十五章 叶わぬ願い

「うっ、いっでぇ……!」


 ハガーの呻き声を聞いた瞬間、足許からせり上がった恐怖の針は霧散した。

 腰の短剣を抜き、ラーナは〈ウズマキ〉の前に立ちはだかった。

 渦巻き模様の底からほとばしる殺気が痩身を粟立たせた。


「退け。お前らに用はない」


〈ウズマキ〉が真横に腕を打ち振ると、地面を這っていたロープが舞いあがった。

 それは、ふいに不自然な軌道に曲がった。

 ラーナとウェイグの頭上に放物線を描いたのだ。

 先端の短剣は風を斬って唸る!


「こいつ……ッ!」


 それを見てラーナは確信した。

呪痕カルマ〉もちだ。

 ラーナは咄嗟に跳び退り、手中の刃を閃かせた。ハガー目がけ落下する短剣を火花とともに弾き飛ばす!


「……!」


 それを機に、茫然と立ち尽くしていたウェイグが我に返った。地を蹴り、風のごとく速くなめらかな太刀筋で〈ウズマキ〉へと襲いかかる!


「……」


〈ウズマキ〉は、それを一歩、二歩と後退り紙一重で躱した。木々の間に身を滑りこませ太刀筋を殺した。


 ウェイグが攻撃を躊躇すると、〈ウズマキ〉は三本の指を強張らせ、バキバキと鳴らした。

 そして、腕を打ち振った。

 はね上がったロープが息を吹き返す。

 冒険者の背中を、錐揉み回転する短剣が襲った!


「ッ!」


 ウェイグは真横に飛んだ。

 二の腕が浅く裂けた。

 目標を失った刃は、まっすぐに〈ウズマキ〉へと向かった。


「何故、邪魔をする?」


 ロープはまたも不自然な軌道を描いた。主を傷つける寸前で真横へ逸れ、シュルシュルと音をたてながら、その片腕に巻きついた。


「お前こそ、なんで襲う!」


 弾いても弾いても鎌首をもたげ飛来する刃をいなしながら、ラーナは叫んだ。

 短剣を逆手に構えた〈ウズマキ〉から、冷たい一瞥が返った。


「魔獣だからだ」

「は?」


 意味が解らなかった。

 しかし怖気がした。

 途轍もなく嫌な予感がした。

 ラーナは襲い来る刃を刃で弾き返し、肩越しに背後を見た。


「あれ……?」


 ハガーの姿が消えていた。

〈ウズマキ〉もそれに気付いたようだ。仮面の奥から舌打ちが聞こえた。


「しぶとい奴だ。一度ならず二度までも……」

「どういうことだ?」


 今度はウェイグが問うた。

〈ウズマキ〉はロープの巻きついた腕を半端にあげた。


「あの男は魔獣だと言ったんだ。まだ完全に目覚めてはいないようだがな」


 そう言うと〈ウズマキ〉は、今度こそ腕を振った。手中の短剣が消えた。巻きついたロープが斜め上方に飛翔し、枝にぐるぐると絡みついた。


 ウェイグがとび出した。左手にスティレットを抜き、突いた!


 その時、ロープの表面がビクンと脈打った。

〈ウズマキ〉の身体が宙にはね上がった、

 スティレットは虚空を穿った。

 ラーナと対峙していた刃も、主の許へ引き寄せられた。

 その行方を追いながらラーナは、胸を掻きむしるような不安を吐きだした。


「待て! ウソ吐くな。ハガーさんは人間だッ!」


 くるりと翻り、枝の上に降りたった〈ウズマキ〉が見下ろす。

 不安をかきたてる螺旋の双眸で。


「そう信じたければ、あの男を追うといい。災厄か呪いか。いずれにせよ、お前に待つのは死だがな」


 そう言い残し〈ガラスの靴〉の呪いは身を翻した。虚空に身を踊らせたかと思う間に、そのシルエットは宙を舞っていた。木々の落とす影のなかを右へ左へ翔けながら、急速に輪郭を縮ませていった。


