七章 旅を続けるために
ラーナの侵入したメイプル林は、村の北西部に位置していた。
目的地が定まっていないとはいえ、道を引き返しても得られるものはない。同じ集落を巡るのは危険だし、東の山道は通行できない。新しい集落を目指すなら、エルガ村を大きく迂回し南へ向かう必要があった。
「……面倒なことになったな」
荷物も置いてきてしまった。上着も脱ぎ捨ててしまい、顔を隠すフードがない。おまけに寒い。木々に囲まれているおかげで、芯から凍てつくとまでは言わないが、立ち尽くしていると震えがこみ上げてくる。
今は西へ。ラーナは林の奥へ移動を始める。
茂みの深い場所を選び進んだ。温かくはないが、多少は風を妨げてくれるからだ。追手を撹乱するのにも役立つ。踏んだ草はすぐに背を伸ばし、土のように足音も残さない。
「見つかったかぁ!」
案の定、怒号は追ってきた。しつこい連中だ。何としても〈
ラーナは歩調を速め、ふいに北へ進路を変えた。あえて土の上を歩いて足音を残し、さらにメイプルの枝を切り落とす。ついでに樹液を舐める。甘い。骨肉の間から活力が滲みだしてくるようだ。
木へ登り、泥を払って隣の木へとび移る。三度ほど繰り返してから茂みに戻り、ふたたび西へ向け歩きだした。
そうこうしているうちに、怒号は遠ざかっていった。
鳥の囀りが大きくなっていくようにも聞こえた。
それは、ささくれ立った心を鎮める音色で。
「……」
郷愁を呼び起こす旋律だった。
時折、紅葉でなく黄葉が視界を過ぎると、わけも分からず
山を下りる時、師匠は行くなと訴えた。
ここでワシと暮らせばいいと。
この顔になってから、初めて自分を愛してくれた人だった。
そんな人を裏切ってまで、人里に下ってきたのだ。
今更、郷愁や後悔に胸を痛める資格などあるだろうか?
「……ないさ」
ラーナは強いて自答し、固く拳を握りこんだ。
道はやがて下りになっていき、樹木の数も減っていった。空気は湿り気を帯びて、滑らかな石ころや苔むした岩が多く見られるようになる。
音は聞こえないが、近くに水が流れているのかもしれない。
「ん」
湧きあがる期待とは裏腹に、ラーナは横たわる巨大な巌へ目を奪われていた。
その下部を覆うのは茂みだ。風が吹くたび、間隙に深い闇を覗かせる。
恐るおそる茂みをかき分けながら近づいていくと、まるでクマのねぐらのような巨大な穴があいているのを見つけた。
本当に獣の巣ではたまらないので、安易に入りはしない。冬眠の時期にはやや早いが、今ごろ獣たちはその準備のために餌を蓄えているはずだ。巣だとすれば、痕跡が残されている可能性は高い。
まずは注意深く辺りを探ってみる。
足跡らしいものは見られない。獲物の血痕もない。樹皮で爪牙を研いだ痕は? 茂みが不自然に抉れた箇所は? ない、ない、ない――。
思い切って、折れ枝を穴の中に投げてみた。
ぺちゃと湿った音をたてた直後、カラカラと反響した。
深い。奥は石だ。落葉は堆積していない。獣のねぐらである可能性は低いか?
