四章 気配

「ッ!」


 風が唸ったのは一瞬だ。

 レイラは一跳躍で相手の懐へ潜りこんだ。

 指を鉤爪のように曲げ、真下から掬い上げた。

 首を裂くか、顎を掴み吊り上げるか。

 情け容赦ない一撃だ!


「思ってたより恐ろしい手を使うなぁ……!」


 ウェイグは愕然と目を剥いたが、冷静だった。

 背を反らし躱した。

 爪が顎をかすめたものの、薄らと赤い線を滲ませただけだ。


 ところが、レイラはすでに次の挙動へ移っている。

 身体のばねが伸び切ると跳んだ。

 爪先はしなり弧を描いた。

 空中回し蹴りだ!


「おっと!」


 ウェイグは、すんでのところで体勢をたて直し、肘でガードした。すぐさまステップを踏み、距離をとろうと試みる。


「はァ!」


 レイラは着地衝撃をすかさず踏みこみに転換し隙を与えない。尾をひく眼光とともに拳を打ちこむ!


「ちょっと、待って欲しいんだけどな!」


 狼狽しながらも、ウェイグは拳を上から叩き落とした。二、三と続く乱打も的確にガードすると、身を捻って斜めに跳んだ。側面へ回りこみ、今度こそステップで距離をとった。

 双方睨み合った。

 レイラはシュっと短く息を吐きだした。


「手加減はいりませんよ」


 声に怒りが滲んだ。

 不服だった。

 ウェイグはこちらの動きに的確に対応したが、一切攻めの姿勢をとらなかった。


「待ってくれ。手加減とかいう前に、俺は端から闘うつもりなんてない」


 思いがけぬ一言に、レイラは眉をひそめた。


「何を言ってるんです。まさかその剣、飾りではないでしょう?」


 苛立ちをあらわに、ウェイグの腰に佩いた剣を見下ろした。

 本来、旅に臨む身であれば不要なそれを。

 ウェイグは一瞬冷たい眼差しを寄越したが、すぐに肩をすくめてみせた。


「……冒険者時代黎明期、旅人と言えば猟師のことだった。知ってるかい?」


 突然始まった昔語りに、レイラはいよいよ辟易として構えを解いた。


「話をすり替えないでください」

「まあ聞いてくれよ。ちゃんと実力は証明する」

「ホントですか? できるんですか?」

「もちろんだとも」


 何から何まで胡散臭い奴。


 不信感は募っていくばかりだ。

 だが、先の体さばき、素人でないのは確かだ。

 不承不承、レイラは続けてくださいと促した。


「ありがとう」


 ウェイグは相好を崩し語りだした。


「猟師は独りで充分に旅をこなせた。土地勘に優れ、自然で生き抜く術も身につけていたから」

「でも莫大な褒賞金に目の眩んだ連中が、殺してでも宝を奪おうとした。有名な話です」

「そう、それで現在の冒険者が生まれた。俺たちはライバルから向けられる悪意を受ける盾。だから重くかさばる得物だって手離せない」

「ええ。この話、意味あります?」


 レイラは急かした。無駄な時間は費やしたくなかった。

 ウェイグはさすがに危機感を覚えたらしく無防備に歩み寄ってきた。


「つまり、つまりだよ。時の移ろいによって、人や物事の在り方も変わるってことが言いたかったんだ。わざわざ殴り合わなくても、これで実力は証明できるはず」


 そして、おもむろに襟の中へ手を入れた。

 レイラに期待はなかった。

 どうせ訓練所の傭兵認定バッジでも出てくるのだろうと思っていた。

 ところが、取り出されたものを見て目を剥いた。


「まさか、それ……」


 まさかだよ、とウェイグがそれを掲げた。


「闘技大会のメダルだ」

「ちょっと、見せてもらってもいいですか?」

「もちろん」


 レイラはメダルを受けとり、矯めつ眇めつした。

 銀だ。鉄や鉛でなく、本物の銀で出来たメダルだ。

 中央には武神ゴルドアの厳めしい顔が彫られ、その下に日付や開催地などがエンボス加工されている。


「地方戦の銀章、ですね……」


 闘技大会は傭兵認定を受けていない者なら誰にでも出場資格がある。男女の別、年齢すら不問だ。武器さえ用いなければ、どんな武道、戦術に頼ってもよく、相手を戦闘不能にさせるか降参を宣言させることで勝敗を決する、シンプルな大会である。

