九章 忘れ物

 パチパチと爆ぜる焚火が、ラーナの視界を斑に彩る。夜を見通す眼は一面をモノクロームに見せるが、炎の明るさはそのままに赤い。


 一、二、三……五人か。


 焚火を囲む人影は五つだ。いずれも遠く顔までは見えないが、フード付きローブを身に纏い、腕や足をさすっている。

 辺りの木々に、得物の類が立てかけられた様子はない。

 冒険者ではないようだが、猟師にも見えない。ローブは灌木や下生えに引っかかったり、罠を誤作動させる恐れがあるからだ。


 とすれば、考えられそうなのは野盗か?


 思い至った瞬間、救われたような心地がした。賊から物を拝借するだけなら、天からのお咎めもないだろうと考えたのだ。

 ところが、その心はすぐに暗澹あんたんと塗りつぶされる。


 いいや、違う……。罪人だって人間だ……。


 盗みは悪に違いない。

 だが相手が罪人であれば、どのような非道を犯しても良いという事にはならない。

 賊には賊の複雑な事情があるかもしれない。

 もしもあの中に、悪事に手を染めなければ、明日を生きることさえできない者が混じっているとしたら――。


「……」


 ラーナは微かに震えた。

 相手が悪であったなら、その一面だけを捉え、平然と貶めてしまえる心が恐ろしかった。

 実際、ラーナは処刑人として名乗り出た男に異能を使い、子分を斬らせるよう仕向けた。

 敵だから。悪だから。

 そう思えば、躊躇することもなかったのだ。


 そんな……。


呪痕カルマ〉もちを化け物だと決めつけ、私刑を強行する人々と同じ闇が、自分の中にもある。

 そう思ったら、動きだせなかった。


 いつか師が言っていた。

 下界は恣意しいの世だ、と。

 そこで生きたいと思うのならば、己もまた恣意の中で生きるしかないのだとも。

 罪を悔い、過ちを恥じるより、貪婪どんらんで身勝手でなければ人の世は重すぎる。

 いつか幸福に思えた過去さえ、恣意の檻の中で守られ、その禍々しさを知らなかっただけの幻想なのかもしれない。


 やっぱりボクは間違ってたのか……?

 山を下りてくるべきじゃなかった――?


 葛藤に胸が炙られる間に、賊は焚火を消して移動を始めた。

 フードを手に入れるなら彼らを襲えばいい。こちらには異能があり、闇を見通す目もある。相手が五人でも勝機は充分だ。

 簡単なこと、簡単なことだ。

 ラーナは震えた一歩を踏みだそうとして、


「……ッ!」


 とっさに振り返った。

 火花の散るような一瞬の気配を背後に感じ、誰何すいかの言もなく短剣を抜いていた。

 刃が風を斬って鳴いた直後、コッと闇を震わせたのは、どうやら悲鳴らしかった。


「ま、まま待て……落ち着いて、くれ」


 短剣は狙いあやまたず、何者かの首筋に突き付けられていた。その人物はゆっくりと両手をあげ「敵じゃ、ない」と、言い含めるように言った。

 ラーナは緊張を解かず、その顔を睨んだ。モノクロームの陰影では、それが髭面の男ということしか解らなかった。


「……」


 辺りを素早く見回し、賊が去ったのを確認してから、ようやく誰何する。


「何者?」

「えっと、ハガーって言えば分かるか……?」

「ハガー……」


 怪訝に顔をしかめ、その響きを舌の上で転がした。それが何を意味するのかすぐには解らなかった。そんな職業があっただろうか?


