五章 赤い手が落ちる

 眩しさが瞼に透ける。朝の迎えである。

 ラーナはそれを受け入れる。虚空へ手を伸ばし、おもむろに半身を起こす。

 鳥の囀りは朝の訪れを祝福する賛歌。耳に心地好く沁みていく。

 二度、三度と瞬いて、うんと伸びをした。背中や腰回りがポキポキ小気味よい音をたてる。

 眠気眼をこすり、さて立ちあがろうとしたところで目が合った。


「あ」


 マヌケな声がでた。

 横になった男は髭面をしかめた。左肩に触れようとして、すんでのところで手を止めたのだった。

 ラーナは、彼が生きている事に安堵すると同時に慌てふためいた。


「い、医者呼んでくる……!」

「医者ならさっき来た」


 男が手ぶりで制すると、ラーナは腰を浮かしたまま問いかけた。


「医者はなんて?」

「べつに何とも。ごゆっくりなさって下さいとか、そんな事くらいは言ってたが」

「じゃあ、大事ない?」

「さあ。だが、死にそうな感じではねぇ……と思う。傷口は死ぬほど痛ぇが」

「そうか……」


 ラーナはようやく浮いた腰を下ろす。

 だが、すぐに立ち上がるべきだと思い直した。

 男は生きている。意識が戻り、口も利けるようになった。

 なら、もうここにいる必要はないはずだ。

 早々にエルガ村をたち、〈ガラスの靴〉を探しに行くべきだ。せめて仲間の一人くらい見つけなくては、競争者に先を越されてしまう。


 そう気持ちは逸るのに。


「……」


 出立する気力が一向に湧いてこない。


「……あんたが、オレを助けてくれたのか?」


 また目を合わせてしまうからだ。

 やや生気を欠いた眼差しと。

 途端に膨れあがる、雨雲のような不安を直視してしまうからだ。

 それが旅立ちを邪魔するものの正体だというのに。


「……ボクだけじゃないけど。村の人たちと協力して運んできた」

「そうか。助かったぜ。ありがとよ。ところで、あんた名前は? オレはハガーってんだが」

「ヴァン。冒険者」


 答えると、ハガーと名乗った男は、わずかに眉を上げた。


「へぇ、得物はどこかに預けてあるのか?」

「え?」

「得物だよ。武器。まさか拳で戦うわけじゃねぇだろ」

「ああ」


 ラーナは腰の短剣の重みを意識し、ふるふるとかぶりを振った。


「冒険してる。そういう意味で冒険者って言っただけ。鍛えてはいるけど。そこらの男には負けないつもりだし。でもボク、一般に冒険者って呼ばれる人より猟師に近い」


 ハガーは怪訝に眉をひそめた。


「なんかはっきりしねぇな。猟師とも違うのかよ」

「しばらく山奥に引きこもってたんだ。まだ下りてきたばかり。狩りはできるけど、外のこと詳しくない」

「なんだそりゃ。若いのに珍しいな。しかし、なんで山を下りてきた?〈ガラスの靴〉には興味なさそうなのに。人が恋しくなったかよ」

「いや〈ガラスの靴〉だよ。人が恋しくなったっていうのも、まあ、そうかな……」


 曖昧な答えに、ハガーは笑った。傷が疼くのか、すぐに顔をしかめた。慌てて傍に近寄ると、向けられたのは苦笑だった。


「心配ねぇって。ただ痛むだけだ。ヴァンだったか。あんた、変な奴だな」

「変、かな……?」

「ああ。オレはあんたの身内でも何でもねぇんだぜ。そんなに心配するこたねぇよ」

「迷惑だった?」


 とんでもねぇと、ハガーははにかむ。


「ありがてぇさ。正直言えば、目が覚めたとき、あんたがいてくれて安心した。普段は人付き合いとか面倒くせぇと思うくせにな、心底ホッとしたよ。独りで目覚めたら……なんて考えただけでぞっとする」


 ラーナは相手の顔を見つめながら、こみ上げてくるものをほっと吐きだした。それが腕にかかって産毛を震わせた。心地好いこそばゆさがあった。


「もしかしたら、生きる幸せってのは、そんなものなのかもしれねぇな。何を手に入れるとか、何を成し遂げるとかじゃなくて、ふと気付いたら、そこに誰かがいるってだけの、些細な……」