 数年前まで、それは庶民の娯楽に過ぎなかった。小規模に催される祭りだった。

 ところが冒険者時代の幕開けとともに、闘技大会の様相は激変した。


「王都戦の賞金ってすごいんだ。〈ガラスの靴〉ほどじゃないけど。国営キャラバンからのスカウトとか豪華な特典だってある。それを目当てにした連中は怖かったなぁ。王都戦進出のために地方戦から必死だ。腹を空かしたケダモノみたいに突っこんで来るんだ。まあ、俺もそうだったんだけど。とにかく強者ぞろいだったよ」


 ウェイグは過去を懐かしむように語った。

 拳をにぎり微笑むと、レイラを見た。


「これじゃ、レイラちゃんのパートナーには力不足かな?」


 レイラはバツ悪く、ウェイグを見返した。

 意地悪い男だと思った。

 闘技大会のレベルは年々上がっている。

 地方戦といえど、大会第二位まで勝ち残った男が力不足であるはずがない。

 先の立ち合いなど、完全にこちらの動きを読まれていたのだ。


「……とんでもないです」


 吐息とともに敗北を認めた。

 そしてメダルを見下ろし呟いた。


「……猟師も、こういうので実力を測れたらいいんですけど」


 ウェイグは一瞬ぽかんとしたが、我に返るなり吹きだした。

 レイラは眉をひそめたが、いつの間にかつられて笑っていた。


「ところで、王都戦には出場されたんですか?」

「したよ。初戦敗退だった」


 ウェイグがはにかんだ。

 そこでレイラは、初めて相手に好感を抱いた。


「アタシ疑り深いし、いざとなれば獣みたいに獰猛です」

「ああ、もう充分に理解した気がするよ」


 軽々と言ってのけられ、レイラはぷくりと頬を膨らませた。

 けれどすぐに吹きだして、片手を差しだした。


「それでも一緒に旅してくれますか?」


 ウェイグは迷わなかった。唇を一文字に結び頷いた。

 二人は固い握手を交わした。



――



 善は急げ、とウェイグは言った。

 レイラは異論を唱えなかった。


 セオリー通りにいけば、より大規模なキャラバン隊を組織するのが普通だが、二人の頼みの綱は、あくまで地方学者の訳分である。

 精度、信憑性の観点から、現時点でそれが指し示す場所へ向かっている者は少数と考えるべきだ。たっぷり時間をかけ強力な隊を編成するより、少数でも早々に探索を始めたほうが目的を達成できる可能性は高い。仮に競争者がいるとしても、同じことを考えるはずで、戦力に大きな差が生じるとは考えづらかった。


 かくして二人は早々に旅の支度を整え、その日のうちにサルーガをあとにした。

 現在は、街道を西へ進みながら、例の目的地について話しているところだ。


「俺たちが目指すのは〈悪魔の手〉だ」

「〈悪魔の手〉?」


 レイラは思わず、西方に鎮座した山脈を見上げた。

 恐ろしく高い、竜の顎の如き峰々――臥竜山脈を。


「安心して、あれじゃないから」


 懸念はすぐに否定された。

 ウェイグから訳文が手渡される。

 そこにはこうあった。


『悪魔の手は右にあり。甲は東に。平は西に。無名指の先端は鱗片の物の怪。胎の中』


 意味不明だ。

 レイラは早々に観念し首を傾げた。


「ここから、ずっと南西へ下ったところに、鋸壁きょへきと呼ばれる山がある。壁じゃなくて山ね。正確に言えば、五つの峰からなる山地だ。えっと」


 ウェイグが地図を拡げ、「サルーガ」から南西へと指を滑らせる。臥竜山脈を横切り、ほとんど図上の左下隅を示す。そこには中途で切れた波形の曲線が見てとれる。


「見ての通り、ベルターナ州を少し出たところにある。この地図では半端にしか描かれてないけど、実際は、ここからさらに南西に連なっている」

「それが〈悪魔の手〉?」


 ウェイグは自信に満ちた面差しで頷いた。


「実は、俺の故郷は鋸壁の近くなんだ。マリンツェ州の村で、あの辺りは昔ガルタナスという小国だった。でも我が国エルクニアとの戦争に敗れ、併呑へいどんされたんだ」


 レイラは話に耳を傾けつつも、辺りに油断ない視線を投げていた。賊や獣を警戒しているわけではない。植生の観察だ。

 街道は三叉路に差しかかったところで、進路はおよそ西と南に分かれていた。街道に規則的な並木はなく、道のない西南西の方角に、まばらに群生した木々を見てとれる。

 その特徴的な灰白色は、遠目からでも瞭然とシラカンバの木であることが判る。臥竜山脈の麓は、まだ勾配が緩やかで日当たりも好い。如何にもシラカンバが好みそうな地勢だった。