 ――数瞬の後、ラーナは目を見開いた。


「えっ、ハガーさん?」

「そう、オレだ」


 ハガー。

 エルガ村へ向かう街道の途中で行き倒れていた男だ。

 ラーナは改めて相手の顔をまじまじと見つめ、その髭に見覚えがあるのを認めると短剣を収めた。


「そんな、ケガは?」

「大したことねぇよ」

「ウソだ!」


 ハガーの肩は槌で滅多打ちにされたように、大きく抉れているはずだった。


「まあ、嘘だけどよ。居心地悪くて抜け出してきちまった。あんたが追い出されたときのこと思い出したら不気味で。いつかオレも追いかけ回されるんじゃねぇかって」

「あなたは心配ない。ボクとは違う……」


 そう言いながら、ラーナははっとハガーの顔を見上げた。


「ボクが、怖くないの?」


 ハガーはきょとんとした顔を向けてくる。


「あ? なんで怖いんだ。確かに、さっきは喉ぶち破られるかと肝を冷やしたが」

「ボクは〈呪痕〉もちだ。だから追われた」

「はっ! そんなことかよ」


 ハガーは大仰に顔をしかめた。


「あんなのはバカどもが勝手に騒いでるだけだろう。異能を使えるらしいが、それがなんだ。べつに普通の人間じゃねぇか」

「え?」

「なんだ、違うのか?」

「いや……」


 ラーナは返答に窮し目を伏せる。

 この顔になってから、自分を人間と認めてくれたのは師匠だけだった。人の世には、この顔を認めてくれる者などいなかった。

 けれど、ハガーは「普通の人間」と言った。

 嘘かもしれない。

 否、十中八九うそだろう。きっと利用され、捨てられるだけだ。


 でも……。


〈呪痕〉もちだと知っても、まともに口を利いてもらえた。

 それが嬉しかった。

 胸の中に馬鹿げた欲が芽生えていく。

 たとえ裏切られても今は、束の間、人と人の時間を過ごしてみたいと。


「まあ、オレも少し前まで、そんなこと思っちゃいなかったがな。実物を見たことなかったし、バケモノと言われてるんだからバケモノなんだろうくらいの感覚だった。だけどヴァン、あんたはオレを救ってくれた。他の〈呪痕〉もちのことは知らねぇが、少なくともあんたは命の恩人だ」

「感謝するなら、ちゃんと身体休めて欲しかったけど」


 ラーナは軽口を返した。

 ハガーの言葉が嬉しかった。

 自分を認めてくれる以上に、このような考えがまだ人の世に残っていること。

 そうかもしれない、ということが。


「まあ、そう言うな。こいつを届けに来たんだ」


 ハガーが肩に提げた荷物を下ろした。


「これ、ボクの?」

「そうだ。上着はボロボロで使い物になりそうになかったんで、新調しておいた」

「え……なんでここまで?」


 訊ねると、ハガーは吹きだした。


「おいおい! 命の恩人だって言ってんだろ。上着くらい買わせてくれよ」

「手間かけさせた。いくら?」


 ラーナがポケットに手をつっこむと、ハガーはいやいやと苦笑した。


「金なんざいらねぇ。黙って受けとれ。感謝の印なんだから」

「でも……」


 命の恩人だ、感謝の印だと言われても、実際は助けたというほどの事は何もしていない。自分がしたことと言えば、止血をして寝顔を眺めていただけだ。


「不満かよ?」

「不満というか……」

「じゃあ、一つ訊かせてくれ」

「ん、なに?」

「ジュスティーヌって女を知らねぇか?」


 頼られた以上は、期待に応えたかったが、その名には、まったく心当たりがなかった。


「ごめん。どんな人?」


 名は知らずとも、どこかで見かけている可能性はあった。


「緑の装束の女さ。華奢な身体つきでな、帽子を被ってる」

「帽子……」


 帽子を被っている人物は稀だ。日を除けるならフードを用いるのが一般的である。貴族なら帽子の一つも被るだろうが、よほど身分の高い人なのだろうか?

 いずれにせよ、心当たりはない。ラーナはごめんと首を振るしかなかった。


「そうか。構わねぇよ」


 ハガーはそう言ったが、声色は反して重く沈むようだった。

 ジュスティーヌという女性は、きっと彼にとって大切な人物だったのだろう。

 ラーナにはかけるべき言葉が見つからない。その背に手を添えることくらいしか、できることがなかった。


「なんだ?」

「あの焚火の近く、行こう。まだ多少、熱残ってるはずだから。身体冷やすとよくない」

「ああ、確かにここは寒いな」


 二人は焚火あとの前で腰を下ろした。手を近付けると、炎は消えてもまだ充分に温かかった。


「野盗、戻ってこないか心配だけど」

「野盗?」

「うん、ここで火を焚いてた奴ら」

「うーん、あれはたぶん野盗じゃねぇぞ」

「えっ?」


 素っ頓狂な声を闇が吸いあげる。


「あれは庶猟士だろうな。野盗はいちいち火なんか焚かねぇ。証拠を残すようなもんだから」

「でも、ローブ着てた。不便だ」

「きっとこの辺りは、そう入り組んじゃいねぇんだ。実際、険しい道程じゃなかっただろ?」


 言われてみれば、追手こそ警戒してきたが、地勢に難儀した覚えはなかった。


「それもそうだね……」


 これまでの行動を思い返すと、血の気が引いてきた。

 本当に何の罪もない相手を襲うところだったのだ。

 否、その考え自体間違いだと、つい先程、己を責めたのではなかったか?


「……」


 ラーナはうつむいた。

 己の醜さに怖気がこみ上げる。

 身体をさすろうとして気付いた。


「……さみぃな、チクショウ」


 ハガーもまた震えている事に。

 そして、彼が荷物を届けてくれた事にも。

 慌てて荷物袋へ手をつっこみ、火打金をとり出した。

 うじうじと悩んでいるより、まずは火だ。あの五人が賊でないなら、警戒する必要もない。

 乾いた枝を集め、折って、石を打った。闇になんどか火花が散って、やがて眠たげな火種が灯った。それを枯れ葉や蔦で覆い、静かに息を吹きかけてやると、炎は徐々に目覚めていった。


