十六章 ひと喰い
雪が降っていた。
それは針葉樹の枝葉に積もって、森のなかを一面白に染めあげていた。
外でバサバサと巨大な鳥の羽搏きに似た音が鳴ると、ウェイグと相棒の猟師は小屋の中から顔を出した。
無論、凍てついた世界に巨鳥が迷いこむ道理はあるまい。雪上に積もった歪な小山を見て、二人は落胆の息をこぼした。
小屋の中へもどり、肩を並べ蹲る。
小屋と言っても、枝で骨組みをつくり、その周りに葉を敷き詰めただけの簡素なものだ。風除けくらいにはなるが、ろくに暖はとれず備蓄もない。
腹の虫が鳴った。もう三日も雪だけで凌いでいた。
「罠の様子を見てくる」
相棒が言った。すでに小屋の入口へ手をかけながら。
ウェイグも腰を上げると、相棒はひび割れた唇で微笑み、独りで行くと手をかざした。
「いや、ダメだ。他の冒険者と出くわしたらどうする」
ウェイグが食い下がれば、相棒はすまねぇと詫びながらも了解の意思を示した。
謝られる筋合いはなかった。相棒は充分に働いてくれていた。飯が喰えないのは相棒の所為ではない。ただ運に恵まれていないだけだ。今度こそ獣が罠にかかっていないとも限らない。
二人はボフボフと雪の中を歩き、罠を仕かけた地点まで急いだ。
ブーツの中に雪が入って、痺れたように足が痛んだ。フードの中に凍えた風が吹きこめば、頭にはもう血が廻っていないような気がした。
前がかすみ、四肢の感覚も薄れ、腹の底だけが空腹で熱かった。このまま何も喰えなければ、自分のほうが飢えに喰われる。
「はぁ、はぁ……」
お互い朦朧とした意識の中、幾つもの罠を見て回った。
獣の痕跡を見て取れるものがあった。
雪で埋没してしまったものがあった。
糸を切られたものがあった。
いずれも獲物はかかっていなかった。
「すまねぇ……」
相棒が白いものと共に、そう吐きだした。
ウェイグは何も答えなかった。
失意と焦燥、あとは空腹だけを共有し、二人は小屋へ戻った。
もはや新たな仕掛けを施す道具はなかった。雪空が晴れる気配もなかった。
ウェイグは雪を掬って、それを口の中へ放りこんだ。
相棒は壁にもたれ虚ろに笑った。
「ああ、おれ死ぬんだなぁ……」
「……」
ウェイグは聞かぬフリをした。
もう一度雪をかきこんだ。
飢え、渇き、相棒への苛立ち、内省的になる心、迫りくる死への恐怖――。
その冷たさにすべてを麻痺させようとした。
けれど何一つ鎮まりはしない。変わりはしない。
「ウェイグ、お前家族いるんだよな?」
変わったのは相棒のほうだった。いやに明瞭な口調は、誰かが救助に現れたのかと錯覚したほどだった。
しかし入口には誰の姿もなく、隣に感じる微かな熱だけが、自分以外の存在だった。
「それがどうした……?」
不思議と苛立ちは薄れていた。
ただ静かな諦念だけがあった。
いよいよ死がやって来る。これが最後の会話になるだろうと。
「すごいなって思ってさ。おれは猟師だから。家族なんていない。大金を手にしたとしても、自分の幸せしか考えられない。でもお前はさ、家族のために使うんだろ?」
「すごいもんか。俺だって自分のために金を使うのさ。そもそも旅を始めたのだって、自分のためなんだ。俺は……故郷を捨てたかっただけ。その口実に家族を利用して、冒険者になったんだ」
父は言った。
『……ワシらを置いていくんか!』と。
その通りだった。
ウェイグは家族を捨てたのだ。
貧しい村で一生を終える。
それを想うとぞっとした。
飢えに喘ぎ、惨めに死んでいく。
そんな人生には何の意味もないような気がした。
家族のためと
そうしていれば、心が軽くなったからだ。
しかし運命の神に怠慢はないらしい。非情なる者には相応の罰を与えるようだ。
いま自分は、飢えに喘ぎ惨めに逝こうとしている。
結局、ウェイグ・アンダーボルトの人生には、なんの意味もなかった。
「じゃあお前は、大金を手にしても家族のために金を使うつもりはないのか?」
「そんなことはないけど……」
「なら、いいじゃないか。それさえ本物なのなら。おれには言い訳にする相手もいなかったんだぜ」