ラーナは念のために短剣を抜き、いよいよ頭から穴の中へ侵入した。
中は暗くひんやりと冷たかった。手足をいっぱいに拡げられるほど広く、屈める程度の高さもあった。
奥はやはり石だ。甲虫が壁や底部に蠢いている。餌と思われる木の実の類は見当たらない。どうやら獣は棲んでいないようだ。
とりあえず、宿は決まったかな。
ラーナは強張った頬を綻ばせた。
火は焚きたくなかったので、風除けになる穴ぐらを見つけられたのは
ラーナは早速、乾いた葉をかき集め、穴の奥に敷き詰めた。
石の感触も判らなくなると、夜を待たずして目を閉じた。
天井の巌は風をうけると、すすり泣きのような音をたてた。
折々、強い風が吹けば、それは
いつか涙が涸れ果てる前には、自分にもそんな声があった。
ラーナは悲痛な思いを嘆息にして吐きだし、やがて夢の中へと沈んでいく。
――
食料という食料をかき集め、
それが生き残るためにできる、ラーナの精一杯だった。
彼女は痛みを抱えながら、隣街へ急いだ。
持ち前の美しさで男を惑わせてきたラーナにも意中の相手はいた。それが隣街に住むアランだった。
彼とは、イチイの木の下で赤い実を一つふたつともぎながら、面映ゆくなるような甘い言葉をかけあったものだ。時には互いの指を絡め、何をするでもなくじっと見つめ合ったりもした。
二人の間には、およそ恥じらいというものがなく、だからといって貪るように愛を求める必要もなかった。赤い果実を撫で合い、時折、互いの指先と出会うような共感。それをただ静かに確かめ合っていられた。
故郷が滅びた今、頼れるのはアランだけだった。
死に物狂いで彼の家に辿り着いたときには、それだけで救われた心地がしたものだ。
「……どなたさま?」
いざ玄関をあけたアランに名乗ると、彼はラーナを受け入れてくれた。「どうしたんだ!」と血相を変え、「とにかく入ってくれ」と優しく囁いてくれた。
フードの奥に隠れた、紫紺の傷痕を見るまでは。
しかしアランの表情が凍りついたのを見ても、ラーナはまだ幻想を抱いていた。赤い果実の縁で、また彼の指先と
傷口の痛々しさに驚いただけだろうと楽観していた。
「……あぐッ!」
ところが、空っぽの腹を埋めたのは鈍痛だった。たまらずその場にくずおれ、えずくと、首筋に粘ついた唾を吐きかけられた。
痛みに震えながらアランを見上げた。
「なんだ、その顔は……!」
そして、ようやく事態を察した。
胸を氷の杭に貫かれた気がした。
優しさなど微塵もない、恋人の顔を見て。
ぎょろりと目を見開き、牙を剥きだし、顔をしかめた、人とは思われぬ形相を見て。
「バケモノ」
しかし人でなくなったのは、自分のほうだと知った。
胸の奥で、ピシと何かの割れる音がした。
ラーナは立ちあがることもできぬまま後退った。
「……消えろ、バケモノめ!」
アランが石を投げつけた。頬が裂け、フードがめくれあがった。
ラーナは顔を覆いうつむいた。アランはそれを指差した。
「バケモノが出た!〈
悍ましい叫びだった。
ラーナは反射的に立ち上がり、走りだしていた。
人が押し寄せてきた。
皆、アランのような表情をしていた。
見たくなかった。そんな顔など見たくなかった。
「うわ、目がッ!」
強く念じると、ふいに正面から迫ってきた男が悲鳴をあげた。
わけも分からず、その傍らを潜り抜けるようにして逃げた。もう何も残されていない身体で。
希望はなかった。今後のことなど何も分からなかった。
アランの顔が、言葉が、すべて壊してしまったから。
怖い。死にたくない。殺されたくない。
たったそれだけの思いで逃げ続けた。
ついに手首を掴まれたとき、割れた心の中から、これまで以上の恐怖が迸った。
腹の底が凍え、全身の熱という熱が喉の奥にせり上がる。
「いやああぁああぁぁあああぁああああぁぁぁああぁッ!」
悲鳴は闇の中に反響した。なおも記憶の底から谺する絶叫が、顔面に刻まれた傷を疼かせた。皮肉にもそれが理性を刺激した。
敷き詰められた葉の感触があった。
巌の天井が
「あぁ、ああ……」
ラーナはようやく状況を理解した。
ここはいつかの追われた過去ではない。
追手を撒いた今だ、と。
眠ってたんだ……。
辺りには一条の光もない。己の手すら闇の中だ。穴の入口に茂みの影が揺れるのを、かろうじて見てとれる。すっかり夜になってしまったらしい。