「ありがてぇ」


 ラーナも同じことを思った。炎は時に恐ろしいが、使い方を誤らなければ美しく優しい。じっと見つめていると、胸の奥のしこりまで一緒に燃やしてくれるような気がする。


「そういえば、まだ行き先決まってねぇのか?」

「うん。あんな事あったから。情報集める間もなくて」

「そりゃ気の毒なこった。訳文のひとつも持ってねぇのか?」

「持ってる。でも意味解らない」

「この辺りで買ったんだな? 地方の訳文はとぎれとぎれでわけが解らん」

「詳しいね」

「まあな」


 ハガーは胸を張ると、オレも冒険の真っ最中だと言った。


「〈ガラスの靴〉を?」

「ああ。さっきのジュスティーヌって女と一緒にな。だが、途中で野盗に襲われて……。あとはあんたも知っての通りだ」

「そうか……。残念だったね」


 こんな時、口下手な自分が嫌になる。かつては果実売りの女として、饒舌に話せていたはずなのに。

 しかしハガーが、それをいちいち気に留めた様子はない。

 穏やかに微笑んで、焚火に向けていた目をラーナに移した。


「訳文見せてくれねぇか?」

「あ、うん」


 ラーナは躊躇なく訳文を差しだした。

 ハガーは時折首を捻ったり、額を指で叩いたりしながら読んだ。

 やがて顎をさすり、こう言った。


「……これはおそらく鋸壁きょへきのことだな」

「え、判るの?」


 ラーナは身を乗りだした。


「たぶんな。ここからずっと南へ行ったところに、鋸壁って山がある。たしか、そこが地元の奴らに〈悪魔の手〉って呼ばれてたはずだ」

「よく知ってるね。まさかハガーさん猟師?」

「そうさ。国営キャラバンのな」

「え、国営っ!」


 ラーナは意味もなく辺りを見渡し、ぱちぱちと瞬いた。

 ハガーは胸を張り、莞爾かんじと笑んだ。


「見えねぇだろ?」

「いや、見えないっていうか。国営猟師って本当にいるんだ……」

「まあ珍しいわな。冒険者みたいに大会を勝ち抜けばなれるってわけでもねぇし」

「なるほど、詳しいわけだ」

「だが、色々あって二人で旅してたんだ」

「色々?」


 その時、ふいに炎がゴッと燃えあがった。ハガーの両目が、紅蓮の色彩を吸いこんだ。


「……〈ウズマキ〉に襲われたのさ」

「えっ……」


 ラーナは息を呑んだ。

 それは〈ガラスの靴〉を求める者であれば、知らぬはずのない名だった。

 山を下りてきたばかりの田舎者でも知っている。それが恐怖の象徴として囁かれていることは。

 炎の前だというのに、ハガーはぶるぶると身震いした。


「キャラバン隊はオレを除いて全滅した。そんな時、殺されかけたオレを救ってくれたのがジュスティーヌだったんだ。なんとか〈ウズマキ〉を撒いて、二人で王都へ戻ることにした。それなのに今度は野盗さ。ツイてねぇよな……」


 両目に映った炎は、徐々に暗くかげっていった。

 その闇の深さに、胸を締めつけられるような思いがする。


 ただ生き残ることだけを願った相手は、一度ならず二度までも、運命に裏切られていたのだ。

 命を落としていたほうが幸福だった――とは思いたくない。

 だが、仲間を次々と失い、自分だけが生き残った心境を想うと苦しかった。


 似ていたから。

 ただ一人生き残った自分と。


 ますますこの男に、生きていて欲しいと思う。

 否、この男が幸福になる様を見てみたいと願っていた。


「……じゃあ、ボクと〈ガラスの靴〉探さない?」

「は?」


 目が合った。

 瞳の奥にある恐怖が、はっきりと見てとれた。

 無神経なのは解っていた。

 二度も喪った男に、まだ旅をしろというのだから。


 だが、きっとハガーには、旅にでた理由があるはずだ。


 それなのに、終わりがこれでは、あまりに残酷すぎる。

 大怪我を負っているのに、わざわざ自分を捜してくれた。置いてきた荷物を届けてくれた。

 こんなまっすぐな人が、ただ喪うために旅をしたのでは悲しすぎるではないか。


「ハガーさんは、忘れ物届けてくれた。だから今度は、あなたの忘れ物を、ボクが届けたいんだ」


 ハガーは虚を衝かれたように目をみはった。

 その表情もすぐに無くなった。

 何もないように見えるのに、不思議と深い失望や怒りを感じられる顔だった。

 しかしラーナは挫けなかった。

 傷ついた猟師から、決して目を逸らさなかった。それを受け入れる責任を感じていた。


 どれだけの間、そうしていただろう。


 冷ややかな風が吹き、フクロウが鳴いて、焚火が爆ぜた。

 やがて疲れたように笑ったのは、ハガーだった。


「……あんた、本当に変な奴だな」


 そして彼はこう請け負った。


「いいぜ。面白そうだ」


 ラーナは微笑んだ。ほっと胸を撫で下ろしながら。

 そこへ、だがよ、と寄越された声は耳に心地よかった。


「べつに忘れてきたわけじゃねぇけどな」


 呆れられることさえ、時に細やかな幸せになり得る。

 ラーナは、そう数年ぶりに実感した。

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