二十一章 欲貌のシンデレラ
シンデレラの朝は作業場の水を汲むことから始まる。農奴と言っても畑作業は専ら両親の仕事であり、彼女の仕事は製糸作業が主だ。
空はまだ紺を刷いて暗く、村はずれに流れる川は、さながらうねる闇のようであった。
「ひゃぁ……!」
しかし手をつっこんでみれば紛れもなく川だ。
指先に伝わる緩やかな流れ、早朝のその冷たさ。冬はまだまだ先だというのに、世界は短い時のなかでさえ容易く在り方を変えていく。
シンデレラは桶に水を汲む前に、まず自分の喉を潤した。
清冽な水は、実に美味い。身体の芯をとおって全身に沁み渡る。早朝の眠気が洗い流され、一日の始まりを予感して胸が弾んだ。
その時、隣からちゃぽんと音がして、シンデレラは小さく跳びはねた。
「……っ!」
恐るおそる音のほうを見やると、いた。
東の空から滲む白を背景に、屈んだ人影が。
誰……?
逆光で細部は解らないが、村人でないのは明らかだ。
肩から足許までを覆う衣服はうすく繊細な模様に編まれていたし、頭には蹲った鳥のような丸い帽子を載せていた。
シンデレラはそこに人がいた驚きよりも、その身なりに畏敬の念を覚え、身をすくませた。
……この人、もしかして貴族様?
声をかけるべきか迷った。
もしも貴族なら、農奴ごときが声をかけるのは不敬にあたるかもしれない。一方で、こんなにも近くにいながら挨拶ひとつしないのも礼を失している気がした。
「……」
結局、何も言えずにいると、逆光に
シンデレラはとっさに何か言おうとするが、口を開け
「ごきげんよう。可愛いお嬢さん」
鈴を転がしたような声色が、
「お、おはようございます……」
声をかけられた驚きと畏れの中、シンデレラはか細い声をしぼりだした。
すると人影は肩をすくめ立ちあがった。
山の稜線から太陽が顔を出したのは、その時だ。
辺りが一気に明るみを増し、光が無数の束となって闇を貫き、人影の輪郭を深い緑に浮かび上がらせた。
相貌は、やはり逆光の中で闇だ。帽子からベールのようなものが垂れ下がっているのは見えるものの、顔立ちまでは判然としない。
まるで最初から顔がないようだとシンデレラは思った。
「気持ちの好い朝ね」
人影の声は甘かった。
母のように。
だが、違う。何かが違う。
どこが違うのかは解らない。
ただ心を蕩けさせるような魅力がある。
シンデレラは立ちあがり、ぼんやりと答える。
「ええ、とても」
「フフ、可愛いわね、あなた。お名前を伺ってもよろしいかしら?」
「シンデレラです」
「シンデレラ」
人影はその名を丁寧に舌のうえで転がした。美しい名前ね、と囁けば、雪でできたような白い脚で歩み寄ってきた。
「ワタシはジュスティーヌ。とても遠いところから来たの。よろしくね」
ジュスティーヌと名乗った女は、そう言うと握手を求める代わりに、シンデレラの頬に触れた。
滑らかな感触が頬を撫でた。温かった。
なのに、あまり気持ち好くない。熱は粘ついた液体のように絡んでくる。
一方で、不気味な
「シンデレラ。あなたとても好い、可愛い子だわ。綺麗で穢れがなくて、あの空のようで」
ジュスティーヌは天を指差し、フフと笑う。
流れるような
「……でも。もっと可愛く、美しくなりたいと思ったことはなァい?」
甘い声色にぞくりとした。
背筋が震えて、頭の中が白んだ。
直後、空白に美しい少女の顔が描かれた。
惚れ惚れするような親友の笑顔が。
「あるでしょう? 女の子だもの。解るわ。……フフ」
胸に腕を抉りこまれ、中をまさぐられたような気がした。
けれど見下ろしてみても、そこには僅かな膨らみがあるだけだ。
「ねぇ、よォく聴いて、シンデレラ。実はね、ワタシならね、あなたをもっと美しくしてあげられるの」