地上へよじ登る。辺りに人の気配がないのを確認し、ラーナは穴の外へでた。
すると、薄ら白い景色が浮かび上がってきた。モノクロームの濃淡から、物の輪郭や奥行きを把握できた。〈呪痕〉を刻まれたことで得られた、数少ない利点だった。
闇の中なら、まだ追手が迫っていたとしても確実に逃げられる。昼行性の獣を仕留められる好機でもある。
ラーナは坂を下り始めた。
……寒いな。
肌が粟立ち、ぶるりと震えがこみあげる。風は穏やかなものの、夜気は肌を切るように冷たい。鉄線の張り巡らされた罠の中を歩かされている気分だ。肌が切れないのが不思議でならない。
だが、今は進みつづけるしかない。
やがて勾配もなくなってくると、ラーナの耳は、水の流れる音を拾った。音につられて進んでいけば、すぐに沢を見つけられた。
包帯を解き、手を洗った。
じんと冷たいが、生きた心地がした。
煤だらけの身体を軽く拭い、掬って口に含んだ。
うまい。
水筒の水は捨て、新しい水で中を満たした。
これが最も安堵できる瞬間だった。
いくら狩りの成果に恵まれたとしても、水がなければ生きてはいけない。水はすべての生き物の血潮だ、と師はよく言ったものだ。
とはいえ、狩りの成果はまだない。
ここからが狩りの時間だ。
ラーナはせっかく洗った全身に落葉を擦りつけた。髪や靴まで余すところなく拭ってから沢に捨てた。それは水の流れにさらわれ、緩慢に北方へと消えていった。
沢を横切り、しばらくは沿うように南へ移動した。
一際大きな樹木を見つけたところで足をとめた。木陰に腰を下ろし、幹にはり付いて風を除けながら、じっと沢を見つめる。水辺を見出せた以上、眠った獣を探すより、こうしたほうが効率的だ。
師の言った通り、水は生き物の血潮である。つまり、水辺には必ず生き物が集まる。
獣は敏感だが、こちらの匂いは極力消してきたし、匂いの染みこんだ落葉は流れに捨ててきた。北方へ流れた匂いは獣を警戒させるだろう。他の水辺を探すものもいるだろうが、南へ向かうものもいるはずだ。
……来た。
見事予想は的中した。
半刻もしないうちに獲物はやってきた。
沢を挟んだ反対側から、慎重な足取りで坂を下りる影がある。
それはクマのように巨大でなければ、リスのように小ぶりでもなかった。仕留められれば充分腹は満たせる、中型犬ほどのサイズだ。
頭が扁平でずんぐりと大きく、地を掃く尾はやや長い。毛皮はふっくらとして温かみがあり、背や四肢だけを黒く染めている。
一見すればイタチのようだが、そこから受ける印象はしなやかというより屈強だ。小柄なクマのようにも見える。
なんでこんな所にクズリが……。
実際、それは別名をクロアナグマという。本来であれば、より寒冷な針葉樹林や山地に棲息する獣だ。
大きな足裏は雪上での移動に適し、雪に足をとられた獲物を襲う。樹上から飛び降りての奇襲も得意とする。健脚の持ち主でもあり、一日に三十マイル近くも移動する事がある。
まさか例の落石の影響で、地上まで迷いこんできたのか?
そう推測する一方で、ラーナ自身が迷い子のような気持ちに囚われていた。
とたんに沢辺が雪中に変じてしまったかのように思えた。視界の白を雪と見紛い、背筋は凍えて、独り身を心細く感じた。
勝てるのか……?
クズリは非常に獰猛で恐れを知らない獣だ。自分より大きい相手にも臆せず襲いかかる。強力な顎は、獲物の骨まで噛み砕く自然の万力だ。
ところが、知識が臆病風を吹かせる一方、腹の底では空腹の炎が育っていった。
生きるためには冷静でなければならないが、時には大胆で欲求に忠実でなければならない。
「……」
空腹はラーナの意志に火を灯した。闇の中、狩人の眼光が
ラーナは息をとめ、おもむろに木陰をでた。
幸い、クズリは視覚や聴覚があまりよくない。嗅覚は鋭いが、ここに姿を現した以上、こちらの存在を補足されていないのは明らかだ。
見立て通り、クズリは警戒を解いた。水に鼻先を突っこみ、ぺろぺろと舐め始めたのだ。
ラーナはさらに距離を詰め、短剣を抜いた。月明かりを反射せぬよう、後ろ手に忍び寄る。
そうして大股であと十歩の距離にまで近づいた。
一歩、二歩。
クズリは水を舐めている。
三歩、四歩。
まだ舐めている。
五歩。
そして、六歩目を踏みだそうとしたその時、ふいにクズリが顔をあげた!
