十章 生かしてくれる人

〈悪魔の手〉までの道程は遠い。軽装のレイラも、いよいよ疲れを感じ始めてきたところだ。

 不気味な丘陵を突破した二人は、休息の間もなく街を縦断し、ひたすら南下の一途を辿っていた。


 陽が昇り、月が沈んだ。あるいは陽が沈み、月が昇った。


『今が誤った過去になったとしても、また新しい今を歩んでいく糧になるさ』


 その度に、レイラはウェイグの言葉を思い出すのだった。

 利用するために、辿り着くべきところへ辿り着くために、結んだ絆のはずが。

 何故か今は、本物の繋がりのように胸に根付いている。


 ウェイグと旅に出てから四日目の夜だ。

 窓の向こうに佇む白銀の月を眺めながら、レイラはまた、いつかの言葉を反芻していた。


「……あ」


 ふと我に返り、パートナーの存在をふり払った。

 やたら低いベッドの上、むき出しの脹脛に目を落とした。

 レイラはいつの間にか止めていた、足のマッサージを再開する。


旅人たびいとさぁけ?」


 すると、対面のベッドに腰かけた女が声をかけてきた。壮年の華奢な女だった。

 ここは宿屋。女同士の相部屋。四つのベッドがほとんどの面積を占めた狭い一室だ。他の二人は挨拶もそこそこに外出し、今は二人きりだった。


「ええ、旅の最中です」

「ほぉけ。〈ガラスの靴〉探してんのか?」


 女は退屈に飽かしてか、質問を投げかけてくる。

 レイラとて沈黙は息苦しいが、あまり詮索されるのも好ましくなかった。

 曖昧な笑みを返すに留めると、どうやら女は察してくれたようだ。「わこて別嬪さんだに、大変てえへんやなぁ」と肩をすくめてみせた。


「そちらも旅を?」

「んや、そぉに大層てそうなもんでねぇ。ケエネからた」


 訛りの所為で「ケエネ」に聞こえるが、おそらくケーヌ州のことだ。

 レイラは愕然と瞬いた。


「ふぇっ、それは随分と遠くから! すごいじゃないですか!」


 ケーヌ州はベルターナ州と隣接した北方の州だが、州境からここまででも実に二百マイル以上の距離がある。


途中とつうまで馬車ばさ乗せっもらっちから、てえすたこぉねぇよ」

「それでもすごいです! 冬が来る前に下ってきたんですか?」

「ん。あっつのほうざな、雪降ってから動いたっちゃこごぉてはあには死体すてえなっつまう」


 そう言って女が大口あけて笑うものだから、レイラもつられて笑ってしまった。

 だが北方の冬は、現地の人々にとっては笑い事でなく死活問題だ。炭を切らせば本当に凍え死ぬし、作物もろくに育たないので貯えがなければ餓死してしまう。家畜を失い経済的に困窮する者もあれば、物資調達、除雪作業等の事故によって命を落とす者も決して珍しくはない。