 独特な口調でハガーは言った。譫言のようでも、自分に言い含めるようでもあった。


「……そう、かもね」


 ラーナはそれを真摯に聞いていた。

 そして結論付けていた。

 自分が〈ガラスの靴〉を求める訳もまたそこにあるのだろう、と。

 人としての生活をとり戻すことができれば、必ずしも〈ガラスの靴〉は不可欠でないのだ。


 でも、ボクには〈呪痕カルマ〉がある……。


 だから求めずにはいられない。

 この傷がある限り、穏やかな生活などゆめまぼろしだ。

 他者と触れあった感触のあとには、必ず冷たい裏切りの痛みが付きまとう。愛情も、友情も、信頼も、刹那的なもので、触れようとすればたちまち霧のように散っていく。


 それなのに――。


「ところでヴァン、これから旅に出るんだろ?」

「その予定」

「んじゃ改めて。付き添ってくれてありがとよ」

「……ううん」


 ラーナは、まだここにいる。

 ハガーから目を離せないでいる。

 この人となら――そんな盲目的な希望に縋るつもりはない。


 ただ、ハガーを通して探しているのだ。

 この世に残されたかすかな温もりを。


 ラーナの家族は――かつての故郷は魔獣によって奪われた。〈呪痕〉もちの女は、目の前で、人の手によって首を落とされた。

 命とはくも儚く、まるで無価値であるかのように運命から切り捨てられる。

 それでも過酷な生死のあわいから、生還する命があったなら。

 信じられるような気がするのだ。

 自分のような呪われた人間でものだ、と。


「行くあてはあんのか?」

「あ、えっと……実はない」

「なんだ、ねぇのかよ」


 ハガーが呆れたように笑う。

 その様は生気に満ちていて、ラーナの不安を払ってくれる。


「じゃあ、急ぐ必要はないんじゃねぇか? 見たところ、あんたも怪我してるみたいだし」

「これは、もう大事ない。見て気持ちの好いものじゃないから、隠して……え?」


 顔に触れた瞬間、ラーナは声を失った。

 指先から、つるりとした肌触りが伝ったのだ。

 まさか、と左顎から顔面を斜めになぞってみた。


 最悪の予感は的中した。


 ぶよぶよと不快な感触が、右のこめかみにまで続いていた。

 首に手をかけてみれば、緩んだ包帯の感触があった。


「なんだ、そうなのか。さっき医者が来たとき、あんたの事も看てってよ。血相変えて出ていったもんだから、ひどいのかと、っておい、なんだよ」


 弾かれたように立ち上がる女に驚き、ハガーが瞬いた。

 ラーナは包帯をきつく締め直すと、腰の短剣に指を這わせた。

 その時、玄関でドドドと床を踏む音が轟いた。

 ラーナは壁に張りつき、窓の外に目をやった。


「……くそ」


 すでに鍬や鋤を手にした村人たちが、あたりを囲んでいた。


「おい、なんだ、急にどうした?」


 ラーナは声を無視し、暖炉を見た。炎はもう消えていた。熱はどうか? 解らない。しかし退路は他に残されていなかった。

 ラーナは哀愁とともにハガーを一瞥した。


「……元気で」

「うぎゃッ!」


 ハガーが目許を押さえた。

 ラーナは暖炉へ飛びこんだ。


「つっ!」


 熱かった。

 だが幸い、すぐに出れば重度の火傷を負う心配はなさそうだ。

 ラーナは煙突の中をよじ登る。


「覚悟しろ、バケモノぉ!」


 直後、ドアの叩き開けられる音。

 次いで舌打ちや悪態が続く。

 ハガーが村人になんと説明するかは分からない。それを聞き届ける余裕もなかった。

 まだ熱のこもった煙突を上へうえへ。

 頭上に口をあけた矩形くけいの光明を掴むように、煙突の縁へ手をかけた。

 恐るおそる顔をだした瞬間。


「……ッ!」


 ビョウと風を切って矢が飛来した。

 さらに足許から、もくもくと黒煙が吹きあがってくる。暖炉に火が灯されたのだ!


「……容赦ないな」


 ラーナは冷静だった。足と背中を押しつけ身体を固定し、外套を脱いだ。そして、それを煙突の外へ投げた。

 空中で外套がはためくと、たちまち矢が飛来した。

 直後、ラーナは煙突の中からとび出した。

 矢は飛んでこなかった。


 ラーナは屋根に降りたち、辺りを見渡した。地上は数十人もの村人に囲まれていた。その輪からやや離れた場所に、射手らしき人物が二人いた。どちらも次の矢をつがえており手際が悪かった。

 ラーナは輪の中に目を戻し、適当な一人を睨んだ。

 双眼に炙るような熱がともった。


「うわああッ!」


 すると、睨まれた人物が倒れた。周囲の何人かが転倒に巻き込まれ、村人たちの注意を一瞬引きつけた。

 その隙にラーナは隣の屋根へ跳んだ。


「逃げたぞ!」


 危うく着地し、軋む屋根の上を駆けだした。

 ところが家屋は思いの外密集しておらず、次の屋根へ跳び移るには無理がある。辺りは畑も多く、遮蔽物が少ない。射手にとっては絶好の視界だ。


 だが、まだ運に見放されたわけではない。


 希望は北方のにあった。

 ラーナは全速力で駆け、一抹の逡巡もなく跳んだ。

 着地と同時に前転し、勢いそのままに地上を駆けだした!


