二十四章 ガラスの靴
……落ち着け、落ち着け。
得物を握った腕の震えを、ラーナは押さえつけた。
「……」
恐ろしくてならなかったから。
この心を救ってくれた恩人の形相が。
こちらを見上げる暗く
「ハガー、さん」
最早、訊ねるまでもなかった。
目の前にいるのは、以前の彼とは別の存在だった。
「退け」
ハガーが唸った。鼻に寄ったシワが、正体不明の怒りを物語っていた。唇の隙間から溢れでる灰色の吐息は、さながら燻ぶった感情の残りカスだ。まったく獣じみていた。
「……ダメ。ここ通すわけにいかない」
それでもラーナは訴えかけた。
苦手な言葉でなく態度で。
脆くも砕けてしまいそうな悲痛な眼差しで。
ビョウと風を切り、遠ざかるレイラと魔女の姿は、最早その目に映らなかった。
「でも、戦いたくもない」
ラーナは、ただハガーだけを見つめ続けた。
相手の瞳に、かつての光が戻るときを渇望しながら。
しかしハガーの瞳は、雪の白が濃くなるほどに曇っていった。
「黙れ、盗人が……。〈ガラスの靴〉はオレのものだ」
言葉は、ひたすらに鋭かった。
ラーナはつと胸を見下ろした。傷がないのが不思議でならなかった。
「ボクが判らないの?」
訊ねておきながら、答えないでくれと願っていた。
時間など止まってくれれば。
思い出の中に逃げる事ができたなら――。
「お前なんぞ知るか。いいから道を開けろォ!」
しかし時は動きつづけ、
灰色の雪が舞った。
ハガーが得物片手に地を蹴ったのだ。
「……くそ」
ラーナは歯を噛みしめ目を
そして自らも地を蹴っていた。
衝突は避けられなかった。
覚悟していた。
だから、ここへ来たのではないか。
彼が人でなくなってしまうなら、その前に滅ぼすことが救いなのだと信じて。
「……必要なんだ、オレには」
それなのに。
「救うためにはァ!」
いざ目の前にすると、最後の一歩が踏み出せない――!
「ッ!」
振り下ろされる刃を、とっさに刃で受け止めた。
雪景色に火花が散る。血の涙のごとく。
「……ハガーさん、憶えてるの?」
ラーナは本心を吐露した。
それが醜く穢れた真実の心だった。
そうだ、ボクは……。
何も憶えていて欲しくなかったのだと気付く。
理性さえ残っていなければ、躊躇なく刃を抉りこめたはずだから。
今より苦しまずに済んだから。
「うるさい……」
けれど、ハガーがまだここにいるのなら。
魔獣になった男を討つのではなく、ハガーを殺さなければならないのだと突きつけられてしまったら。
薄っぺらな覚悟など揺らいでしまう。
「退けェ!」
「あぐっ……!」
ハガーの蹴りが腹を抉った。重く容赦ない一撃だった。
そこに振り下ろされる斜めの斬撃!
