二十二章 残酷で、身勝手で

「……そうか」


 ラーナが〈ウズマキ〉に返せた声は、それだけだった。

 口下手な自分は嫌いだ。

 だが、他になんと言うことができただろう?

〈ウズマキ〉誕生の過去は、ラーナの想像を絶するものだった。


『これ以上、この顔のことを言ってみろ、その首刎ね飛ばすぞッ!』


 激昂するはずだった。

 あの美貌こそが、彼女の人生を破滅に導いた忌むべき呪いなのだから。


「アタシは〈ウズマキ〉になった」


 シンデレラ――〈ウズマキ〉は、未だ内省の中にあって、憎悪を練り固めるように呟いた。


「ジュスティーヌを殺すために」


 ラーナは湧きあがる慙愧ざんきに従った。

〈ウズマキ〉の目をじっと見つめて言った。


「ボクが悪かった。ごめん……」

「……」


 暫しの沈黙があった。

〈ウズマキ〉が目を伏せた。

 腰に提げた袋からシラカンバの樹皮を一枚とり出し、焚火に投げた。炎が踊るように揺れ動いた。パリパリと樹皮を食む音が続いた。


「べつに、責めるつもりで話したわけじゃない」

「……そうか」


 やはりそれ以外の言葉が見当たらなかった。

 二人の間に、ふたたび沈黙が忍び寄る。

 それが居座ってしまう前に、ラーナは言葉を紡いだ。


「……ジュスティーヌ」


〈ウズマキ〉はラーナを見た。


「その名前知ってる。聞いたことある」

「なんだと?」


〈ウズマキ〉は目を眇めた。


「ハガーさんだ」

「ハガー?」


 先程とは打って変わり、〈ウズマキ〉の顔から表情が抜け落ちた。


「ボクと一緒に旅してた人。お前が命を狙った、あの人」

「ああ、あいつか」


 その時、〈ウズマキ〉の剥き出しの双眸に、ふと深い悲哀の色が過ぎった。


「知っていて当然だ。あいつはジュスティーヌと接触している」

「どういうこと?」

「奴は元々国営キャラバンの猟師だ。奴のキャラバンは〈ガラスの靴〉を手に入れた」


 ラーナは僅かに目を見開き、すぐに怪訝に細めた。


「つまり……?」

「奴が魔獣だって事は、もう解ってるな?」

「ああ、うん……」


 ラーナたちは魔獣と戦った。

 そして見た。魔獣がハガーへと変貌する姿を。


「奴はどうやって魔獣になったと思う?」

「え?」

「魔獣は魔獣の胎からは生まれない。魔獣が人に化けるんじゃなく、人が魔獣に成るんだ」

「人が魔獣に成る……」


 ラーナは驚きよりも、まず疲れを自覚した。

〈ウズマキ〉は、この世界の陰の部分を多く知っている。一方、ラーナは何も知らない。固く踏みしめていたはずの大地が、崩れ落ちていくような気がした。


「ジュスティーヌはアタシの顔を変えた。〈呪痕カルマ〉も与えた。それが答えだ」

「答え?」


〈ウズマキ〉が呆れたように顔をしかめた。


「察しの悪い奴だな。ジュスティーヌが魔獣を生みだしてるのさ」

「魔獣を生みだしてる……?」


 やはりラーナには解らなかった。

 この世には異能がある。それを扱える者たちが〈呪痕〉もちだ。彼らは魔獣に襲われた傷によって覚醒する。

 さらに、その魔獣を生みだす者がいる。

 それは神話に登場する人間の始祖――〈闇貌の魔女〉であり、人の顔を変え、自らも魔獣と同じく〈呪痕〉を与えることができる……。


「ちょっと待って。魔女って、本当にあの魔女なの?」