「えっ?」
シンデレラは弾かれたように顔をあげた。
胸の奥で何かが脈打った。
心臓ではない、何かが。
「できるの。ワタシなら。簡単よ? だってワタシ、」
その時、何故か肌が粟立った。
聞いてはいけない。
ふいに、そう思った。
時の流れが変わった。
世界の動きが鈍った。
川の流れる音が遅い。辺りを漂う風がこそばゆい。草花の匂いは鼻腔を這う形ない小人のよう。
けれど不吉な予感を自覚してなお、シンデレラは動きだせなかった。
やがてジュスティーヌは言葉を紡いだ。
「〈
フフと暗い笑いが鼓膜に融けた。
刹那、視界が真っ赤に染まった。
「……!」
頭部全体が針の雨に打たれたような痛みに襲われた。
悲鳴どころか呻き声ひとつ出なかった。舌の根まで縫いつけられたように身体が動かなかった。
間もなくシンデレラはその場にくずおれた。
地面に膝を打つ痛みがあって、それでようやく頭部の痛みが治まったのに気付いた。
「はっ、あ……?」
恐慌に
痛くなかった。傷もなかった。視界の赤みまで消えていた。
そしてジュスティーヌの姿もまた、そこになかった。
朝陽を遮っていた人型は、忽然と消失していた。遠方の山の稜線がくっきりと浮かび上がって見えた。
ごくごく短い悪夢を見せられたような気分だ。
シンデレラは震えの治まらない足で、ゆっくりと立ちあがる。下腹部が痙攣し、全身にうまく力が入らなかった。
「あら、おはよう」
そこへ草を踏む音とともに、聞き慣れた声がかかった。
「あっ、お、おはよう……」
両手に桶をもった美少女がいた。レイファだった。
恐怖に早鐘を打っていた胸に、たちまち安堵が湧きあがる。
シンデレラは笑みをこぼした。
「先客がいるなんて驚いたわ。いつもより早起きしたつもりだったのに」
「たまたまね。それよりレイファ、聴いて!」
シンデレラは、親友に跳びついた。今にも掴みかからんばかりの勢いで。
すると、レイファはぎょっと目を剥き、身を退いた。そして怪訝に目を眇めた。
「ちょっと、なに? 突然、怖いわよ。どうして私の名前知ってるの?」
「え?」
シンデレラは表情を強張らせ、立ち尽くした。
「どうしてって、だって……」
縋るように手を伸ばした。
レイファは顔をしかめ、それを払った。
「もう、なんなのよ! 私、あなたみたいな子知らないわ。村の子じゃなさそうだし。どこから来たの?」
「え、なに……? ハハ、なに言ってるの?」
頭を雷に打たれたような気がした。無気力な下腹部が、氷柱を抉りこまれたように冷たく痛んだ。
「ねぇ、レイファ、変な冗談やめて。アタシよ、シンデレラよ」
「シンデレラ、あなたが?」
レイファの顔つきが、いよいよ怯懦と恐怖を明らかにした。
そこに嘘は見えなかった。本当に怯えているのだった。
わけが分からなかった。
「あ」
しかしその時、シンデレラは思い出した。
そうだ、と手を打ち鳴らした。
「ペンダント、ペンダントよ! アタシ、レイファがジェフさんから貰ったペンダントを知ってるわ!」
これでわかってもらえる。あのペンダントは、親友の自分にだけ見せてくれたものだから。
そう思っていた。
けれどレイファは、顔面に塗りたくられた恐怖の蒼を、ふいに朱に染め変えた。
「やめてよ! なんなの、気持ち悪い子ね! シンデレラから聞いたの、私のこと?」
「違う! だからアタシがシンデレラで――」
「バッカみたいッ!」
取りつく島もなかった。レイファは空の桶を手に逃げだしてしまう。
「待って! きゃっ……!」
追いかけようとして躓いた。まだ力が入らなかった。胸にぽっかりと空いた穴の中に、力がこぼれ落ちていく。
これは、何……?
