


 と、ウェイグは答えた。

 その時には、もう気付いていた。

 夢はまだ終わっていないのだと。


「レイラちゃん」


 俺は君を信じたかった。

 でも、いつの間にか信じてた。

 ふと気付いたときには、もう始まってたんだ。


「ゴアアアアアアアアアァアァアアアァァァアア!」


 どこか遠くで魔獣が鳴いた。

 空が鳴いた。

 それだけでウェイグは、すべてを悟ったような気がした。

 剣を手に、駆け出していた。

 馴染んでいた。馴染んでいた。

 剣も、足も、心も、何もかもが。



――



 そして今!


「ゴアァッ!」


 振りかぶられた爪を避け、ウェイグは魔獣の前足に短剣をねじり込んだ!


「ぬっ!」


 浅かった。

 すぐさま得物を手離し、後退した。

 魔獣の二撃目が眼前を過ぎる。爪の先が喉をかすめ、すぅと赤い線を引いた。

 同時に襲いかかる風圧を推進力に、ウェイグは魔獣の側面へ回りこむ。すがめた目に敵を捉え、最後の刺突短剣スティレットを抜いて踏みだした。


 瞬間、魔獣の前足が地を掴んだ。

 冒険者の眼前に、巨躯の肩部が迫った。

 でたらめな姿勢のままくり出された体当たりだ!


「うぉ!」


 ウェイグの身体は浮きあがった。

 弾き飛ばされ、骨を千々に砕かれる未来が垣間見えた。

 しかし痛みは、、それだけだった。

 見れば腰にロープが巻きつき、魔獣は眼下。

 真横でなく真上に浮かんでいた。


 ウェイグはレイラを一瞥した。

 彼女もまたウェイグを一瞥し、右腕のロープを虚空に飛ばした。

 その時ヘビのごとくロープが解れ、ウェイグの身体はたちまち重力の手に絡めとられる。

 たたらを踏んだ魔獣の背に落下する。

 ウェイグは短剣を逆手に構えなおした!


「ゲェゴアアアアアアァアァアアァッ!」


 今度は深い!

 剣身が根元まで抉りこまれ、返り血で顔が真っ赤に染まる!

 さらに、樹木にロープを絡ませたレイラが、人間離れした加速を見せた。魔獣の傍らを横切ったかと見る間に、高々と血がしぶき、後足の角が宙を舞う!


「ゲオオオォォォオォォォォオォォオオオォン!」


 雪と土を撥ねとばしながら静止したレイラの手にはショートソードがあった。ウェイグが突き刺した剣だった。

 魔獣は痛みに狂い暴れだした!


「ヌゥア!」


 ウェイグは両手で短剣を握り、機を窺った。首の抜けそうな――全身をばらばらに砕かれてしまいそうな衝撃に耐えた。振り落とされれば、そこを狙われると解っていた。

 だが、これは単純な根競べではない。


「おぉ、おわぁッ!」


 ふいに前足が持ちあがり、重量が束になってウェイグの背を掴んだ。

 魔獣が棹立ちになったのだ!

 それは次なる攻撃の予備動作でもある!

 地を離れた前足が、背中のウェイグを襲う!


「うおおおぁ!」


 たまらずウェイグは手を離し、背を蹴って宙へ躍り出た。

 異形の瞬発力は、人のそれを遥かに凌駕した。

 すぐさま前足を下ろした魔獣は、着地の勢いを後足へ伝達し、蹴りを放った!


「ごあ……ッ!」


 飛び散る土砂とともに、ウェイグは弾き飛ばされた!

