八章 創られた命
松明から放たれるオレンジの輻射光は、未だ旅人二人の顔を鮮明に浮き上がらせるほどではない。ウェイグの目には、幽かに木々の陰影が見てとれる程度だ。
どうする……?
とはいえ、悠長にはしていられない。
逃げるか、隠れるか、迎え撃つか。
何一つとして妙手とも思えぬ中、判断を迫られる。
「……?」
その時、とんと肩を叩かれパートナーを見返すと、彼女は林の奥を指差していた。
あっちへ行くぞということだろうか。
真意を確かめる間もなく、レイラは姿勢を低くして歩きだしてしまう。従うしかない。ウェイグはあとを追った。
この辺りは灌木が多いようだ。残念ながら葉は密に茂ってはおらず、身を隠すには不充分だ。
しかし風に揺れる枝葉の動きにまぎれられたのか、明かりの主に気付かれた様子はない。
ちょうど人一人身を隠せそうな灌木の陰で、レイラは足を止めた。
そして、先にそびえる樹木を指差した。
ウェイグはすぐさま意図を察し、独り、指し示された樹木の陰に急いだ。
心臓がドクドクと鼓動を打っていた。あり得ないと解っていても、明かりの主に聞かれてはいまいかと気を揉んだ。
逸る気持ちを抑え、葉擦れを避ける。足許に注意を凝らし、這う這うの体で進んだ。
すぐにも跳び込んでしまいたい欲求を堪え、やっとの思いで木陰に入った。こめかみに浮いた汗を拭い、しかし間違っても吐息をつかぬよう息を潜める。
……よし。
これで樹木が明かりを隔てる形となった。
身を低くしたまま、ウェイグは近付く影を窺った。
一人か。
松明を手にした、顔の彫りの深い男だった。引き締まった身体をしているが、背は高くない。羽織っているのはコートやローブでなくケープで、足許がよく見える。帯剣はしていない。精々が短剣を携行している程度か。おそらく猟師だろう。
男は注意深く辺りを見渡しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
やがてウェイグたちが寝床にしていた枝の屋根を見やるや、怪訝そうに眉をひそめた。
「これは……」
男は屋根に近付き屈みこんだ。
枝を固定した杭をしげしげと眺めはじめる。
ここだ。
ウェイグは腿の短剣を抜き、木陰からとび出した。
「……動くな」
「ひッ!」
すかさず男の首筋にスティレットを突きたてた。切っ先がぷつりと肌を刺した。つうと血の糸が垂れた。
「何者だ?」
「そ、そっちこそ、何なんだ……!」
男が震えると、灌木の陰からレイラが姿を現した。彼女は「仲間か……!」と声をあげた男に微笑むと、躊躇なく松明を奪い取った。
「分かるだろう?」
「冒険者か……? どうして、こんな所に」
「質問しているのはこっちだ」
ウェイグは、わずかに刃を押しこむ。
男は痛みに呻くと、口を噤んだ。
「仲間はいるか?」
「いる、いるとも。二人だ。林の外に二人。だが、待ってくれ。わたしは冒険者じゃない」
「下手な嘘は身を亡ぼすぞ。その身なり猟師以外の何だというんだ?」
「待て、本当に違う! わたしは
「庶猟士だと?」
ウェイグが目を
「なるほど、そういうことでしたか」
「まさか、本当に……?」
ウェイグは嫌な予感を覚えながら、男の横顔を睨みつけた。
「ウェイグさん、すぐ解放することになると思います。今しばらくは、そのままで」
「はぁ……」
当惑しつつも警戒は解かなかった。刃を突き立てたまま、男の息遣いにまで注意した。
レイラが男の荷物を検め始めた。
すると、すぐに「これですね」の呟き。胸のポケットに手を突っ込み、取りだされたのは黒いT字型の物体だった。
男があからさまに狼狽したので短剣を押しこむと、レイラは首を振った。
「もう放してあげてください」
「いいんだね……?」
「はい。これを」
言われた通り男を放し、レイラの掲げた物体を覗きこんだ。
案の定、それは表面に「マッカラ」の名が彫られた印章だった。底部のカバーを外してみると、同じく「マッカラ」の名と細かな数字が刻まれているのが判る。
「あー、なるほどぉ……」
そして深い罪悪感とともに、その肩を叩き印章を差しだした。
「も、申し訳ない……。早とちりでした。本当に庶猟士だったとは……」
