十七章 呪いの矛先

 風の音はなく、鳥の囀りもない朝。

 樹冠の隙間から覗く空はまだ紫紺を刷いて薄暗く、近くからはウェイグの寝息が聞こえていた。

 ラーナは抱いていた荷物袋をはなし、眠気眼をこすった。意識は茫洋ぼうようとしてとりとめがないのに、胸中には鉛のような憂いだけがぽつんと残されていた。それはたちまち感情の中に融け、胸を穢す毒となる。


 何があった? どうしてボクはここにいる?


 消えた焚火の向こう。

 横になった人影を見やると、状況はますます截然せつぜんと理解されてきた。

 肉体とともに眠っていた焦燥が、とろとろと目を覚まし始めていた。


「ウェイグさん」

「……ん、んん」


 肩を揺すると、ウェイグは唸りとともに覚醒した。重たげな瞼で二度またたいた。


「レイラちゃん……?」

「……? 違う、ボクはラーナ」

「ラーナ? あぁ、そうか。……えっと、ヴァンは苗字なんですね」


 ウェイグは前髪をかきあげ、おもむろに半身を起こした。


「あ、うん。下の名前はラーナ。えっと、さっきの、レイラって捜してる人?」


 ラーナは焚火跡に手をかざした。まだ熾火が残っていて微かに温かかった。しんと冷えた朝の癒しだ。


「そうです。一緒に旅をしてる途中で、ここへ駆けこんで行ってしまって、それっきり……」


 ウェイグの眼差しが、憂いに翳る。

 ラーナには、彼の気持ちが痛いほど理解できた。

 だが、言葉で慰めるのは苦手だ。

 辺りの枝を使って状態の好い炭をひとつとり出すと、それを小袋に詰めて差しだした。


「これは?」

「寒いでしょ。今しばらく暖とれる」


 なるほど、と頷いたウェイグの顔つきに、やや明るみが戻った。


「ありがとうございます」

「敬語いいよ。ボクこんなだし」

「じゃあ、遠慮なく。ラーナって呼んでも?」

「うぇっ」


 意外なほど深く距離を詰められ、ラーナはたじろいだ。

 ウェイグは何故か、それを了承と受けとったらしい。ありがとうと笑った。

 そして、すぐに腕を組んだ。


「……それじゃあ、どうやって捜そうか」

「ハガーさんの足跡残ってるはず」

「なるほど。じゃあ、まずは彼を」


 ウェイグは異論を唱えず、協力に前向きな姿勢を見せてくれた。

 彼のパートナーの手がかりは一切ないのだから当然と言えば当然かもしれない。だがラーナの胸には、僅かな罪悪感が滲む。


「ハガーさんが倒れたのは、この辺りだったね」


 しかしウェイグが淡々と行動するのを見て、気持ちを切り替える事にした。


 早くハガーさんを見つけて、レイラさんも見つけ出そう。


 土の上に屈みこむと、幾つかの血痕が見て取れるが、この辺りは土が赤い。見分けがつきづらい。

 これは見逃すかもしれないと、足跡を探ることにした。

 それらしいものは、すぐに見つかった。

 ウェイグの足跡ではない。残された足跡は、ウェイグのそれよりも僅かに小さい。

 ところが。


「……消えてる。見当たらない」


 しばらくは足跡を辿ることができたものの、背後の焚火跡が見えなくなる前に、足跡のほうが消えてしまっていた。

 茂みの少ない森だが、地上に張りだした根は幾つか見て取れる。蔦植物が複雑な起伏を描いている個所もある。

 その上を進んでいったか。あるいは、樹上か。

 考えてみれば当然だ。〈ウズマキ〉に追われているのだから。


「まずい……」


 となると、ハガー捜索は困難を極める。国営キャラバン隊に所属するほどの猟師だ。追う者は、身を潜める術にも長けている。簡単に尻尾を掴ませてくれるわけがない。

 それを伝えるとウェイグは、一旦引き返そうと言った。


「どうして?」

「〈ウズマキ〉だ」

「え?」

「〈ウズマキ〉を追おう」


 意図は、すぐに理解できた。〈ウズマキ〉を追えば、奴の追っているハガーのところにも辿り着ける望みがあるというわけだ。


「でも……」


 それでは確実に後手に回る。〈ウズマキ〉を見出す頃には、ハガーが殺されているかもしれない。

 その点を指摘すると、ウェイグはどうだろうと首を捻った。


「思い出したことがある。レイラちゃんとはぐれた時のことだ。彼女は突然駆け出していった。その時、彼女の行く先に、人影のようなものを見た気がするんだ」

「どういうこと?」


 今度は言いたいことがてんで理解できなかった。

 それとこれとに何の関係があるのか?