 レイラは小さく咳払いし「どちらまで?」と話題を改めた。


「こっからちとへがすった、メンサっつうまつだ。親戚すんせき筋のもんさおって、この時季じけんなっとはあまでめてもらう」

「この辺りなんですね」

「ん、もうえくらもねぇ。こぉが最後せえごの宿んなんな。旅人たびいとさぁは、どこまで?」

「ずっと南へ。山脈が途切れるくらいは行こうかと」

「はぁ、山脈て臥竜山脈っちゃろ? まだへくマイル以上いぞあんな」

「そうなんです。大変ですけど、頑張ります」

「んあ。身体かあだ付けろ」

「ええ、ありがとうございます。そちらもお気を付けて」

「あんがとなぁ」


 女が腰を叩いて微笑んだ。

 その目は暗に、もう寝ましょうかと告げていた。


「あ、あのっ!」


 しかしベッドの中へ潜ろうとする女を、レイラは引き留めた。

 だらだらと四方山話を続けるつもりはなかった。


「実は、お訊ねしたいことがあって」

「んだ?」

「アタシ、人を捜してるんです」

「はぁ、どんな?」


 レイラがと初めて出会ったのは、今から七年前。

 村を逃げ出した、あの日のことだった。

 命からがら森の池にたどり着き、たらふく水を飲んだ直後。


 ……ちゃぽん。


 音に気付いて顔をあげると、はいた――。


「とても綺麗な声の女性で、よく好んで深い緑色の装束を着てました。あとお帽子も。ベールのついた」


 痩せた女は、呆けたようにぽかんと口を開けた。


「ベールついたお帽子ぼうす……。ぞおせまか?」


 レイラは頷かず、微笑を返した。

 女はそれを肯定と受けとったようだった。


「んなら、名前ねめえけば分かぁかもな。なんつぅんだ?」

「ジュスティーヌと」


 女は顎に手をあて考える仕種を見せたが、ややあって返ってきたのは嘆息だった。


「わかんねぇな……。おれぁ田舎えなかもんやけぇ、知っとぉこつあんまのぉて」

「そうですか……」


 答えは聞くまでもなく解っていた。この縹渺ひょうびょうとした世の中、たった一人を捜し出すのが容易であるはずがなかった。

 空振りには慣れている。

 しかし落胆は無意識に吐息となってもれだした。


「すまねぇな」


 ぺこりと頭を下げる女に、レイラは慌てて手を振った。


「いえいえ! 頭を上げてください!」


 女は面を上げたが、何故かその両目は潤んでいた。


旅人たびいとさぁ、けなせぇ目せおる。そぉな大事でぜへとやってぇけ?」


 その一言に、びくりと肩が震えた。思わず目を伏せていた。己の過去を覗かれたような気がして怖かった。

 けれど、この女性には何ら悪意などないだろう。レイラが実際に体験してきた過去を知る由もない。

 レイラは淡い笑みをこぼし、己だけの知る過去に、その眼差しを向けた。


「……そうですね。彼女は、アタシの人生に欠かせない人です。生きる意味を失っていたアタシに、生きる意味をくれた人なんです」


 家族を失い、友を失い、故郷を失ったレイラの前に、ジュスティーヌは現れた。

 彼女は水を掬い、それが落ちる様を眺めていた。敵意など微塵もなく、妖艶と微笑みながら。

 涙するレイラに、こう言った。


『大丈夫よ。ワタシが傍にいてあげる』


 山河のせせらぎのような麗しい声色で。

 それはレイラの涸れた胸の奥に、どっと流れ込んできた。

 しかし運命は、一度ならず二度までも、レイラの傍にあるものを奪った。


『ごめんなさい。もう行かなければならないわ。泣かないで。安心してね。ワタシの愛しい


 二人は別れなければならなかった。

 レイラは抗ったが、どうする事もできなかった。

 気付いたときには、また独りになっていた。

 胸を引き裂かれるような思いに、涙が溢れた。

 泣き叫ばずにはいられなかった。


 唯一の救いは、ジュスティーヌが去り際に、こう言い残していた事だ。


『〈ガラスの靴〉を探しなさい。その旅の途中で、必ずまた会えるから』


 レイラはその言葉を頼りに、今まで生きてきた。

 ジュスティーヌとの再会をこそ生きる標にしてきたのだ。

 それ以外には、もう何も残されていないから。



――



 朝食を断り、レイラとウェイグは日の出前に宿を出た。

 空はまだ紺を残した深い色をしている。疲れの残る身には厳しい朝だが、風は夜のそれよりもさらに冷たく、夢現ゆめうつつの意識を現へと叩きだす。


 街を出ると、幾つもの馬車とすれ違った。いずれも牽き馬はラバで、険しい道が予想された。すでに街道には勾配もある。さほど急ではないにしても、往来が激しいのか地面は鉄のように硬い。足許に返ってくる力が大きくなれば、膝や腰に蓄積する疲労は当然大きくなるだろう。


 特にウェイグは――。


 パートナーの横顔を見上げ、こみあげる罪悪感を意識した。


 この人は、何も知らない……。


 冒険者時代のただ中にあって、未だ猟師のことを「人心を解さぬ狼」などと蔑む輩は後を絶たない。そのような連中は、身勝手な行動で隊を危険にさらしておきながら、猟師に責任を擦り付けるクズどもだ。


 だが、ウェイグは違う。

 短気な面こそあるものの、概ね穏やかで誠実な男だ。

 猟師と冒険者の役割をよく理解しているし、パートナーを一人の人間として認めてくれている。その信頼が伝わってくる。


 ジュスティーヌのこと、隠したままでいいの……?