夢だと思いたい。
あの頭部の痛み、短い悪夢はまだ続いていて、いつか目が覚めるはずだと。
けれど、全身の感覚はいやに研ぎ澄まされていた。遠くに見える家々の連なりは明瞭で、原っぱの酸い匂いに頭がくらくらした。涼やかな風は毛穴にまで沁みてくるようだ。
そして何故だろう。
背中だけが燃えるように熱い。
現実じゃない。夢、夢……悪い夢よ。
シンデレラは、ふるふると首を振りながら立ちあがる。桶を持つ力が入らない。仕方なく、桶を置いて歩きだした。
レイファとのやり取りがひどく悲しかった。けれど、状況があまりに不可解で、涙を流すこともできなかった。だから、せめて、母にこの思いを打ち明けたかった。
家に戻ると、ちょうど母が出てくるところだった。
「あっ、お母様!」
シンデレラはたまらず抱きついた。母の柔らかな感触と甘やかな匂いに、胸の空白は安堵に満たされた。
「あらあら」
母は、柔らかくシンデレラを押し返した。
「お嬢さん、お家を間違えてるみたいよ?」
「え?」
シンデレラは今しがた吸いこんだ匂いを、絶望とともに吐きだした。
「なに、なによ、お母様まで……。アタシよ、シンデレラよ?」
「シンデレラ?」
母は怪訝に眉根を寄せ、やがて顎に手を当てた。
「そういえばシンデレラ、帰りが遅いわ。あなた、この辺りじゃ見ない綺麗なお顔ね。もしかして、あの子のお友達?」
足許から戦慄がこみあげた。
シンデレラは弾かれたように地を蹴った。
「ちょっと、あなたお名前は!」
母の声が背中を叩いた。
シンデレラは耳を塞いだ。そんな言葉、聞きたくなかった。
イジワルだ、みんなイジワルだ。みんなでアタシに悪戯してるんだ!
その頃、空はすっかり青く澄んでいた。
シンデレラの視界は、縁から黒く塗りつぶされていくようだった。光が闇に喰われ細くなっていく。
たった一つ残された光は父だった。父は賢い人だから、こんな悪戯に加担したりしないはずだ。
やがて畑に辿り着いたシンデレラは、父の姿がないのを見て取り小屋へ駆けこんだ。
父の背中があった。
シンデレラは叫んだ。
「お父様ぁ!」
「うわ、なんだ、シンデレラか?」
父が、両肩をはねあげ振り返る。
その様を見て、ようやく気付いてくれる人がいた、そう思った。
「……」
父は、シンデレラを見るなり茫然と三度瞬いた。
そして、取ってつけたような笑みを浮かべた。
「慌ててどうしたのかな、お嬢ちゃん?」
「ウソ……」
膝小僧を真正面から蹴りつけられたように、シンデレラはくずおれた。かすかに残された光の線が途絶えた。背景が消し飛び、目の前の父の姿だけを浮かび上がらせた。困惑した父の、その顔。
「昨日、言ってくれたの、憶えてるでしょ、お父様?」
「え、いや、私は君の父親じゃないが……」
「やめて、イジワルしないで! 罪と罰の話したじゃないッ! 料理に喩えて教えてくれた! お父様、仕事を抜け出したアタシのこと、もう叱らないでくれた! そうでしょ……?」
最後は、ほとんど声にならなかった。
父はレイファと同じ表情を浮かべた。
怪訝、怯懦、恐怖。
父は腕を組んで、シンデレラを見下ろした。
「どうして、それを? シンデレラから聞いたのかな? 君、どこの家の子だい?」
あくまで穏やかな声音が、胸に鋭く反響した。絶望の深さを知らしめるように。
「ねぇ、お願いよ。もうやめて……。アタシが悪いの? 昨日のこと? これは、その罰? でも、罪人の罰は、その罪を自覚して悔いて苦しむことなんでしょ? 違うっていうなら、それでもいいわ。いいから、お願い、お願いよ。もう赦して。赦してください。ずっと良い子でいます。一所懸命仕事します。だから、もう……赦して」
シンデレラは手を組み合わせ、泣きながら詫びた。目許が熱くて仕方がない。胸が冷たくて耐えられない。
「ねぇ、あなた!」
その時、小屋のなかに母の声が飛びこんできた。
振り返ると、歪んだ視界に血相を変えた母がいた。
「シンデレラが戻ってこないの!」
母は叫んだ。金切り声で。
父は落ちつきなさい、と母を宥めた。
母は胸に手をあてると、幾分穏やかな口調で言った。
「さっき変な子が来て、自分のことをシンデレラって……」
ところが、シンデレラを見るなり目を剥き、声を荒げた。
「この子よ!」
「っ!」
シンデレラはびくりと震えた。
ひどく嫌な予感がした。
「なに? この子もいま変なことを。昨日、食卓で話したことを突然喚き始めて――」
そこで、ふいに父の言葉が途絶えた。喉にものを詰まらせたように、うっと呻き、次いでまさかと上擦った声を出した。
「君、シンデレラをどうした?」
「え?」
「話を聞いたんだろ? その後どうした? あの子はどこへ行った?」
「違う、ここにいるのよ! アタシは」
「ふざけてるんじゃない! あの子はどうしたと訊いてるんだッ!」
尋常でない剣幕にシンデレラは気圧された。
何も言いだせない。返す言葉が見当たらない。
なんて言えば、みんな信じてくれる? そもそも、どうしてみんな信じてくれないの……?