相棒を見ると、こけた頬の上に涙の痕が伝っていた。
ウェイグは目を逸らそうとしたが、何故かできなかった。
「おれ、死ぬよ」
おかしなニュアンスだった。
ウェイグは苦笑した。
「俺だって死ぬよ」
すると相棒の虚ろな目許が、ふいに厳しく吊り上がった。
「ダメだ。お前は生きろ」
「いや、生きろって言ったって、もうさ」
嫌な予感を覚えながら、ウェイグは引きつった笑みを浮かべた。
相棒は苦笑の一つもみせなかった。その眼差しは、ひたすらに真摯だった。
「生き残って、すぐに人里へ行け。ウマい飯喰って、新しい仲間を探すんだ」
そう言いながら、相棒は腰に吊るした袋を一つ押しつけてきた。
全財産だった。少しの硬貨と宝石が入った。
「待て、なんだよ! 俺たちはもう」
「お前だけなら生き残れる。大丈夫だ。おれがいるから」
意味が解らなかった。
否、解りたくなかった。
けれど、理解するしかなかった。
相棒は短剣に巻いた帯を外すと、ウェイグの手に抜き身の刃を握らせた。
「おい、なにを……。やめろ、やめてくれ!」
ウェイグは相棒を引き離さそうとしたが、できなかった。
どこに力が残されていたのか。
相棒の身体は、いくら押してもびくともしなかった。
「やめない! お前は生き残るんだ! お前には、助けなくちゃいけない家族がいるんだから!」
相棒に刃が近づいていく。
ウェイグは頭を振りながら泣いた。
「冒険者だろ、お前は! いつかは人を殺すこともある。その時、躊躇してちゃダメだ。だから、まずおれを殺せ! そして……生き延びろ、ウェイグ!」
「そんなことできるわけ――」
ないだろ、と続く言葉は声にならなかった。
「あ、ああぁ……!」
刃がぶつりと肌を破る感触が、一切の抵抗する力を奪った。
相棒が痛みに目を剥いた。口の端から赤い糸を垂らし、笑った。
「おれには、誰もいなかっ、た……。でもやっと、誰かのため、そう思える、相手が……」
そして倒れ込んでくる。
重みが。命の重みが。
それは手中に流れる血とともにこぼれ落ちていく。
寒さとは違う震えがこみあげた。叫びだすこともできず、しばらくの間そうしていた。
……バサバサ。
やがて羽搏きに似た音が鳴り響いた。
なにが飛びたっていったのかは、見るまでもなく解っていた。
――
塩辛い味がして、ウェイグは目覚めた。
頬に手を当てると濡れていた。
夢を見ていたのだと気付いた。
眠りは短かったのか、辺りにはまだ
他には薪の爆ぜる音。
そして焚火の向こう、丸くなった人影からは寝息がもれていた。
「……何なんだよ」
ウェイグは星々を見上げ、運命の神に毒づいた。
天にまします神には、慈悲も容赦もないのだと思っていた。
実際、かつての相棒を殺し、その肉を喰ったことでウェイグは、卑しい今を生きている。
心の底から守りたいと思えた女性は、何処かへと走り去ってしまった。
それなのに。
『一緒に捜そう』
神はまた人を寄越すのだ。
あるいは、いっそうこの心を責め苛むために、そうするのだろうか?
「いや、違うな……」
風に凍え、苦しそうに悶える炎へ目を戻すと、ウェイグは手近な木の枝を放りこんだ。炎は嬉しそうにパキパキと枝を食み、ほんの僅かに活気を取り戻した。
「……」
ウェイグ・アンダーボルトの人生は、諦めの人生だった。
家族と共に生きる事を諦め。
相棒に抵抗する事を諦め。
パートナーに追い縋る事さえ、どこかで諦めていたのかもしれない。
だから独りになったのだ。
いつも全力になることから逃げてきた。
全力で挑んだ果てに待ち受ける現実と対峙する勇気がなかったから。
「それでも俺は、まだ人が恋しいんだ」
ヴァンが行くと言ったとき、ウェイグは彼女を止めた。
『一緒に捜そう』
それ以前に、差し伸べられた手を取ろうと思えた。
信じたい。
信じよう、と思えた。
手を差し伸べてくれた、ヴァンにだけではない。
そう思えた自分自身に対してもだ。
「……ありがとう」
ウェイグはもう一度、夜空を見上げ呟いた。
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