 一瞬にして霞んだ視野を幾つもの樹影が過ぎった。

 そして背中から灌木へ叩きつけられた。灌木は幹ごとへし折れ、ウェイグの周囲に枝葉を散らばせた。


「……あッ、おご!」


 ウェイグは赤黒い塊を吐きだした。


「ぁ、ぁあ……っ」


 起き上がろうとするが、できなかった。身体が痙攣して途中で崩れ落ちてしまう。

 視野は隅のほうから黒くなる。死に抱擁される心地がした。


 こんなものか、俺の人生は……。


 ウェイグは心中、己を嘲った。

 結局、誰とも繋がれない人生だった。

 家族を見捨て、相棒を喰らい、ようやくレイラを信じられたと思えた結果がこれだった。


 ああ、俺はどうしてここへ来てしまったんだろう。


 家族を見捨てたときと同じように、踵を返していれば、もっと長く生きられたはずなのに。

 しぶとく生にしがみついていれば、いつか誰かと手を繋げたかもしれないのに。


 でも、俺は選んだんだ……。


 逃げようとする己を引き留め、諦めようとする己を殴りつけ。

 運命や不幸といった詭弁の楯を捨てて。

 今、ここにいる。


「……ぁ、ぁああ、あああ!」


 己に瞞着まんちゃくせず、正直に生きている。


「あああ、ああぁぁぁああああぁああああぁああぁあッ!」


 生まれたての獣のごとく、ウェイグは何度もくずおれながら立ちあがる。闇にとざされそうな目を見開き、いっぱいに世界を取り入れる。


 遠くに聞こえる。

 硬いもの同士のぶつかる音。


 ウェイグは一歩踏み出す。

 震えながらも挫けずに。


 二歩、三歩、四歩――。


 それはやがて駆け足となる。

 幾つもの樹影を追い抜いて。

 無数の枝葉を跳びこして。


 独り闘い続ける女の背中を、はっきりと認めた。

 それだけでウェイグの胸は満たされた。


 彼女の正体は〈ウズマキ〉だ。

 ずっと裏切られていた。

 けれど、共に歩んできた時間すべてが嘘だとは思えなかった。


『それでも嬉しかったです』


 少なくともあの時の彼女は、本物だった。声は哀しく、けれど柔らかで、笑っていた。

 他がすべて嘘でも。

 それすら、ただの勘違いだったとしても。

 あれが唯一、心からの笑顔だったのだと、ウェイグは信じていた。


「レイラ、ちゃん……」


 ギイィン!


 魔獣の爪を受けようとして、レイラが弾き飛ばされた。剣が宙を舞い、レイラの身体は地面に投げだされた。

 そこへ魔獣が襲いかかった。

 大きく禍々しい顎がひらいた。

 ウェイグは一際つよく大地を蹴りつけた。


「レイラあああああああああッ!」


 とっさに地面に転がった魔獣の角を拾いあげ、その首にねじ込んだ!


「グファッ!」


 魔獣が怯んだ。

 しかし一瞬だった。

 前足がかすんだ。


「ヌウウウウッア!」


 真横から爪が抉りこまれた。肩が、腕が、腹が裂けた。おびただしい血が噴きあげ、目の前は真っ赤に染まった。

 ウェイグは角を離さなかった。ひたすらに奥へおくへと押しこみ続けた。


「ウェイグさんッ!」


 悲痛な声が響きわたった。

 姿はもう見えなかった。

 けれど解った。

 彼女が生きていることは。


 吹きつける風は、穏やかに葉擦れの音を運んでくれる。


 ……ああ、そういえば、命は木々の中から生まれたんだったか。


 いつかレイラと共に、木々と癒合した動物たちを見たことがあった。

 神話について話し恐れたことがあった。

 幹の中で息絶えた自分の姿を想像し怯えていた。


『――やっと、誰かのため、そう思える、相手が……』


 しかしいま木々のあわいにあって、ウェイグの心は安らかだった。

 ようやく始まったからだ。

 ウェイグ・アンダーボルトという人間の命が。


「ゲハ……ッ!」


 ウェイグは血の塊を吐きながら笑った。


 そして、願った。


 いつかまたレイラが心から笑える未来を。

 暗闇の中を見通すような気持ちで。


「ガウァ!」


 魔獣の牙が、この命を噛み砕くまで。

 永遠に。

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