 レイラはそれを指差し、ウェイグとともに一度街道を外れた。

 その間にもウェイグの説明は続く。


「戦争の折、鋸壁はその名のとおり、見張り台としての役目を担っていた。一種の防衛線だったんだね。ところがある日、圧倒的な地の利も空しくエルクニアの大軍勢が鋸壁を制圧、雪崩の如くガルタナスへ進軍してきた。その絶望的な光景を目の当たりにした人々は、五つの峰を悪魔の手のようだと言ったそうだよ」

「へぇ、それで〈悪魔の手〉ですか」


 感嘆の声に偽りはないが、レイラは着々とシラカンバの樹皮を剥ぎとり回収していった。


「うん。ところで、どうして白樺の皮を?」

「シラカンバの樹皮は油を多く含んでいますから、よく燃えるんです。野営の際、役立ちます」

「なるほど」

「それに見てください。人為的に剥ぎ取られた形跡が少ない。西へ渡る旅人が、そう多くなさそうだと判ります」

「ライバルが少ないのは好いことだ」


 二人は街道へ戻り、道なりに歩きはじめた。


「……」


 そこで会話は途切れた。

 単に話題がなくなっただけでなく、勾配が険しくなってきたためだった。

 山脈はもはや眼前である。屹立した威容は、頂上を窺い知ることもできない。山肌を打つ風は重く唸って渦を巻き、足許に烈しく吹きつける。


 二人は、早くも竜の口腔へ挑み始めたのだ。


 道は南西へ大きく歪曲していった。牙の外周を螺旋状に登っていく。その険しさは凄まじい。膝を抱えるように踏みだしていかねば、とても前へ進めなかった。

 樹木は次々と岩に取って代わられ、左側だけが不意に切り立った崖へと変わる。

 崖下は山と山の間に横たわる長大な谷だ。あそこを突っ切っていければ楽なのだが、生憎、谷底は見えなかった。地上と同じ高さに、黄葉の樹冠が拡がっている。底はさらに深いのだ。


 竦む足を諫め、道に目を戻すと、縁のそこここにかすれた血痕が見て取れた。

 足を踏みはずし、必死に這いあがろうとした者でもいたのか……。


「……」


 レイラは目を眇め、わるい想像を断ち切った。

 ここで誰がどうなったかなど、自分たちには関係ないことだ。それよりも、今は、目の前の現実と向き合わなければならない。妄想に溺れれば、己が足もまた虚空へと沈むことになる。

 人の道は僅かだ。あまりに細い。それは風の道もまた僅かであることを意味する。実際、風は坂を転がり落ちるように吹きつけてくる。耳許でキャラキャラと嘲笑に似た音をめぐらせながら。

 そそり立つ山肌に手をつき懸命に進んだ。


 休みたい……。


 何度も心の弱い囁きを一蹴した。

 風の冷気は火照る身体に心地よく感じられる一方、肉体の警句でもあった。小休止を挟もうものなら、汗と寒風で身体は凍てつき、余計に道程は険しくなる。死ぬ恐れも当然あった。


 でも、辛い……!