「くぅ……ぁ!」
上半身を反らし、かろうじて躱した。刃が鼻先をかすめ、包帯が落ちた。醜い傷痕があらわとなった。
ハガーは驚きも恐れもしなかった。爛々と光る目で敵を睨み、横に縦にと短剣をふり回した。
「クソ!」
ラーナはそれを的確に受けながら、いよいよ顔の熱に頼った。眼差しが矢のごとくハガーを射抜いた。
「ぐあッ! なんだ……」
ハガーは目許を押さえた。
ラーナは踏みこんだ。
相手の胸へ跳びこみ、押し倒した。馬乗りになった。手首をがっちりと掴み、ハガーの双眸を覗きこんだ。
「目を覚まして、ハガーさん!」
「邪魔するんじゃねぇ! あれはオレのもんだッ!」
「じゃあ、どうしてあれが欲しいの!」
「必要だからだ。オレの心救うためにはッ!」
「ハガーさんを救うってなに? それって誰のためなの?」
「あ? 決まってんだろうが。オレ以外の誰のためでもねぇ。誰にも渡さねぇ。アハハ! オレはあれと共に生きていくんだァ!」
「この分からず屋ァ!」
ラーナは思いきり頭を突き落とした。バゴと鈍い音が鳴り、二人の額が衝突した。
互いに歯を食いしばり睨み合う。
ハガーの目に、純然たる怒りと憎しみが渦を巻く。
「やっぱり憶えてないんだね……」
「さっきから訳の分からんことばかり。何をしに来たんだ、てめぇは!」
ハガーの言葉は、すべて胸に痛かった。
ラーナは顔をしかめずにはいられなかった。
挫けそうだった。逃げ出してしまいたかった。
けれど、それ以上に救いたかった。
この心を救ってくれた、ハガーの心を。
二人は再び額を触れ合わせた。
今度は、ゆっくりと静かに。
ラーナは告げる。
「……忘れ物を届けに来たんだ」
「は?」
「ボクのことはいい。忘れられたって構わない。その苦しみを受けとめるのはボクだから。でも」
人は勝手な生き物だ。相手に手を差し伸べておきながら、どこかに必ず自分の姿を見ている。
ボクにとって……。
ハガーを殺すことは、自分の心に決着をつけることだった。彼を救うと
所詮、そんな卑しい生き物なのだ。
穢れを塗りたくり、醜さに爛れたバケモノなのだ。
辛くて、苦しくて、悲しくてたまらない、弱い存在なのだ。
だが、そんな当然のことが諦める理由になどなるものか。
いつかこの胸を満たしたものも、きっと独りよがりだった。
誰かの独りよがりな言動が、人を救うことだってあるのだ。
なら、独りよがりで結構だ。
この思いさえ、偽物でないのなら。
「ハガーさんが大事に抱えてきたものは憶えていて。愛する人がいる事。そのために生きてきた誇りを」
ラーナはもう一度、相手に額を打ちつけた。
「ッ!」
視界がぐらりと揺れた。
それでも視線だけは真っ直ぐにハガーを見据え続けた。
「忘れるな……忘れるな、ハガーッ!」
額から赤い血が流れた。その一滴が、ハガーの目尻に落ちた。
「なんだよ、わけ分からねぇな……」
ハガーが怒りを吐き出した。
「……」
ラーナはそれを受けとめた。
「クソ……!」
すると突然、ハガーの表情が歪んだ。
苦しげに。悲しげに。怯えるように。
血の赤色が、目尻からつぅとこぼれ落ちた。
「……オレは、なんのために」
「憶えてるはず。ここまで来たんだ、そのために」
思い出さぬままいるほうが、ハガーにとっては楽なのかもしれない。
けれど、楽である事が必ずしも幸福だとは限らない。
もし、それが幸福なのなら、ラーナは、ここには来なかった。
幸福とは、きっと気付きなのだ。
一つの楽しみや喜びの中にあるとは限らない、辛苦にさえ
だから大切なものを忘れ、無情な現実さえ翳って見えなくなったとき、人生は虚無になり果てる。
「あ、あぁ! オレは……ッ!」
「大丈夫。思い出して。必ず救いがあるから」
ハガーと初めて会ったとき、こうして声をかけたのを思い出す。
死んで欲しくないと思った。生きていて欲しいと願った。
世界がハガーを見捨てるほど残酷ではないと信じたかった。
実状、世界は残酷で、どこまでも無情だった。
『信じるものは、お前が決めろ。そうでなくちゃ、目の前のものにすら気付けない』
それでもラーナは信じる。信じ続けるのだ。
「……あいつを、オレは」
たった一束、たった一筋降りかかった、希望の温もりを。
「エル、マ……」
大切な人と出会えた一瞬を。
「ヴァン」
「ハガーさん……!」
ハガーの眼差しから怒りが霧散した。
途方もない悲しみとそれ以上の喜びが、複雑な渦を描いて、ラーナの胸にまで押し寄せた。
「逃げろ」
しかし目に映る現実の姿は、やはり残酷で。
「……フフ」
ハガーの瞳の奥、鏡のごとく映しだされたラーナの背後に、それは現れた。
「邪魔よ」
婦人帽を載せた闇貌が。
――
時は遡り。
因縁の相手と対峙したレイラは、得物を抜くなり跳びかかった。
両手の中には使い慣れた短剣。
腕に巻きついたロープは宙に踊り狂い、先端に結わえられた短剣を煌めかせる。
「今度こそ殺してやる、ジュスティーヌ!」
咆哮。
と同時に、一方のロープが雪の地面に喰らいつく。ロープが波打ち力を伝える。レイラの身体は前方に弾き出される!