来る!
ラーナは身構えた。
ところが予想に反し、獣は踵を返した。
ラーナは反射的に地を蹴り、逆手に短剣を構えた。
クズリが速い。
あと二歩の距離が埋まらない。
沢に突っこむ。水が散る。
月光にラーナの双眼が光る。
その刹那。
ふいに獣がビクンと身体を震わせた。反転し、こちらへ向かってくる!
異能を発動したのだ。
一瞬、盲目になったクズリは、突然、巨大な敵が現れたと勘違いし、踵を返したのである。
真正面から対峙し、ラーナはその身体を真上から押さえつけた。
すかさず頸部に短剣を抉りこむ!
「……く、うぅ!」
浅い。毛皮が厚く、刃が奥まで届かない。
クズリが暴れれば、押しこむ力は鈍る。強い。体重をかけるように押さえつけても、ズルズルと手の下から這い出ようとする。
だが、逃がすわけにはいかない。
腹を満たしたいからではない。
自分が殺されないためだ。
手負いとなれば気性はさらに荒くなる。
視覚はもう回復しているはず。連続して異能を発動することも不可能ではないが、多大な集中力が必要だ。それでは確実に手許が緩む。
「うぅ、ん……ッ!」
噛みしめた奥歯が、メキメキと音をたてた。
異能には頼らない。この身だけが頼りだ。
渾身の力で刃を抉りこむ。
毛皮を縫い、刃は奥へ進む。
ブチブチと筋線維の裂ける音。粘ついた血が手許に流れこんでくる。
「――!」
形容し難い絶叫が、夜の沢辺に反響した。
相手の力が徐々に弱まり、動きが鈍るのを感じる。
しかしラーナには油断も容赦もない。
完全に息の根が止まるまで、深く刃を押しこみ続けた。
それが殺める者のせめてもの慈悲だからだ。
獲物とする以上は、長く苦しませてはならない。無用の痛みで苦しませては、自然からの手痛い罰を受ける。
ラーナは師の欠けた指を思い出しながら刃を捻った。
それがとどめとなった。
クズリは数度痙攣した後、今度こそ完全に動かなくなった。
「……ぅ、っはぁ」
ラーナは短剣を抜き、額の汗を拭った。
沢の水を何度も掬って飲んだ。
短剣についた血を丁寧に洗い流すと、クズリの亡骸を抱き、南西へと歩きだした。
沢の周辺は緩やかな谷のようになっており、しばらくは上りが続いたが、やがて平らかで開けた場所にでた。
エルガ村からは随分離れたはずだ。
火を焚いても問題ないだろう。
そう思い至ったところで、火打金がないのに気付いた。物は荷物袋の中だ。
「ちょっと大変だな……」
だが、石がなくとも火は熾せる。
ラーナは頬を叩いて憂鬱を払うと、折れ枝を探した。
二本だ。
一方が長くメイプルと異なる枝。もう一方は短いメイプルの枝である。
まずはメイプルの先端を短剣で削った。あまり細く削りすぎると折れたり割れたりして失敗するので、注意が必要だった。あくまで研磨するように短剣を滑らせ、平らな接地面を作る。
次に、長い枝の先端を臀部で押さえ股の間に固定した。やや身体を前屈みにし、腕を前後に動かしやすい姿勢を探る。最適な姿勢が判れば、手許に近い樹皮を短剣で削ぐ。なるべく前後長めに確保すれば準備完了だ。
方法は実に単純だった。
樹皮を削ぎ落とした木部に、短い枝の滑らかな先端を擦りつけるだけ。この摩擦熱を以て火を熾す。すなわち火溝式発火法である。
ラーナはこの方法を用いて、ほんの数十秒で立ちのぼる煙を視認した。さらに擦りつづけ、黒い燃えカスが溜まってくると、そこにそっと息を吹きかける。煙は次第に濃くなり、やがて一部がほんのりと赤く眠気眼を開ける。枯れ枝に火種を移し、また息を優しく吹きかけてやれば、チリチリと炎は目覚め始める。
炎が充分に育つ頃には、全身汗だくで凍えそうだった。慣れているとはいえ、火溝式は体力を使うのだ。
焚火の周りでくるくる回りながら、身体を乾かした。そうしていると、初めて独りでいることを幸福に思った。
だが、幸せのピークはここではない。
「モーザンリーク神よ、緑の恵みに感謝と祝福を」
ラーナは大地の神に祈りを捧げると、手早くクズリを解体した。
肉を串に刺して火で炙り、焦げ目がつく前に貪り始めた。
クズリを食すのは初めてだった。新鮮な食感だったが、なかなか手強い相手でもあった。
硬いのだ。身が筋肉質なだけに、噛み切ろうとするだけで顎が怠くなってくる。刃がなかなか通らなかったのも頷けた。
だが、決して不味くはなかった。
むしろ、
「んんんぅむ!」
美味だ――!
