二十三章 そこにある温もり

 耳もとで風が吼える度、臓物が背後に捨て置かれるような心地がする。冷えた空気が塊になって押しよせ、あるいは自ら塊に突き進みながら、木々のあわいを残像と化してけてゆく。

 足は土を掴まず、手は枝葉をかき分けず、一瞬にして背後に消える景色や匂いを確かめる余裕など当然あるはずもなく。

 眼前に幹が迫れば、衝突の寸前で視界は叩きあげられる。置いてきたはずの臓物が、とたんに腹の底から胸にまで跳ね上がった。


「おわあああああああああああぁ!」


 その時、首根っこを噛むようにしがみついた包帯女が悲鳴を上げた。

 レイラは顔をしかめ、腰に巻きつけたロープを眼下の枝に急降下した。


「うわあああああああぁん!」


 悲鳴はたちまち慟哭へと変わった。

 レイラは顔をしかめた。


「うるさいぞ! アタシの耳を潰す気かッ!」

「だってぇ! お前こそ殺す気か! もしも木にぶつかったら、って、待っ、きゃああああああああッ!」


 ロープは木の幹に絡みつき、二人を引き寄せる。空中で弾かれたように加速した瞬間、もう一本のロープが次の幹を掴む。それがまた二人を引き寄せ、急角度で方向転換――。


「たすけてええええええええぇ!」


 うるさい。ますます喧しい。

 だが、集中を切らすわけにはいかない。少しでも異能の操作を誤れば、たちまち地面のシミとなる。

 レイラはロープに滲みこんだ、己が血を意識する。


「ひゃ……っ!」


 その時、ラーナの頸部すれすれに剥き出しの枝がかすめた。しがみつく腕にいっそう力がこもった。レイラの鎖骨が悲鳴をあげた。


「おいぃ、死にたくないなら力を緩めろ……。耳のまえに喉が潰れる……ッ!」


 二人の相性は――決してよくはない。

 だが、目的は一致していた。

〈ガラスの靴〉の欠片へ辿り着くこと。


 欲望に寄生されたハガーは。

 彼を魔獣に至らしめようと画策する魔女は。

 必ずやそこに現れるはずだから。


 幸いにして、二人が休止をとった洞窟は〈悪魔の手〉にあった。正確に言えば、その小指にあたる山麓にあった。

 レイラの異能によって高速で移動する二人は、すでに無名指の中腹を突破し、山頂へ至ろうとしている。

 悪路に立ち往生することなく、足腰が疲弊することもなければ、さして険しい道程ではなかった。


「そろそろ下りるぞ!」


 しかし異能を用いての移動にも限界というものはある。

 頂上が近づけば近づくほど、樹木の数が減少していくからだ。

 辺りはすでに連なりがまばらで、地面は岩肌を剥きだし薄く雪をかぶっていた。

 レイラは異能の力を微調整し、樹木に短剣を刺して勢いを殺した。その間も無数の樹木が傍らを過ぎり、ラーナは目をつむり身を固くしていた。


 ……サク。


 やがて雪を踏んだレイラは、離れろと吐き捨てた。

 ラーナは、鼻をすんすん鳴らしながら腕の力を強めた。


「見捨てるのか! まだ死にたくない!」

「違う! もう下りたんだよ、バカ。早く離れろ、気色悪い」

「……本当に?」


 恐るおそる片目を開けるラーナ。

 地面の斑をなした白にぎょっとする。さすがに雲海の只中とまでは思わなかったらしいが、慎重に片足ずつ感触を確かめる。三度も四度も足踏みすると、ようやく離れた。


「……死ぬかと思った」

「こっちの科白せりふだ」


 レイラは首筋を撫でながら歩きだした。

 震えの残る足でラーナが続いた。


 ……さすがに山中は冷えるな。


 好天に明けた空は、今や鈍色だった。

 それが山の見せる天の気色であった。山の天候とは、とにかく移ろいやすく容赦がないのだ。暖かな陽光の恵みは、まばたきに見る刹那の闇に似ている。突然の雷雨や吹雪こそが実像であり、闇の裏側――光に刻まれた情景こそが、山の平時に他ならない。