肉薄まで瞬く間もない。
両手とロープ――計三本の刃が雪のなかに閃いた!
「情熱的ね」
しかし斬撃は、ことごとく魔女に届かなかった。踊るような足さばきで二刃を躱され、複雑な軌道で襲いかかる一刃は側面を打って逸らされた。
さらに舞いあがる雪煙を、レースの手袋が穿つ!
レイラは首を曲げて躱し、振り下ろした刃を下から上へ掬い上げた。
ジュスティーヌがその腕を掴む。
身体ごと懐にとびこめば笑った。
「可愛いわ、シンデレラ」
蕩けるような声とともに、レイラの視界が反転する!
「かッ……!」
背中から担ぎあげられるようにして地面へ叩きつけられた!
そこへ迫る、鋭いヒールのストンピング!
レイラは斜面を転がり落ちながら、獣じみた動きで起きあがる。
その時、すでに刃を結わえたロープは、ジュスティーヌへ襲いかかっている。
魔女は先と同じ要領で刃を逸らそうとしたが、
「……!」
接触の直前で手を引っこめた。
その切っ先は小刻みに揺れながら尚且つ回転しているからだ!
「……あァら」
ドレスの袖が裂けた。真白な手首に刻まれる、螺旋状の赤。
「逞しいのね」
そこへもう一方のロープが背後から飛来。
正面からはレイラ本人が接近する。
魔女は動じた様子もなく首を傾げた。
すると次の瞬間、魔女の背景が歪んだ。輪郭を失い、真横に流れる色の奔流と化した。レイラの左半身を殴りつけるような風圧が襲った。
間もなくレイラの視界から魔女の姿が消え失せた!
急速に臓物の沈みこむ感覚が襲い来る。
風圧は左半身から頭上へ。
腕が軋み、雪の紗が濃さを増す。
レイラは眼下を見下ろす。ロープを放ったジュスティーヌの
「な……ッ」
身体が――浮いている。
ロープごと宙へ投げだされている!
「クソッ」
レイラは追撃を諦め手中の短剣を収めると、ロープの切っ先に意識を集中した。虚空を舞ったロープを地面に突き刺し、落下のエネルギーを微調整しつつ敵を警戒する。
ところがジュスティーヌは追撃にでるどころか、山の斜面を駆けあがり始めた!
まずい……!
狙いはすぐにわかった。
山頂だ。
あそこには奇怪に蠢く樹木――〈ガラスの靴〉の欠片がある!
「させるか……!」
レイラはあえて力を前に送りだした。
山頂付近への落下を試みる。
衝撃緩和は不十分だ。高さもまだかなりある。
だが賭けるしかない。
欠片を奪われれば、今度こそ魔獣は完成する。それではまたジュスティーヌを取り逃がす。
「忘れるな、ハガーッ!」
……あいつの思いも無駄になる。
「うおあああああああッ!」
レイラは叫び、放物線を描きながら斜面にとび込んで行く!
魂の炎の熱を全身に行き渡らせる!
復讐心を、失ってきたものの虚しさを、ほんの一瞬交わった者たちの嘆きをくべる!
衝突の瞬間、レイラは身体を捻りエネルギーの相殺を試みた!