途方に暮れていると、母がぽつりとこう漏らした。
「……桶があったのよ」
「なんだって?」
「川に桶があったの。誰もいない川の前に、二つ……」
「おい、それって……」
まさかと思ったのはシンデレラも同じだった。
事態は最悪の方向へ転がり始めていた。
溢れだす涙を無理やり拭って父を見上げた。
憎悪に燃えた眼差しが、シンデレラを見下ろした。
「こいつがやったのか」
「ちが……」
「こいつがシンデレラを……それでのうのうとあんな、ことッ!」
父の手がぬっと伸びて、シンデレラの髪を掴んだ。
「いたい……ッ!」
そしてシンデレラは、初めてその髪色を見た。
……え?
怖気が走った。
見慣れた灰色ではなかったから。
あまりに美しく鮮やかな色だったから。
血を吸った金糸のような、そのストロベリーブロンドは。
そんな、まさか……。
ふいに、シンデレラの中で謎と謎が結ばれた。
『――あなたをもっと美しくしてあげられるの』
痛みが襲い来る直前、ジュスティーヌはそう言っていた。
あの言葉はホントだった……?
あり得ない。あり得るはずがない。
……でも。
そうだとすれば、辻褄が合う。
今の顔が、かつてのそれでないのだとしたら。
皆が気味悪がるのは当然だった。
なんとか誤解を解かなくちゃ――!
「痛い! きゃあッ!」
しかしシンデレラにはなす術がなかった。
父に引きずられるまま、小屋の外へ投げだされていた。
「おいおい」
「どうしたんだ?」
「何かあったのか?」
そこへ騒ぎを聞きつけた村人たちが駆け込んできた。
父はシンデレラを指差し吼えた。
「この子どもが、私の娘を殺したんだッ!」
「えっ……」
シンデレラは耳を疑った。
殺した……? 違う、違う、違う!
そして否定した。何度もなんども否定した。
声にならない声で。決して届かない絶叫で。
「おい、待て!」
シンデレラは地を這い逃げだした。
無論、それは誤解を深めただけだった。
父の剣幕に圧倒され目を丸くするばかりだった村人たちは、少女への疑惑を確信へと変えた。
「あ、ぇ……あぁ!」
間もなくシンデレラは捕らえられた。村人二人に腕を吊り上げられ、嫌忌と憎悪の眼差しにさらされた。
「悍ましい……ッ!」
母が石を投げつけた。それが腕をかすめ肌を裂いた。滲みだした血が、腕の丸みを伝って土の上にこぼれた。
「どうするんだ、こいつ?」
村人の一人が言った。
すると父が拳を握りしめ、処刑すると唸った。
村人たちは、さすがにそれを
このままでは私刑にあたる。正当な罰は、審問官が下さなければならない。今はとりあえず牢に入れ、それから審問官の決を待つべきだと。
シンデレラはがくがくと震えた。
父の言葉に。
審問の判決に。
待ち受けているのは死しかあり得ないような気がした。
しかし何よりシンデレラを恐れさせたのは、その後、父が涙ながらに発した一言だった。
「……そうだ。こいつを娼館に売り飛ばしてやろう」
父はシンデレラの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。憎しみの眼差しがまっすぐに注がれた。
村人たちはそれも宥めた。
ここはなんとか堪えろと口々に言った。
「……くそ」
父は不承不承うなずき、シンデレラの顔に唾を吐きかけた。
「じゃあ、牢に連れてくぞ」
村人は腕を引かれた。
「いや……ぁ!」
シンデレラは抵抗した。
「大人しくしろ!」
「うぁ……ッ!」
容赦なく頬を張られた。唇が切れ、血の味が滲んだ。
なんで、なんでよ……ッ!