「……ムゥン!」
男は印章をぶんどった。
「だから、そう言ったじゃないかぁ……。わたしはマッカラ専属の狩人なんだ!」
資格をもたぬ野良の狩人が猟師と呼ばれるのに対し、領主によって資格を認められた狩人は庶猟士と呼ばれる。
印章は庶猟士の証だ。然るべき手続きを行えば返却もできるが、所有する間は、決められた以外の土地で狩りを行えば責を問われる。
ゆえに、この男が流浪の身とは考えづらかった。
「恐ろしい目に遭わせてしまい、本当にすみませんでした……」
「もういい!」
庶猟士の男は、子どものように拗ねてそっぽを向いてしまう。
「アタシからも……ホントにごめんなさい」
そこへレイラが歩み寄り、上目遣いに覗きこんだ。
男は頬を膨らませ反抗心をあらわにしたが、初めてレイラの美しさに気付いたらしい。ちらちらと見やってから「もう済んだことだし、いいよ」と深く息をついた。
「寛大な御心に感謝します」
「それより、あんたたち何でこんな所に?」
「先を急ぎたかったので」
そう言って頭を掻いたレイラの姿は可愛らしいが、男はさすがに呆れた様子を見せた。
「それで襲われちゃたまらない。獣を獲られちゃ、わたしたちの取り分も損なわれるし……。第一ここは、あまり易しい土地じゃないぞ。もうしばらく南へ行けば、穴だらけで土も柔らかくなる」
「街道を進んでいったほうが、早く南へ行けますか?」
「まあ、ここを通れば多少の短縮にはなるだろうさ。だが、体力的には辛いぞ。まっすぐ突っ切るつもりなら、まだ十マイルほどもあるしな」
「なるほど」
もとより体力的な負担は覚悟している。魔獣の血痕が残った道を通りたくもなかった。
「なるほどって……」
庶猟士は怪訝に腕を組んだ。どうしてそこまで急ぐのか、理解できない様子だった。
実際、〈ガラスの靴〉探索者など博打うちのようなものだ。堅実に日々を生きる庶猟士にとっては、なおさら
「まあ、気を付けるこった」
庶猟士はそう言い残し、さっさとこの場をあとにしようとした。
そこへ、すかさずレイラが歩み寄った。「お詫びです」と何か手に握らせた。
すると庶猟士は、とたんに表情を綻ばせた。
「へぇ、クマの胆嚢かい。いいもん持ってんじゃねぇか」
庶猟士はそれを袋へしまうと、今度こそ踵を返した。
ところが、十と進まぬうちに振り返る。なぜか眉根を寄せた不安げな表情で。
「……さっきの釣り銭代わりに教えとくが、この先は近頃気味が悪い。日が昇ってからの移動をおススメするぜ」
「ええ、ご忠告感謝します」
レイラはその意味を訊ねず、淡白に返した。
ウェイグは、それを意外に感じた。
庶猟士は、おそらく夜の丘や山を恐れて言ったのだ。
死の神モロバーロの好む時と、その庭を恐れて言ったのだ。
しかしレイラは、その信仰的恐怖を歯牙にもかけない様子だった。
猟師とは信心深い人種なのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「……」
ウェイグも神話や迷信の類は信じていなかった。
なのに何故だろう。
庶猟士の曖昧な物言いが、いつまでも胸の端のほうに引っかかっていた。
いつしか松明の明かりは遠ざかり、闇がたっぷりと緑を濡らしていた。
時折吹きつける風は、葉をくすぐって歪な笑い声のような音を鳴らした。
――
休息をとった二人は、日の出とともに移動を再開した。
庶猟士の忠告通り、道は徐々に険しくなっていった。
南へまっすぐ進もうとしても、巨大な穴があらわれて迂回を強いられ、ペースを上げれば
周囲の木々は太く頑丈そうだったが、それを支えに登ることは、レイラから禁じられた。なんでもヘビや毒虫の潜んでいる恐れがあるとか。実際、木々には無数の瘤や洞があり、様々な生き物の往来が見て取れた。
「うはあぁ……」
丘の頂上へ到達する頃には、靴の中は泥だらけで、息も荒くなっていた。
「やっとひらけた場所に出ましたね」
一方、レイラの横顔は涼しいものだ。同じ道を歩いてきたはずなのに、泥もあまり付いていない。山道を登った際には、さすがに汗をかいていたが、今は汗の煌めき一つなかった。
一体、あの華奢な身体のどこに力が秘められてるんだ?