 ゆえに猟師の中には、山を「神域」と捉え畏れる者も多い。高みへ挑めば、これが天の神の怒りに触れると信じられているのだ。

 レイラにそのような信心深さはないが、山の険しさまで侮るつもりはなかった。吹きつける風の冷たさは、すでに身に沁みて指先を棒きれのように固まらせていた。異能による移動の影響で睫毛は白く凍り、裂けた唇には赤い線が刻まれていた。


「……」


 レイラは肩越しにラーナを盗み見た。

 彼女はまだ地上を歩いているのが信じられないのか、俯きがちに歩を進めていた。

 その頬は、窓の内側でともった暖炉の火のごとく微かな朱だ。

 即ち彼女が熱だったが、こちらから離れろと言った手前、こっちへ来てくれと言うのもバツが悪い。


「……はぁ」


 しかし、つまらない意地や恥じらいで暖はとれない。

 神域へ踏み入るのに、ひと独りの身では脆すぎる。


「……」


 レイラはラーナの熱を求め、肩を並べた。

 二人の肌はぎこちなく触れ合った。その度にともる熱は、しかし火花の如く刹那的でありながら鮮烈でもあった。


 ザク、ザック、サク――。


 不調和の足音は、二人の接触とともに重なっていった。

 たった二人の、ほんの四つの足音は、次第に重畳の響きを帯びはじめた。


 サク、サク、サク、サク。


 そして、ある時点で一つとなる。音と音の線がぴったりと重なり合う。まるで一人だけが歩いているかのように。


「……〈ガラスの靴〉が欲しかったんだ」


 そこに言の葉を載せたのはラーナだった。

 レイラはその横顔を一瞥した。

 フードが邪魔で表情は見えなかった。吐き出された息だけが、はっきりと白かった。


「欠片じゃなくて、魔法の道具のほう。傷消えれば、幸せだった頃に戻れると思ったから。知ってる人もういなくても。人の中で生きられるって」

「……」


〈呪痕〉は魔獣から受けた傷だ。おまけにラーナの傷は顔にある。どんな人生を送ってきたかは想像に難くなかった。


「でもボク、ある人に拾われて一緒に生活してた。厳しかったけど優しい人……。独りじゃなかった。なのに、その人の許を去って、今日まで旅してきた」

「信用できなかったのか?」


 自然と問いを返していた。それに違和感さえ覚えないほど、無意識に言葉がもれていた。

 ラーナは白い塊を吐くと、かぶりを振った。


「信用してる、今も。でもボクら、互いに〈呪痕〉もちで。こそこそ隠れなくちゃいけないの苦しかった。生きてる事、間違ってる気がした。故郷のみんな殺されて、自分だけ生き残って。自分だけ違うところにいて、それで……」