刹那的な怒りが胸を焦がした。
熱はたちまち背中に
「わあっ!」
シンデレラを捕らえた村人の一人が悲鳴をあげた。
突如、土の一部がひとりでに隆起し、その足を鞭のごとく叩きつけたのだ。
他の村人たちも驚愕に目を見開いた。
誰もがその一点を注視した。
それがシンデレラの闇に差した、暗い希望だった。
「おい、このッ!」
彼女は逃げだした。
迫る眼差しや腕をすり抜けて。
罵声と怒号と石を投げつけられながら。
彼女は生まれ育った村を捨てなければならなかった。
全身が燃え尽きるような熱を発するまで逃げた。逃げ続けた。
誰もいない森にまで。
幸い、夜になっても彼女の目は闇を見通した。
やがて彼女は池に辿り着いた。
水面に映る顔は、美しかった。
だが、それはシンデレラのものではなかった。愛されてきた少女のものではなかった。
精も根も尽き果てた身体に、彼女は池の水を流しこんだ。
ようやく生きた心地のした身体は、けれどすべてが少しずつ狂っているような気がした。
彼女は泣いた。水面に落ちた涙が、小さな波紋を形作った。
そこに、ちゃぽんと音がした。
彼女は身をすくませ、恐るおそる顎を上げた。
月光の中にそれはいた。
池の反対側で水を掬っていた。
「お、お前……」
深緑のドレスの女だった。
婦人帽から下がったベールが、顔面を闇色に染めあげていた。きゃらきゃらと
「ジュス、ティーヌ……」
すべてを失った女はゆらりと立ちあがった。
間もなくその美貌は憎悪に歪んだ。
「ジュスティーヌゥ! お前ッ、お前の所為で、アタシはああああッ!」
激情とともに、彼女は地を蹴っていた。
「……」
魔女は悠然と立ちあがったが、その場を動こうとはしなかった。
ただし、ベールの奥で彼女を見つめると、泣き喚く子どもをあやすような甘い声で言った。
「あら、淋しかったのね? 可哀想に」
「黙れ、黙れ黙れェ……!」
怒りが彼女の理性を焼き尽くした。
地を抉り、水を蹴り、彼女は魔女に肉薄した。
その喉許目がけ拳を突きだした。
魔女は半身になって躱した。少女の腕に指を這わせながら。
「でも大丈夫よ。ワタシが傍にいてあげる」
「黙れと言ってるんだァ!」
彼女は魔女の指をふり払い、がむしゃらに殴りかかった。
「……フフ」
だが届かない。
拳を、膝を、足を振るっても、どれ一つかすりもせず、ひらりと躱されてしまう。
「あなたが忘れなければ、離れることはないの。ワタシたちの関係は永遠よ? 朝が沈んで、夜が暴かれたとしても。でも今は」
頬を撫でられ、闇貌がぐっと眼前に迫った。
「ごめんなさい。もう行かなければならないわ。泣かないで。安心してね。ワタシの愛しいシンデレラ」
「お前がアタシの名を呼ぶなああああぁ!」
頭突きを繰りだしながら、彼女は慟哭した。
それも空しく躱された。
魔女の身体は夜の森の暗がりへと、吸いこまれるように後退っていく。
「フフ、もうじき新たな舞台の幕が上がるわ。欲望ひしめく
「待てッ!」
「〈ガラスの靴〉を探しなさい。その旅の途中で、必ずまた会えるから」
その時、一陣の風が二人を隔てた。葉が舞い、土埃が舞い、渦を巻いた。
彼女は目を瞑った。
それでも前へ進んだ。魔女を捕らえようと。
ところが、その足に風が絡みついた。
「クソ……ッ!」
彼女は転倒し、土を舐めた。
ジュスティーヌへの執念が背に燃えあがった。空虚な熱だった。
その時には、もう解っていた。解っていたのだ。
これが別れだと。シンデレラを取り巻くすべての、別れだと。
「クソッ、くそぉ……」
予感は現実となった。ふたたび目を見開いたとき、そこに因縁の相手はいなかった。
彼女は項垂れた。掴んだ土がくしゃりと泣いた。
「赦さない……。赦さない、ジュスティーヌ……ッ! アタシが必ず、何があっても、絶対に、お前を……」
土とともに掴んだ腐った木の根が悲鳴をあげた。
彼女はそれを砕いた。ささくれが肌を裂き、木片は血を吸いあげた。
赤く染まった木片は、たちまち意思をもったように彼女の腕を這いはじめた。
腕から肩へ、肩から首へ、首から頭へ、主を慰撫するようにしながら。
やがて頭全体を覆ったそれは、顔面に二つの渦を巻いた。
「殺してやる……!」
と、〈ウズマキ〉は叫んだ。
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