「知るか。寝ぼけた神にでも訊いてみたらどうだ」


 吐き捨てるような口調だった。本当に知らないし、興味もないようだ。


「とにかくジュスティーヌは、人を魔獣へ変える。だが、誰でも魔獣にできるわけじゃない。種の植わった者だけが魔獣に成る」

「種って?」


〈ウズマキ〉がいちいち回りくどい話し方をするので、その分問い返す回数も多くなった。


「〈ガラスの靴〉の欠片だ。あれに触れると寄生される。体内に入りこまれて欲望をかきたてられるのさ。もっと欠片が欲しいってな」


 淡々と語られる真実に、いよいよラーナは頭を抱えずにはおれなかった。

 次いで薄ら寒いものが背筋を這いあがってくる。

 冒険者時代が幕をあげ、人々は〈ガラスの靴〉を求めはじめた。

 しかし誰も、その正体を知らないのだ。

 触れれば寄生されることも。それが魔獣の種であることさえも。


「安心しろ」


〈ウズマキ〉は、ラーナの心中を見透かしたように告げる。


「〈呪痕〉もちは寄生されない。だから魔獣にはならない」

「なっ……」


 それが癇に障った。

 否、自分たちにさえ害がなければ、それで良いとする考え方に腹が立った。


「そういう問題じゃない! このままじゃ旅人たち、どんどん魔獣になってく。それなのに、どうしてみんなに教えてやらないッ!」

「……」


〈ウズマキ〉から返ったのは冷たい眼差しだった。彼女は、刃を研ぐように、徐々に目を細めた。そこに濃い侮蔑の色が滲んでいった。


「……お前はバカか?」

「なんだと?」


 ラーナは怒りに腰を浮かせた。

 すると、侮蔑の眼差しは鋭さを増した。


「言ってどうなる? 金に目の眩んだ連中が信じるとでも思うのか? そもそも誰が〈ガラスの靴〉を探せと言った。女王だろ。つまり〈ガラスの靴〉を疑うことは、国を疑うことと同義なんだぞ」


〈ウズマキ〉は早口にまくし立てた。

 ラーナには何も言い返せなかった。


 ――国。

 その響きに、紅潮した相貌はたちまち蒼褪めていた。


 そうだ。冒険者時代は、そもそも女王の欲望から始まった。

 これは偶然なのか?

〈ガラスの靴〉、冒険者時代、ジュスティーヌ――。


 ラーナはそこに陰謀めいた符号を感じずにはおれなかった。

 しかしその時、〈ウズマキ〉のこれ見よがしな嘆息が、ラーナの思考を破った。


「先に言っておくが、余計な事は訊くなよ。アタシだって多くを知ってるわけじゃない。欠片をすべて集めれば美貌が手に入る。それさえ嘘かもしれないし、嘘じゃないかもしれない。見えてるもの、考えられる事なんか、大抵定かじゃないんだ」

「……うん」


 確かに、真相は謎だった。証拠がなければ憶測でしかない。それを真実に昇華するための術も、ラーナは持ち合わせていなかった。


「確かなのは欠片が魔獣の種ってこと。そしてジュスティーヌが、人を魔獣に変えてるってことだ」


〈ウズマキ〉はそう言うと、痛みからか目を閉じた。

 疲弊しているのはラーナだけではない。むしろ怪我を負った〈ウズマキ〉のほうが、体力を消耗しているはずだった。

 にもかかわらず、彼女は口を閉ざさなかった。


「……実際、お前のパートナー、ハガーだったか? あいつは魔獣に成った。まだ理性は残ってるようだし、力も制御しきれてないようだったが。案の定、この辺りには別の種があるかもしれん。それを取り込まれたら」