「待てッ!」


 その後を追おうと地を蹴ったラーナだったが、


「あっ……」


 たちまち膝から力が抜け落ち、その場にへたりこんだ。


「な、なんで……ッ!」


 ラーナは笑う膝を殴りつけた。

 早くハガーを捜さなければ。

〈ウズマキ〉の狙いはハガーなのだ。


「立て、立ってよ……ッ!」


 焦燥が頭のなかを炙る。

 しかし〈ウズマキ〉の言葉が、ラーナの希望を黒くそめ上げ、迷わせる。


『あの男は魔獣だ』


 あり得ない。あり得るはずがない。

 魔獣の正体が人だなどと、そんな話は聞いたこともない。


 なのに。

 水底から湧きでる泡のように、次々と疑問が浮上する。


 ハガーは何故――。


 あれほどの肩の傷を負って生きていられたのか?

 治療から間もなくして追いつく体力があったのか? 闇の中、どうやって目当ての人物を見つけ出したのか?

 本当に野盗に襲われたのか?

 気を失った際に現れた、額の変色は?


「大丈夫ですか……?」


 疑念の洪水を、ウェイグの声が破った。

 ラーナは我に返り、かろうじて頷いた。


「ケガは?」

「ない」

「それはよかった」


 ほっとウェイグが微笑むと、ラーナは俯いた。


「よくない……」

「そういう意味では、あの、すみません……」


 狼狽しながら、ウェイグが傍らに腰を下ろした。

 ラーナは額を押さえ呻いた。


「いや……ごめん。行かなくちゃ」


 手をつき立ちあがろうとすると、ウェイグは慌てて腰を浮かした。


「ちょ、待ってください!」

「なに?」

「気持ちはわかりますが、これから捜索に当たるのは危険だ。もうこんなに暗い」


 ウェイグの顔半分を炎の光が撫ぜた。


「関係ない」


 ラーナは首を振った。


「関係なくはないでしょ! あなたが死んだら元も子もない」

「ボクは死なない」

「そんなふらふらな身体で言われても説得力ないです!」

「うるさい! ボクは……!」


 子どものように反抗したものの、依然として力は湧きあがってこなかった。膝が伸び切る前に砕け、ウェイグのほうへ倒れこんでしまう。


「おっと! とにかく大人しくしてください」


 受けとめたウェイグの手が、巧まずして肩のうえに載せられた。温かい手だった。

 改めてウェイグを見上げると、その優しい面差しに、何か熱いものがこみ上げてきた。それが胸の奥底に沈殿した冷たい不安を際立たせた。


「う、うぇう……」


 ラーナは両手で顔を覆った。たちまち熱い滴が流れ出してきた。

 涸れたのだと思っていた。

 裏切りの痛みを知った、あの時に。

 けれど、熱いあつい涙は、とめどなく溢れでた。


「どう、しよう……!」

「落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですよ。今晩はゆっくり休んで、明日いっしょに捜しましょう」