「なんだ、あいつ速いぞッ……!」


 その走力は凄まじかった。

 武器を手にした村人より、腰巾着程度の荷物しか持たないラーナのほうが速いのは当然だ。

 それに加え、彼女は足の回転が速い。

 歩幅こそ短いが、踏みこみは綿のように軽く身体を前へ押しだしていく。不思議と足音はなく、呼吸は一定だった。


 ……こんな時に師匠の教えが役立つなんてね。


 ラーナは流れるように爪先の向きを変えた。ジグザグに駆け、時には小屋を、水車を横切って射線を殺した。

 見る見るうちに、追手との間に距離が生まれていく。武装解除した村人たちが、その空白に押し寄せると、射手は誤射を恐れて手を止めた。


「……いた」


 やがてラーナは、耕地に放置されたを見出した。

 虚ろな目で見返してきたそれは、耕起農具プラウに繋がれた二頭のウシだった。

 ラーナは短剣を抜くなり、農具とウシを繋いだ索具を切り落とした。


「……ごめんね」


 そして一方の臀部に刃を閃かせた。


「ブモオオオォォオォオオオオッ!」


 血をしぶかせたウシは、たちまち激昂の唸りをあげ暴れだした!

 もう一方は、狂乱する仲間に驚いてバタバタと走りだした。

 ラーナはその背によじ登った。


「うわああぁっ!」


 追手たちは、地響きを起こし怒り狂ったウシに行く手を阻まれた。プラウを薙ぎ倒し、目につくものすべてに襲いかかるそれは最早家畜でなく単なる獣だった。

 その隙にラーナは、切り落とした索具を鞭代わりにウシを打ち、無理やり走らせた。決して速くないが力は強い。振り落とされないようにするだけで全身の肉が軋むようだ。この力が必要だった。

 畑の土を撥ねちらし、猛進する先に、やがて村を囲んだ壁が見えてくる。


「行け、止まるなよ……!」


 追い打ちに索具の鞭を一発。ぺちんと大きな音が鳴り、ウシが悲鳴をあげ我を忘れる。

 迫る、迫る、木材の外壁――!

 とっさに身を伏せた、次の瞬間。


「くうぅあ!」


 雷鳴にも劣らぬ轟音が鼓膜を叩きつけ、地から天へと衝撃が突き抜けた!

 吹き飛ぶ木っ端!

 たまらず目を閉じると、木片が肩口を裂いた!

 痛みに力が緩んだ。

 その時、背中を無数の糸で吊り上げられたような気がした。

 かすかに瞼を上げれば、眼前に空――。


「ぐあ……ッ!」


 そう思った次の瞬間には、強か地上へ投げだされていた。噛みしめた空気が一気に吐き出され、ごろごろと無様に転がった。


「か、ぁ……!」


 息ができず、胸を押さえた。こめかみを殴りつけ、視野に滲む白を払った。

 呼吸が戻ると、ラーナは一息に肺を満たし立ちあがった。

 口中の血を唾とともに吐き捨て、頭を振って前を見据える。

 村人に追いつかれては、無茶をした意味がない。逃避行はまだ終わっていないのだ。


 この場を去る前に、尚もよろよろと進みつづけるウシを見た。「痛かったね」と労った。

 そこへメイプルの紅い葉が舞い落ちた。それはラーナの伸ばした手のようだった。ウシは尾を振り、それを払い飛ばした。


 ……あの子、もう人に心を開かないかもしれないな。


 ゆっくりと茨を握りしめるような罪悪感が残った。

 そして、ふと思わされる。


 これからも同じようなことを繰り返していくのだろうか。

 その果てでとり戻した生活が幸せと言えるだろうか、と。


 しかし迷いは、すぐに断ち切られた。


『消えろ、バケモノめ!』


 かつて愛した者の相貌が、ラーナの背を震わせた。

 差し伸べる手の代わりに投げつけられた石の痛みが、胸の奥に疼いた。


 ……もうあんな目には遭いたくない。


 ラーナは拳を握り、またぞろこめかみを殴りつけた。その痛みを以て、過去の疼きを殺した。

 改めて辺りを見渡せば、歓迎の手を拡げるのは血のように紅く色づいたメイプルの林だった。


 紅葉がひらりひらりと肩に落ちてきた。


 ラーナはそれを一瞥しただけで、払おうとはしなかった。

 ただ、道なき道へと踏みだしていくだけだった。

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