ウェイグは畏敬の眼差しで女猟師を見つめた。
「街道へ戻るまで、もうひと踏ん張りです。昼になる頃には、次の街へ着くでしょう」
街。
今夜はゆっくりベッドの上で眠れるらしい。
安堵も喜悦も湧いてきそうなものだったが、反してウェイグの胸には黴のような不安が根を張っていた。
「……ここなんか妙じゃないかい?」
「ええ。やけに見晴らしがいいですね」
不気味なのだ。
獣が集っていたり、毒草が繁茂したりした様子はない。決して岩がちでなく旅には易しそうな地勢だ。
しかし群生した樹木が、何故かことごとく倒れ伏している。
倒木と切り株ばかりが痛々しい姿で残されていた。
ウェイグは切り株の一つに歩み寄り、その表面を見下ろした。
そして愕然と目を見開いた。
「これは、どうなってるんだ……? この切り株、断面が抉れてる。まるで、巨大なスプーンで中をかき出したみたいだ」
隣に立ったレイラも大きく首を傾げた。
「たしかに奇妙ですね……」
切り株の断面は、一見すれば腐食して朽ちたように見える。色が悪く、繊維は崩れていて、人の手で切られた様子はない。
だが、明らかに不自然な損傷がある。
ウェイグは最初それを匙に喩えたが、次第に別のもののように感じられてきた。
抉れが五つ並んでいたり、鏃型のものがあったりする。
これは匙というより――、
「……獣の足型か?」
『この先は近頃気味が悪い――』
庶猟士が言っていたのは、この事だったのか?
「ひゃ……っ!」
疑念を確信に変えたのは、レイラの悲鳴だった。
「どうした!」
倒木の前に移動した彼女は、慄然と目を剥いていた。
同じものを見下ろすと、ウェイグはたまらず口許を押さえた。
「なんだ、これは……!」
風が吹いた。
それが鼻腔に腐臭を運んできた。
木のにおいではなかった。
生臭かった。
倒木には樹皮の剥がれた箇所がある。そこには本来、木部が覗いていなければならない。腐食して崩れていたり、虫に喰われてなくなっていたりしても、そこに、
「……イノシシ」
の頭部が埋まっているはずはないのだ。
しかもそれは、洞に入ったまま朽ち果てたという風情でもなかった。毛皮と木の繊維が絡まりあって癒合しているのだ。
まるで樹木からイノシシが生えだしたかのように。
「うっ……」
ウェイグは吐き気を堪え、倒木から目を逸らした。
その拍子に、パキと折れ枝を踏んだ。
見下ろしてみて血の気が引いた。
「……こっちはヘビだ」
分かれた枝の一本が、どこからか鱗と化していた。先端には眼球の白く濁ったヘビの頭があった。
「まさか」
と言ったのはレイラだった。近くの倒木に屈みこむと、蒼い顔でウェイグを見上げた。
「……やっぱりです。瘤の半分がトカゲの頭になってます。落ち葉からカエルの肢でしょうか……? あっちの落ち葉には羽毛が生えてる」
「ごめん、もういい……」
ウェイグは、先の言葉を手ぶりで制した。
胃の腑が脈打っていた。胸の中では糸虫が蠢いているかのようだ。
吐きだしたいが、できなかった。えずいた先で、新たな死骸と対面するのが怖かった。
「それより、早くここを出よう。気味が悪い」
「ですね……」
疲れも忘れ、ウェイグのほうが先導して歩きだしていた。
万が一、死骸を踏んだらと思うと足がすくんだが、注意深く見下ろす気にもなれなかった。
結局、一度も下を見ないまま歩いた。
丘を下ると、辺りには生きた樹木が連なり始めた。
鳥の囀りは優しかった。
思えば、丘の頂上では風の音以外の何も聞かれなかった。
恐れは次第に記憶の中へと沈んでいった。