 依然、表情は見えない。

 けれど相手の感じている痛みは、この胸に流れこんでくる。

 目許を拭う、その仕種を見るまでもなく。


「……」


 あまりに違うから。

 いっそう憐れに映るのだ。


 この女は優しすぎる。

〈呪痕〉もちに待つのは惨たらしい迫害だというのに。化け物と罵られ、私刑さえまかり通るというのに。

 きっとそんな哀しい運命にさらされてきたはずなのに。


 ラーナは、人を、世界を、恨み切れていない。

 運命を呪い、不幸を嘆き、しかしその矛先を外でなく内へ向けてしまう。まるで自ら罪を犯した咎人のように。


「でも、ハガーさん普通に接してくれた」


 そんな彼女も、ハガーの名前が出た一瞬、声を弾ませた。

 しかし、それもすぐに沈んだ。


「……利用、されたのかもしれないけど。〈ガラスの靴〉が欲望を膨らませるなら」

「そういう事もあるだろう。あいつは不完全だったし」

「そっか……」


 正直な返答は、ラーナを傷つけたようだった。

 彼女はうつむいた。

 その正面に樹木がそびえ立っていた。


「危ない!」


 レイラは、とっさに相手の腰を引き寄せた。


「……」


 そして、正面から向き合った。

 意外にも乾いた目があった。

 けれど潤んでいない分、それはひび割れてしまいそうだった。

 誰かが潤してやらなければいけない気がした。

 その「誰か」は、ここに一人しかいなかった。

 レイラは彼女と密着したまま、目を逸らせずにいた。


「でもお前は、あいつに出逢って自分を赦せたんだろう?」

「えっ?」

「あいつを信じて、今も信じてる。だからアタシに付いてきた、そうじゃないのか?」

「それは……」


 ラーナは、おもむろにレイラの腕を離れた。胸に手を当て、瞑目した。

 レイラの目には、その姿が弱々しいもう一人の自分のように見えた。


「信じ続けろ。運命も、種も関係ない」


 だから、強く訴えかけずにはいられなかった。

 自分が踏んできた轍の上を歩いて欲しくなかった。


『今が誤った過去になったとしても、また新しい今を歩んでいく糧になるさ』


 レイラは手を差し伸べてくれた相手さえ、信じ続けることができなかった。


「信じるものは、お前が決めろ。そうでなくちゃ、目の前のものにすら気付けない」


 今の自分が選ばなければならないものを、ずっと過去に選ばせてきた。


 ……アタシは何をしてきたんだ。


 あの日から、もう七年も経ったというのに。

 握りこんだ拳の中は、未だ空っぽのまま。


「……え」


 空っぽのまま――のはずだったのに。


「ありがとう」


 今、しんと冷えた手に、温かな感触が伝わってきた。

 ラーナの両手の熱がじんと沁みてきた。

 初めての感触ではないはずだった。

 なのに何故か、今はその感触が新鮮に思えた。


『――大好きよ、シンデレラ』


 否、懐かしかったのだ。

 もう二度と感じる事のない温もりが、過去から呼び起こされたような気がして。


「……べつに礼を言われるようなことじゃない」


 けれどレイラは、それをやんわりと振り解き目を逸らした。

 手を離されるのが怖かった。

 相手の瞳に映る自分を見ることさえ。


 ふと空を見上げた。

 樹冠のとり払われた空は広かった。重い鉛のような色をしているのに、窮屈な印象を受けなかった。

 その中から、いま、ひいらりと一片の雪が舞い落ちる。

 白いものの行方をちらりと追えば、


「……おい、あれ」


 レイラは坂の頂にを見出した。

 もはや緑の一つもなく、空と触れあうことを赦された高みの果てに。


 ……ミチミチ、ミチミチ。


 蠢くの姿を。


「なんだよ、あれ……?」


 ラーナもそれを見て取って問うた。困惑と驚嘆とをい交ぜにした声色だった。

 雪の一筆が、間もなく千にも万にもなって景色に白い線を引いた。重なり白い幕が編まれた。

 それでもなお異形の姿は、瞭然としてあった。

 四方八方に、無数の腕のようなものが伸びていた。その表面をことごとく覆うのは鋼色の針だった。まるで獣の毛皮、あるいは竜の鱗のような。

 しかしそれが獣でなければ、ましてや竜でもない事を、レイラは知っていた。


 ミチミチ、ミチミチ……。


 怪物はいていた。嘆きのように。

 風勢ふうせいに依らず蠢いていた。身悶えるように。

 レイラは憐憫とともに瞬くと、やがて答えた。


「訳文の最後の部分だ。あそこに」


 訳文――〈ジュリエットの手記〉。

 それを標に、旅人たちはこの地へやって来た。

 言語学者たちの翻訳は僅かに異なっていたが、意味するところは同じだ。

『鱗片の怪』、あるいは『鱗片の物の怪』。

 あの怪物の『胎』の中に。


「〈ガラスの靴〉がある」


 だからこそ、怪物は啼き続けていた。

 欲しい、欲しい、と。

 本来のあり方を損なってまで、を伸ばし求めるのだ。


「……行こう」


 ラーナはそれを直感で理解したのか、何も訊ねなかった。その目に深い憐憫の色を宿し踏みだした。


「ああ」


 レイラも共に歩き出した。


「あァら。出遅れてしまったようね」


 その背中を、甘ったるい声が撫でつけた。

 振り返れば、一際つよく横殴りの風が吹きつけた。

 刹那、視界が真白にとざされた。


 間もなく雪のしゃが薄らげば、そこに二人の男女が佇んでいた。


 一方は旅装束の髭面の男。

 もう一方は、吹雪の山中に不釣り合いな深緑のドレスの女。


「来たな、ジュスティーヌ」

「フフ、もちろんよ。〈ガラスの靴〉が、ワタシたちを引き合わせるのだもの。今日は二人きりじゃないけれど」


 旅人たちは、それぞれの得物を抜いた。

 魔女だけが艶然と両腕を拡げた。


「皆で楽しく踊り狂いましょう?」

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