 ラーナは耳を塞いでしまいたかった。

〈ウズマキ〉に眠って欲しいと思った。


 けれど、この世は残酷だ。

 闇の中に希望を灯してくれた人に。

 化け物にも生きていることを赦してくれた人にさえ。

 不条理な運命を突きつける。


「今度こそ理性を失くし、種を求めるだけの完全な魔獣に成るぞ」



――



 翌日早朝。一晩の間に天空の神は雨雲をしぼり尽くしたらしい。降り注ぐ光に雨の名残は煌めき、薄暗い洞窟までもが明るみに満たされていた。


「……アタシはもう行く」


 ラーナが獲ってきた魚を腹に収めるなり、〈ウズマキ〉は言った。


「無茶言うな。死にたいの?」


 昨夜は散々呆れられたが、今度はラーナが心底呆れてやる番だった。


「傷縫ってもない。動けばひらく。食べたもの腹から出るよ」

「一晩休んだ。もう充分だ」


〈ウズマキ〉は制止を聞かず立ちあがろうとする。

 ラーナはその肩に両手を置き、無理やり押さえつけた。


「充分なわけない! 休んでろ」

「時間がない。急がないと、ジュスティーヌに逃げられる。魔獣もじきに暴れだす」

「……っ」


 魔獣。

 ハガーのことを思うと胸が痛んだ。


「……それでも!」

「しつこいぞ! アタシの邪魔をするな。傷なら、この通りだ」


〈ウズマキ〉は衣服をまくり上げ、包帯をはぎ取った。


「なにをッ!」


 ラーナはその手を掴んだが、ろくに力は入らなかった。


「傷、塞がってる……?」


〈ウズマキ〉の腹に刻まれたものが、血肉の覗いた傷ではなかったからだ。

 斜めに走った朱色。

 傷痕は、爛れているが癒着している。


「なんで、ひどい傷だったはずなのに」

「治りが違うんだ」

「魔女から〈呪痕〉もちにされたから?」

「知らん、いちいち訊くな。とにかく、傷は心配ない。介抱してくれたのは礼を言う。助かった。魚も美味かった。じゃあ」


 ラーナの腕を払いのけ、〈ウズマキ〉は立ちあがった。


「……待て」


 しかしラーナは、またもその腕を掴んだ。

〈ウズマキ〉は抵抗した。


「鬱陶しい! 邪魔するなら、解ってるな?」


 言葉どおりの殺気が漲った。

 ラーナは凄みに肝を冷やしたが、今度は離さなかった。


「邪魔じゃない。協力」

「協力?」

「そう。ボクを連れてって」

「……」


〈ウズマキ〉が睥睨する。殺気立った眼差しのまま。

 それを真っ向から受けとめる。足許からこみ上げる戦慄を堪えながら。


「……できるのか」


 やがて〈ウズマキ〉が言った。

 ダメとは言わなかったが、言葉の意図は測りかねた。

 ラーナが首を傾げると、〈ウズマキ〉は袖の中から一振りの短剣を抜いた。


「魔獣を殺せるのかと訊いたんだ」


 言葉と刃の鋭さに、ラーナは思わず唇を引き結んだ。

 彼女の言う魔獣とは、すなわちハガーのことだ。

 ハガーは希望だった。

 深淵に射した一条の明かりだった。

 ちょうどこの洞窟に射しこんだ朝陽のような。


「迷えば死ぬぞ」


 首に短剣が押し当てられる。鋭い刃は肌を裂く。つぅ、と血の糸が垂れる。

 ラーナはその生々しい感触に震えた。

 一方で、こみ上げる恐怖に、自分が生きていることを思い知らされるような気がした。

 そして考えた。

 魔獣になった人間は、この恐怖とすら対峙できなくなるのだろうか、と。

 もっと繊細で、胸を締めつける悲哀や、それを呼び起こす愛や思い出さえ、すべて失くしてしまうのだろうか、と。

 だとしたら、それは死よりもなお悲しい事のように思えた。


「でも」


 ラーナは決然と目を見開いた。

 短剣を握る〈ウズマキ〉の手に自分の手を重ねながら。


「そうするしかないんでしょ? 魔獣になった人、救うためには。だから、殺してきたんでしょ?」


〈ウズマキ〉は微かに眉根を寄せた。

 重なり合った手を見下ろし、表情を削ぎ落とした。


「……いちいち訊くな」


 だが、隠そうとしてもラーナには解った。


〈ウズマキ〉は、救われたいのだと。

 他者を救うことで、己もまた救われたいのだと。

 それがきっと魔獣を殺すことなのだと。


 魔女を殺すだけなら、魔獣を狩る必要はなかった。寄生の恐れがある人々を手にかける必要もなかった。

 それでも続けてきたのだ。

 罪だと知りながら。罰に苦しむと解っていながら。

 彼女は――。

 ラーナはそこに己の踏みだすべき道を見た。


「……やる。その時が来たなら」


 どれほどの覚悟が必要かは解らない。

 時が来れば迷い、命を落とすだけかもしれない。

 待ち受ける結末は、ハガーの心を悲しみや虚しさで満たすだけかもしれない。

 あるいは自分の心をも。

 だとしても。


「ボクがハガーさんを殺してみせる」


 故郷に置いた妻を想う、あの真心を救いたかった。

 バケモノにさせたくはなかった。

 この瞬間から始まるすべてを、未来永劫背負っていこうと、ラーナは決意を固め瞬いた。


 その時、改めて思い出されたことがあった。

 いつか師が、下界を恣意の世だと言ったことだった。

 確かにその通りだろう。


 けれど、今はこうも思う。

 それはきっと下界に限ったことではない。


 人間という生き物は、そもそも勝手にできているのだと。


 誰もが己の信じたいものを信じ、信じたくないものは信じず。

 何が正しいのか間違っているのか、それすらも定かではなく。

 誰かへの施しさえ、自己を満足させるための慰めでしかないように。


 人はか弱い生き物なのだ。

 自分勝手に他者を哀れみ愛することさえ抑えられない。

 誰も愛さず、誰も慈しまず、誰とも触れ合わずいられるほど強くはなれない。


「……勝手にしろ」


 どんな忌み名で蔑まれようとも。

 人である限り、永遠に。

 ラーナは微笑み、相手の手を握った。


「ラーナ・ヴァンだ。よろしく」


〈ウズマキ〉は、それを煩わしげに見下ろしたが、振り払おうとはしなかった。

 ラーナの目をちらちらと盗み見て、やがて観念したのか呟いた。


「……レイラ・サンディだ」

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