「……まるで神話のようだった」
だから、あれについて話すこともできた。
隣を歩くレイラも、辺りの様子を観察しながら「なんですか?」と、普段通りの声音で返してくれた。
「神々が動物を創造した話。あれに似てると思ってね」
レイラはせり出した枝を除けながら「ああ、魔女の?」と相槌を打った。
「そう。神々は空の筆をはしらせ、大地を打って、海を注いだ。そこに植物を創り、箱庭を仕立てた」
「でも、神様たちはそれだけじゃ退屈だと思ったんですよね」
「うん。だから人を生みだした。人と言っても、俺たちとは違う、魔法の力をもつ人。今では〈
「こんな事を言うと罰が当たるかもしれませんけど、神様ってとても人間的ですよね。退屈だから箱庭を創って、それだけじゃ物足りないから人を創った。魔女に力を与えたのだって、面倒だから創造の手間を魔女に押しつけたわけでしょう?」
明け透けな物言いに、ウェイグは思わず吹き出した。
「そうだね。確かにすごく人間的だ。まあ、人が創った物語なんだから、当然だろうけど」
「ウェイグさんも、なかなか罰当たりな事を言いますね」
「神は寛大な心をお持ちだ。きっと赦してくださる」
二人はカラカラと笑う。
地面からとび出した根を跨いだところで「さっきの場所は」と、レイラが話を継いだ。
「ホントに神話の一場面のようでした。魔女は神を楽しませるために、幾つかの木々を割って、中に動物を孕ませたんですよね」
「そして魔女とは異なる、力ない
話しながら、腹の底が重くなっていくのを感じた。
あの場所にあったのは、すべて死骸だった。植物から生まれたのではなく、植物となって死んだようだった。
ウェイグは、巨木の幹に自身の虚ろな相貌がはり付いた様を想像し、憂鬱に目を伏せた。
「あれは何だったろうね……」
「魔女の仕業かも」
まさかとウェイグは笑ったが、レイラは生真面目な表情で前を見据えていた。
「神話では、魔女のその後の所在って言及されてないじゃないですか。今もどこかにいるのかなって」
「魔女の命が永劫なら、それもあり得るかもしれないけど」
「魔法の力を持ってるくらいですし、不思議じゃないですよ」
「意外と信心深いんだね」
笑みの裏側で、ウェイグはレイラの仮説を信じたいと思った。
不明であることは恐怖だから。
それが常識を逸脱したものであれば、なおさら。
魔女が今もこの世界に生きている。
それも充分に常識を逸脱した仮説ではある。
けれど、神が自ら創造した魔女であれば、神聖な存在と捉えることもできる。
あれは俺たちにとっての脅威じゃない。
そう言い聞かせ、急場の納得を得ることはできる。
なんだよ……意外に信心深いのは、俺のほうじゃないか?
そう心中で自虐したときだった。
「ギャア、ギャアッ!」
頭上に絶叫が轟いたのは。
はっとして身構えると、二羽の鳥が羽根を散らしながらつつき合っているのが見えた。
間もなく、一方が甲高い声で鳴いた。
その身がびくんと震えあがった次の瞬間、鳥影は力なく落下し、細枝に叩きつけられた。
「うわっ!」
枝が折れ、鳥はウェイグの足許にどさりと転がった。
鳥は痙攣し、やがて動かなくなった。
「うっ……」
ウェイグは思わず後退っていた。
絶命した鳥の首には、折れ枝が突き刺さっていた。
それが本当に突き刺さっているのかどうか、ウェイグには確信がもてなかった。
あの光景を目にしてしまった、今となっては。
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