 ウェイグは隣に座り直し、背中をさすってくれた。

 ラーナは濡れた顔で見上げた。


「一緒に、捜してっ、くれるの?」


 ウェイグは肩をすくめ微笑んだ。


「ヴァンさん、俺はさっきの言葉忘れてないですよ。一緒に捜そうって言ってくれたでしょ。困ったときはお互い様です」


 ラーナはばたばたと涙を拭い、何度もありがとうと頭を下げた。

 本当は自分一人でも捜しに出かけたかった。

 夜など恐ろしくはない。この目は闇をも見通すのだ。


 けれど、力が湧いてこない。

 夜ではなく、〈ウズマキ〉の言った事が怖くてこわくて仕方がなかった。

 その事実を、自分一人だけで抱え込める自信もない。

 ハガーの事は信じているつもりでも。

 時として感情の篤さに応じ、深くなる憂いもある。


「じゃあ、今はしっかり休んで、明日に備えましょう」


 ラーナはこくりと頷き、横になって目を閉じた。

 まだ、まだだ。

 まだ独りではない。

 そう思うと、無駄な力が抜けていくような気がした。


 ハガーさん、死なないで……。


 そして暗闇の中、パートナーの無事を願った。

 自分以外の誰かのためにこいねがうのは、もういつ以来かわからなかった。

 あるいは、初めての経験なのかもしれない。



――



 ドサ、ドサ。

 足音が聞こえる。

 赤いあかい土の上だ。

 ハガーはいつかの惨劇を思い出しながら、屍の上を歩くような不快感を味わっている。


「死にたく、ねぇ……」


 傷ついた肩を押さえ、懸命に前へ進む。土を踏みしめる音は胸に絡みつく。

 まるで置いてきた妻の、死んでいった仲間たちの、糾弾のように思えて。〈ウズマキ〉の跫音きょうおんのように思えて。怖かった。


 無論、振り返ってみたところで、弁解する相手などいない。追手の影もない。

 ただひたすらに静かな木々の連なりがあるばかり。その間隙に淀む闇は、しかし何かを隠しているような気がしてならない。

 ぞっと全身が粟立って、ハガーは足を速める。


 ドサ、ドササ。


 足音は追ってくる。いつまでも。

 決して近くも遠くもならず。

 いつまでも背中にぴったりとはり付いている。


「なんでオレが、こんな目に……!」


 さらに足を速める。音は遠くならない。

 見えない相手から逃げながら、ハガーはふと考えた。


 どこへ向かってるんだ、俺は?


 わからなかった。誰か知っているなら教えて欲しかった。

 否、誰もこの場にいて欲しくなかった。きっとそれは自分を脅かすものだから。


「うわっ!」


 張りだした木の根に足をとられた。

 惨めに土を舐めたら泣けてきた。

 足音がやんだ。


 追いつかれたのか?


 振り返ることはできなかった。

 恐怖の中、何故だろう、ふいに独り村に残してきた妻を思い出した。


「……エルマ」


 共に生き、共に死にたいと、初めて思えた相手だった。惰性で過ごしてきた人生に差した灯火だった。

 それが消えゆこうとしているなら、守らぬ道理はなかった。

 だがその決断の果てが、こんな孤独な最期なのだろうか。


「こんな事になるくらいなら……」


 あいつの傍にいてやればよかった……。


 引き留めた細腕を振り解かず、命尽き果てる瞬間まで、今度は自分が希望の温もりになってやるべきだった。


 帰りたい。


 胸の奥底に蓋をした感情が、どっと溢れ出る。残してきたものの重みが、傷ついた肩に圧し掛かる。

 狩りはたった一つの手違いが命を脅かすものだ。襲われれば喰われ、逃げられれば飢える。狩人に過ちは赦されない。

 人の道もそうだったのだと気付く。

 しかし窮地に立たされてから気付くのでは、あまりに遅すぎる。


 ビョウ!


 その時、風を斬る音がして。


「ッ!」


 反射的に土の上を転がっていた。

 視界の端で、短剣がザクと土を抉った。

 腹の底から恐怖がこみ上げた。


 地面を掻くように手足をばたつかせ、立ちあがる。

 前につんのめりながら、すぐそばの木陰に跳びこんだ。

 頭上を見上げれば、星々に過ぎる影が見えた。

 突き刺さった短剣がピンと伸びたロープに引き上げられ、宙を舞った。

 影は瞬く間に、死角へ。

 と同時に、頭上へ消えゆこうとしていた短剣が、不自然な軌道で飛来した!


「クソぉ……!」


 涙目になりながらハガーは横に跳んだ。刃が浅く胸を裂いた。


「ぐあぁ!」


 跳んだ勢いのまま、無様に倒れ込んだ。


 ドサ。


 背後に殺意が凝った。

〈ウズマキ〉が下りてきた。

 死にたくない、とハガーは言った。

 当然だ、と〈ウズマキ〉は答えた。

 そして、こうも言った。


「これは慈悲だ」


 と惻隠そくいんに。


楽にしてやる」


 と頑なに。


〈ウズマキ〉のロープが螺旋を描いた。

 風が哀しげに唸りをあげた。

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