 当惑するラーナに、ウェイグは木の枝だよと告げる。


「俺はレイラちゃんを捜すために、木の枝を追った。君たちもそれを追って俺の許へ辿り着いただろう? そして〈ウズマキ〉だ。思い出してくれ。奴は枝にロープを絡ませて移動していた」


 ラーナたちは折れた木の枝を観察していた。あれには擦過痕があった。血の滲み付いたような痕も。レイラが樹上を移動した痕だと後に見当を付けたが、そうでなかったとしたら。

 確かに〈ウズマキ〉のものである可能性は高いかもしれない。奴のロープは血に濡れていた。確認できた足跡の数を鑑みても、ウェイグたちの遭遇した盗賊の痕跡とは考えづらい。


「道中、女性の死体を見たかい?」

「ううん。つまり……」


 ようやく言いたい事が解ってきた。


「ウェイグさんは、レイラさんが〈ウズマキ〉にさらわれたって言いたいの?」

「その可能性がある。何故さらったのかまでは解らないけど。とにかく奴は、レイラちゃんを誘拐した。殺さなかった。だからハガーさんの事も、すぐには殺さないかもしれない。現に奴は、一度目の攻撃でハガーさんを殺さなかった」


 それはどうだろうか。

 やや話が飛躍しているように思えた。

 ハガーの事は殺さなかったのではなく、単に殺せなかった可能性もあるのでは――。

〈ウズマキ〉は『次は外さん』とも言っていた。

 何より、あの殺気だ。

 刃で首を裂かれずとも、迸る殺気だけで息の根を止められそうな気がした。


 でも……。


 奴の口から一度たりとも「殺す」に類する言葉が発せられなかったのも事実ではある。旅人たちの間で積み重ねられてきた恐怖が、〈ウズマキ〉の人物像を歪ませているのかもしれない。