「うううぅぅぅっあああッ!」
しかし全身に返る力は凄まじい。左手の指がメキメキと嫌な音をたて、肘や肩といった間接部で肉の潰れる激痛がはしった。
無様に斜面を転がり、やがてくの字姿勢で山頂の縁に止まった。
「う、うあ……ぁ!」
レイラは滲んだ血の味ごと奥歯を噛みしめ、右半身の力だけで起き上がろうとする。
その眼前に深緑のドレスが揺れる。
場違いなハイヒールが雪を踏みしめ、傍らを過ぎった。
レイラは異能の力で横たわったロープを呼び戻す。短剣が鎌首をもたげ、魔女の背に襲いかかる。
その時、刃のようなヒールが、
「あっが、あぁッ!」
投げだされた左手を踏み付けた。
激痛に視界がかすみ、飛来した刃は虚空を穿った。
ジュスティーヌはそれを顧みもせず、異形の樹へと歩み寄っていく。
レイラは遠のいた己を引き留め、ふたたび魂の炎にくべる。
ロープの力で身体を支え、震えながら立ちあがる。
もう一方のロープが息を吹き返す。
袖を振って収めた短剣を右手に抜き放ち、足許の雪を蹴る。
耳もとで風が唸り、空がゴゴゴと喉を鳴らす。
ジュスティーヌが振り返り構える。
「ヌアぁ!」
レイラは手中の短剣を閃かせる。
異能の刃は足を狙う。
「フフ……」
その時、魔女の足許に半円が刻まれた。
空の手は残像を伴いかすんだ。
受け流されるか、掴まれるか。
手数を一つ失った今、勝機は遠い。
だが、残された刃は三本だ。
「無駄よ」
腕を掴まれ、ロープを躱されても。
「まだだ!」
手数はもう一つ残っている。
ジュスティーヌ本体へ向かわず、足許に脈動するロープ。
それが突如びくんと震えあがり、雪を撥ね上げた。
「……!」
魔女の漆黒のベールを雪の純白が覆い隠す!
その一瞬の硬直。
レイラは踏みこみ、敵の左足を踏んだ!
「……っらあああああァ!」
そして、渾身の力で頭突きを叩きこむ!
「ぐあ……ッ!」
右腕を掴んだ力が緩む。
レイラはそれを振り解き、短剣をまっすぐに突き出した!
ジュスティーヌはとっさに胸を抱いた。刃が腕に突き刺さった。
ビョウ!
直後、魔女の背後で風が啼く。
足を踏まれ、躱すことはできない。
ところが、魔女の腕が人間離れした挙動で後ろへ折れ曲がる。
それが刃を上から叩き落とす。
「ッ!」
しかし、それすらも想定内だ。
接触の寸前、刃は軌道を変えている。
斜めに急降下――。
「あらま……?」
魔女の右足首を斬り飛ばした!
……ここだ!
レイラは勝機を垣間見た。
相手の腕に刺さった短剣を抜いた。逆手に構えた。傾ぐ魔女の首目がけ振り下ろした!
「強くなったわね」
その風圧でベールが揺れた。あらわになった唇がにぃと歪んだ。
と同時、視界の端に過ぎるものが見えた。
先のない足だと気付いたときには遅かった。
こめかみに痛みが突き抜ける!
「ガ……ッ!」
身体が真横へ吹っ飛ぶ!
ジュスティーヌは勢い倒れこむと同時、三連続で後転した。
その背が脈打つ幹に触れた。
「フフ、今回もあなたの負けね?」
レイラは姿勢をたて直し、目を剥いた。
「足を失っておいて何を。もう逃げられんぞ」
「あらァ、ワタシの力を忘れたの?」
ジュスティーヌはくつくつと笑い、幹に白い手のひらを重ねた。
「クソ!」
レイラは顔をしかめた。
奴の名はジュスティーヌ。
またの名を〈闇貌の魔女〉。
神話における動物のルーツ。
植物に動物を孕ませ、神の箱庭を賑わわせた始祖の人間。
その真偽は定かではない。
だが、レイラは知っている。
魔女と幾度も切り結ぶ中で。
少なくとも、その一部が真実である事を。
「死ね!」
ロープが唸る。風が切れる。
魔女の胸もとに刃が迫る!
ザクッ!
刃が肉を抉る!