 レイラは迷っていた。

 相手の信頼を裏切り続けていていいのか、と自問せずにはおれなかった。


 歩み寄ることは、信用することだ。

 そして、心を交わすのは虚しいことである。

 もう傷付きたくない。失望したくない。

 だから、利用するだけでいい。


 そう思っていたのに。

 人の心とは、自らのそれさえままならない。


「どうかした?」

「え、あっ、あはは……」


 ふいに真横から覗きこまれ、レイラはどぎまぎとしてしまった。

 いくらでも、この場をとり繕う言葉はあったはずなのに。

 何故か、意味不明な笑いを返すことしかできなかった。


「寒いねぇ」


 ウェイグは、その不自然な態度をいちいち咎めない。

 前から馬車がやって来ると、こちらの腰にそっと手を添えて道端へと誘導してくれた。


「……ありがとうございます」

「ううん」


 会話は短く途切れる。互いに地面を踏みしめる音だけが、風の音に混じって響く。

 やがて空は闇の残滓ざんしを洗い、浅葱あさぎ色に染まっていく。


「なにか言いたいことがあるみたいだね?」


 そう切りだしたのはウェイグだった。


「え、っと、その……」


 が、まただ。

 とっさに返答できなかった。

 いつかウェイグは訊いた。


 何が欲しい、と。


 レイラは平凡な生活が欲しいと答えた。

 嘘ではなかった。

 失った幸せをとり戻したい、その思いが嘘であるはずがなかった。

 だが、叶えられない事も知っていた。

 叶えられるかもしれないもう一つの望みは、ずっと胸に秘めてきた。


「……べつに、何もないですよ」


 レイラには、結局打ち明けられなかった。

 怖かった。

 真実を告げ、糾弾されることが。

 もう一緒に旅はできないと踵を返されることが。

 怖かったのだ。


 ああ、なんで……。


 ジュスティーヌ。彼女との再会だけが、生きる標だった。

 それを実現できない事だけが恐怖だった。


 なのに今、レイラはどうしようもなく揺らいでいた。

 それを見透かしたかのように、ウェイグは言った。


「秘密があるって辛いよね」


 レイラは目を瞠った。

 その一言に驚いたわけではない。

 ウェイグの笑みの儚さに、胸を衝かれる思いがしたのだ。

 もし、この横顔を見ていることが知れたら、彼は消えてしまうかもしれない。

 そう思わずにはいられない、危うい迫力があった。

 レイラはとっさに、馬車に気を取られたフリをした。


「分かっちゃいますか?」

「わかるさ」


 ウェイグは静かに答えると、馬車に神の加護を祈った。

 その後、懺悔のごとく胸に手を当てるのだった。


「俺にも秘密があるんだ。たくさん」

「たくさん、ですか?」


 意外には思わなかった。

 以前から、ウェイグに隠し事があるのは明らかだった。

 そもそも、最初に声をかけてきたときから胡散臭かった。

 彼の言動には、時折、露骨に嘘の気配が滲み出る。

 どうやら本人は気付いていないようだが。

 下手な嘘は、却って正直だ。

 だから、この頑なな心も、少しずつ融けていったのかもしれない。


「秘密のない人間がいると思うかい?」


 レイラは、ウェイグがやったように自らの胸に手を当てた。


「いえ」

「俺もそう思うよ。人は多かれ少なかれ、秘密をもってる。何もかも打ち明けられたら楽だろうし、そんな人がいたら、きっとこっちも気持ちが好いだろう。でも、生きていれば色んなしがらみがある。その中で秘密の一つや二つ、当然生じてくるさ」


 ウェイグは胸に当てた手を下ろし、佩いた剣の柄を撫でた。


「話したくないことは、話さなくていい。俺はそれを赦すよ」


 だから赦してくれ。

 俯いたウェイグの横顔は、暗にそう言っているように見えた。


 何があったのだろう。


 レイラは久しく他人に興味を抱いた。

 けれど、自分が話し出さない以上、訊くこともできなかった。

 生身の自分をさらけ出せない者に、生身の相手を知る資格などあるはずがない。


 ……やっぱり、人と交わるなんて虚しい。


 レイラは逃げるように、ジュスティーヌへ想いを馳せた。

 しかし逃げることはできなかった。

 ウェイグに心を赦し始めてしまった今となっては、考えざるを得なかった。


 もしも今、ジュスティーヌが現れたら……アタシはどっちを選ぶだろう?


 レイラは暫し項垂れ、やがて胸いっぱいに冷たい空気を吸いこんだ。

 そして思い出した。

 いつか同じように、清涼な朝の空気を吸ったこと。

 それがレイラとジュスティーヌの初めての出会いだったことを。


 ああ、アタシはやっぱり……。


「――」


 レイラは誰にも聞かれぬか細い声で、もしもの答えを呟いた。

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