 現に、ボクたちは生きてる。


 噂があるということは、それを広めた人間がいるだろう。少なくとも〈ウズマキ〉の目的が、徒に旅人を殺すことでないのは間違いなさそうだ。

 どのみち、他に手がかりもない。

 今は〈ウズマキ〉の存在こそが懸案事項であると同時に、一縷の望みでもあった。


「……わかった。〈ウズマキ〉を捜してみよう」


 二人はすぐに行動を開始した。

 すると、〈ウズマキ〉の痕跡はすぐに見つかった。

 足跡でなく例の枝だ。

 それを辿っていくとなれば、人の短い歩幅を追うようにはいかない。折れ枝を見つけたら、その周囲をくまなく探索しなければならなかった。


 幸い、行方を見失うことはなかった。


 痕跡は折れ枝だけに留まらず、幹にも残されていたからだ。

 幹の擦過痕は、獣の爪痕にしては傷が浅く、樹皮をかじった痕にしては位置が高過ぎるので、一目でそれと判る。


「しかし、一体どれだけの距離を移動したんだろう。もうじき昼になるんじゃないかな……」


 ウェイグが嘆息混じりに空を仰いだ。

 ラーナも天に向け疲れを吐きだした。

 空の表面を刷いた光はわずかに白かった。確かに昼が近い。


「徒歩と比べ物にならないね。でも〈ウズマキ〉だって人間。休息の必要、出てくるはず」


 ラーナが至極当然のことを言うと、ウェイグは何故か茫然とした顔をのぞかせた。


「人間。そうか、人間なんだよな……」


 そして自らに噛んで含めるように、そう言った。


「……」


 ラーナはとっさに目を伏せ、襟をかき合わせた。

 捜索に必死で忘れかけていた。

〈ウズマキ〉は間違いなく〈呪痕カルマ〉もちだ。

 奴は、人間でなく化け物なのだ。

 顔の傷を見られれば、自分もまた化け物として扱われる。

 暗鬱とした気持ちで、次の痕跡を探し始めたときだった。


「妙じゃないか?」


 ふいにウェイグが首を捻った。

 ラーナはこの顔について言われたものかと、恐るおそるウェイグを見た。しかし彼の注意は別のところにあるようだ。しきりに折れ枝や幹についた擦過痕を見比べていた。


「なに?」


 ほっとして問い返すと、ウェイグは方角だよ、と答えた。


「方角?」

「少しずつ西へずれてるんだ」

「どういうこと?」

「〈ウズマキ〉の痕跡さ。でもこれって、おかしくないかな?」


〈ウズマキ〉は、北へ姿を消してから、徐々に進路を西へ変えていた。

 それの何がおかしいのか?

 ラーナが答えずにいると、ウェイグは南方を指差した。


「ハガーさんの足跡は南のほうに残ってたじゃないか」

「それを追わないのがおかしいってこと?」

「ああ」

「でも〈ウズマキ〉は、ハガーさんがどこ逃げたか知らない」


 指摘するとウェイグは頷いたが、それでもおかしいと思う、と食い下がった。


「ハガーさんを追うつもりなら、ふつう焚火へ戻るんじゃないかな? そこから痕跡を探れる望みがあるんだから。でも進路は徐々に変わってるだけ。折り返した様子がない」


 言われてみれば奇妙だ。こちらの存在が邪魔だったとしても、近くに潜伏し、折を見て足跡を追ったほうがいい。

 むしろ、無暗に森の中を移動し、獲物を見つけ出そうというのは無謀だ。


「〈ガラスの靴〉の呪い……」


 その時ラーナは、突として〈ウズマキ〉の異名を思い出した。

〈ガラスの靴〉を求める冒険者の前に現れ、その命を刈り取っていく呪い――。


『魔獣だからだ』


 あの時、〈ウズマキ〉はそう答えた。こちらを無視せず、僅かながらも言葉を交わした。

 そして、さっきウェイグはこう言った。


『人間。そうか、人間なんだよな……』


 ラーナとて意外に思わないではなかった。〈ウズマキ〉は言葉もなく旅人を殺す殺戮者だと思っていた。

 やはり、その印象に惑わされていないか?

 冷静になって考えてみれば、魔獣が人間である根拠などない。

 そもそも〈ウズマキ〉の狙いは、魔獣ではないはずだ。

 ハガーを傷つけ、デタラメな情報を与える事で奴は、注意を逸らそうとしたのでは――?


「ちょっと待ってて」

「え、うん……」


 当惑するウェイグを地上に置いて、ラーナは手近な木に登った。

 樹上にでると、遮られていた視界がひらけた。

 眼下に映るのは、起伏の少ない緑のカーペットだ。遠く果てに窺えるのは、霧をまとって壁のごとくそそり立つ白い山。両翼を拡げた鳥影が頭上を抜けて、同時に吹きつけた風が目に沁みた。

 涙にわずか視界が歪む。


「……やっぱり」


 しかし遠方の白山を遮る、意外なほどに近づいたそれを見落とすはずがない。

 天を掴もうとするかのような。

 天を引きずり降ろそうとするかのような。

 樹木にびっしりと覆われた、五指の山々――。


「〈悪魔の手〉だ」


 その距離は、もう半マイルと離れていなかった。

 ラーナは茫然とした。

 彼女にとって〈ガラスの靴〉は、そう重要なものではなくなっていた。

 過去をとり戻すための希望は、大切な人の旅の終わりを鮮やかに彩るための希望へと変わったのだ。

 だが、そのハガーがいないのでは、〈ガラスの靴〉手に入れる意味などない。

 そして〈ウズマキ〉の狙いがハガーでないのなら、もはや奴を追う理由もなかった。


「くそ……」


 悄然としながら地上へ戻ろうとした、その時だった。


〈悪魔の手〉の小指。

 その麓の樹木が、渦を巻くようにして、爆ぜた。

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