肉から血がしぶく!
「フフフ……」
しかしジュスティーヌは無傷だった。
刃が貫いたのは、彼女の前にとつじょ現れた巨大な獣の足だった。
それはミチミチと啼く樹木から生えていた。
さらに樹皮は歪み、繊維状に分かれ、雪の色を滲みこませたように白く染まる。
やがてそれはもう一本の足を成し、たちまち狼の頭、胴、後足、尾を形作り、魔女の傍らに現出した。
「遊んであげなさい」
魔女の甘い声に、白狼の耳がぴくんと逆立った。
その輪郭が霞のごとくぼやけた。一面の白に、黄金色の双眸が残像の尾をひいた。
左腕のロープが地面を噛み、レイラは真横に跳んだ。白狼の爪牙が虚空を裂いた。
「ぁッ!」
しかし左腕の痛みは凄烈だ。反撃にまで意識が回らない。
一方ジュスティーヌは、白狼の生みだされた空洞に片手を突っこんだ。
そうして摘まみだされたのは、ほんの一インチほどの欠片だった。やや青みがかって透明なガラスの破片だった。
ところが、その周囲の空間だけは、水に浸ったように歪んでいた。
舞い落ちる雪は、それを避けて魔女の手のうえで融ける。
〈ガラスの靴〉の欠片だった。
ミチ、ミチ……。
間もなく異形の樹の脈動が止まる。蠢く鱗片状の葉がぼとぼとと崩れ落ちる。
パキパキ。
見る見るうちに樹皮が割れ、一つふたつと枝が落ちる。
「さあ、おいでなさい」
傍らに転がった一つを、魔女はイノシシに変身させた。それを支えに立ちあがった。
「逃がすかァ!」
レイラの右腕のロープが脈打ち空を馳せた!
「グル……ゥ!」
そこに割りこむ白狼!
獣の脇腹に刃が突き刺さり、毛皮を赤く染め上げる!
その隙にジュスティーヌは、イノシシに飛び乗った。
猪突猛進。雪上を裂き始める!
「うぅああ!」
レイラの背中が燃えるような熱を発した。
両腕のロープがどくんと拍動した。白狼に突き刺さった短剣が、そのまま肉を真横に裂いた。臓物が溢れだし、白狼が痙攣した。
左腕のロープが雪を噛む!
レイラは高く跳躍する!
「……あああぁあああぁああ!」
左腕とともに絶叫する。
ブチブチと筋肉の切れる音。
石を擦り合わせたように関節が軋み、意識まで雪色に染めあげられる。
だが、その眼下にジュスティーヌの背中。
レイラは空中で短剣を投擲する!
「ビイィィイィッ!」
それは魔女でなくイノシシの後足を断った。
魔女が雪上に投げだされ、斜面を転がり落ちた。
「ぐはッ!」
レイラもまた斜面に投げだされた。
しかし彼女を打ち出したロープは、地面を噛んだままだ。伸びきったロープがレイラの動きを止め、左腕の痛みは意識を焦がした。
ジュスティーヌはふらつきながら立ちあがる。片足を引きずり、組み伏せられたハガーの許へ歩み寄る。
「フフ……邪魔よ」
「うが……ッ!」
先の欠けた足でラーナを蹴り飛ばした。
ハガーを見下ろすと、手に握ったそれを放した。
「待、て……」
ハガーは呻いた。
その額に、落ちた欠片が触れた。
たちまち額の皮膚が波紋をうった。水面のごとく揺らいだ。
……ズブ。
欠片は沈みはじめた。体内に沈んでいった。
「オレには、帰る、場所が……」
譫言をもらすハガーの許に、魔女は屈みこんだ。ベールを持ちあげ真紅の唇をあらわにした。うねる舌が唇を舐め、その隙間から無機質な白い歯が覗いた。
次の瞬間、ジュスティーヌは口づけした。
「う……ッ!」
ハガーが目を剥いた。
……ドクン。
その背が反りかえった。
……ドクン。
稲光が空を裂いた。
ドクン。
大気が鳴動した。
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