噛めば噛むほど旨味が融けだしてくる!
脂は舌に絡まって旨味を引き立たせ、口中をいっそう幸せに満たした。
絶頂は喉を通る瞬間だった。快楽が波のごとく押し寄せ、脳が痺れた。そのくせ空っぽの胃の腑に辿り着けば、たちまち燃えあがるような熱を発した。
全身に力が漲り、次の肉をとる手が止まらない。
しかし頭部の肉はさらに硬く、さすがに喰えた代物ではなかった。肉汁だけはたっぷりと啜り、それを味付けに臓物を胃袋へおさめた。
「さてさて……」
デザートにとっておいたのは眼球と脳だ。
ラーナから言わせれば、獣の最も美味い部位はこの二つだ。例外はない。クズリも絶対に美味いはずだった。
「ん、んんんんっはぁ……」
持論に狂いはなかった。
ラーナは頬に手を当て、恍惚と後ろに倒れ込んだ。
美味かった。美味すぎた。
咀嚼の間もなく口中で融け、甘く舌の根に沁みていくのである。
量が少なく、すぐに消えてなくなってしまうのは残酷の極みとしか言いようがない。
だからこそ湧きあがる感謝も
ラーナは一種の悟りの中で両手を組み合わせ、
食べきれなかった部位や骨を一箇所にまとめ、剥いだ毛皮は襟巻とした。そのままでは腐食してしまうので、唾液で軽くなめした。耐久性は如何ほどのものか。少しでも長く寒さを凌いでもらいたいが、あまり期待すべきではないだろう。
それよりも、早く人の土地へ辿り着く方法を見出そう。
独りで生きていくには限界がある。このままでは短剣の手入れ一つできない。
「……よし、行こう」
ラーナは火を消すと、手近な木へよじ登った。
高所からは辺りがよく見渡せた。
東にはエルガ村の外壁が見てとれた。充分に離れたつもりでいたが、歩幅の計算を誤ったようだ。精々、半マイルしか離れていない。火を焚いたのはまずかったかもしれない。
西へ目を向けると、遠方に山脈が窺えた。東の臥竜山脈よりは随分なだらかだ。その山麓は、徐々に東の地平へとせり出している。南方の林を途切れさせ、街道と交わったところで侵食は止まっているようだ。
「危なかったな」
このまま西へ進み続けていたら、山肌に囲われた袋小路へ行き着いてしまうところだった。
とどのつまり進路は南しかない。いずれ街道へ出ることになる。
さて、どうしようか……。
往来に行き会えば、確実に不審に思われるだろう。今の時期、フードは防寒と見逃されがちだが、さすがに包帯で防寒する物好きはいない。おまけに薄着で、毛皮の襟巻という風体だ。怪しさをかき集め練り固めたような姿である。
途方に暮れていた、まさにその時だった。
ん、煙……。
南方の林から、一筋の煙がゆらゆらと立ちのぼってきたのは。
それも四分の一マイルと離れていない距離である。
あんなところに人がいる。闇の中、街道を行くこともなしに。
不用心だな。
ふいに邪な感情が鎌首をもたげる。
「……盗むか」
ラーナは地上に降りたった。
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