 方々を渡り歩いてきた猟師でさえ、さすがに応える道程だ。

 が、早急に〈悪魔の手〉へ辿り着くためには、この山脈を越えるしかない。

 山脈を迂回すれば、旅程は数日も延びる。欠片探しは時間との勝負。サルーガを出る際、ウェイグが言ったのは真理だ。


 善は急げ。


「……はっ」


 レイラは額の汗を拭い、笑いを吐きだした。

 唇が切れて血が滲み、足が燃えながら凍てついたように固くなっていた。

 それでも、いつか村を追われ、独り山中へ飛びこんだあの夜よりも今は、苦しくも心細くもなかった。

 吹きつける風の音は、いつからか嘲笑から喘鳴のように感じられてくる――。



――



 月が出ていた。

 獲物をしゅうねく付け回す、怪物の眼のような。


「ヒ、ッ……ヒュー……ヒッ」


 肺が燃えていた。

 空気は薪のようだった。吸いこむ度に喉につっかえて痛み、肺の中でゴッと燃え盛った。

 息も絶え絶えに蹲ったレイラを、ニレの葉擦れの音がわらう。ここだよ、ここだよと追跡者に告げるように、大きく尖った葉は揺れる。


「ヒュー、ッ……ヒ、あぁ……」


 レイラは地を這う。

 少しでも遠く、少しでも遠く。

 人目の届かぬ場所へ、闇の抱いてくれる場所へと。

 見つかれば一巻の終わりだ。

 涙ながらにこぼした父の一言が、レイラの胸にはひどく痛く恐ろしかった。


『……そうだ。こいつを娼館に売り飛ばしてやろう』


 幸い、跫音きょうおんは聞こえなかった。葉が嗤うばかりで。

 松明の明かりも見えなかった。月が眩しいばかりで。

 それでもレイラの心は追われ続けていた。

 惨めに土を舐め、掻きつづけるしかなかった。

 その手がちゃぽんと冷たい感触に沈むまで。


「……ぁ」


 顎を上げると、歪んだ視野に月光の束が揺れていた。それほどまでに明るい夜なのだと思った。

 ところが光は、天ばかりでなく地からも湧きだして見えた。天空の眼を映した巨大な池が、そこにあったのだ。

 初めて救われた心地がした。

 レイラは重い身体を起こし、両手で水を掬った。指の隙間からこぼれ落ちる滴が、星の如くに瞬いて、哀しいほどに美しかった。


「ん、んっ……」


 飲めば、全身が綿になったかのようだ。余すことなく四肢の先にまで沁みて、命が重みを増していく。

 何度もむせ返ったが、身体は飲めよ飲めよと訴えた。

 充分な潤いに満たされると、レイラは徐々に凪いでいく水面を見つめた。

 そうしていると、次第に心まで凪いでいった。


 もう逃げる必要はない、と。


 しかし穏やかな時は、束の間に過ぎなかった。

 こぼれた情感は波紋をうち、次第に大きな波を形作る。

 やはり逃げてきてしまったのだ、と実感せざるを得なかった。


「アタシは……」


 水面は、鏡のごとくレイラを映しだしていた。

 頭上に輝く黄金の月でさえ嫉妬するほどの見目麗しい顔を。


「こんな、こんな顔ォ……!」


 辛かった。悲しかった。憎かった。

 誰もが羨む、この美貌が。

 こんな顔でなかったなら、父は、母は、友は。


『清く生きようとするお前が、たまらなく愛おしい』

『わたしは、あなたを赦します』

『ありがとう。やっぱり、あなたを信じてよかった』


 自分を愛してくれたはずなのに。

 逃げる必要などなかったはずなのに。


「どうしてよ……ッ!」


 涙がこぼれる。水面に落ちて波紋を作る。美しい顔は歪んで月色と混じり合い、何者でもない何かになる。


 ちゃぽん。


 と、その時また水面をはじく音がして。

 レイラは身をすくませた――。



――



「――おーい!」


 風を穿ち寄越された呼び声に、レイラは身をすくませる。

 我に返り額の汗を拭うと、ウェイグが疲労と苛立ちを滲ませた顔で振り返った。


「……最悪だ」


 レイラはその隣に並び立った。ちょうど上り坂の終わりで、先は平坦な道が続いていた。

 その向こうから男が駆け寄ってきていた。おそらく呼び声の主だった。

 男の背後を見据え、レイラはウェイグの心情を悟った。

 傍らの断崖に飛び降りるための翼が欲しい、そう願っているに違いないと。


「お二人さん、悪いがしばらく通行止めだぁ」


 聞くまでもなく明らかだった。道は半ばで途切れていた。鋼色の巌が三つも四つも重なって、おまけに土砂が糊のように隙間を埋めていた。


「なんとか通れる道はないかな?」


 ウェイグが無理を承知で訊ねてみたが、男は気の毒そうに胸の前で手を振った。


「無理だ。また崩れるかもしれねぇし」


 塞がれた道の上方の山肌は、巨大な匙でくり抜かれたように抉れていた。


「それに山崩れがあった時、魔獣が現れたとも聞いてる。岩と一緒に落ちてったそうだが、まだこの辺りをうろついてないとも限らねぇよ」


 魔獣の響きに、二人の表情は凍りついた。

 見る限り大規模な山崩れだ。

 災厄と呼ばれる魔獣がいたとなると、それが引き起こした現象のようにも感じられる。


「分かりました。引き返しましょう、ウェイグさん」

「ああ……そうするしかなさそうだね」


 二人は悄然と肩を落とした。


 最早、こう言い聞かせるしかなかった。

 冒険には必ず、想定外の難事がついて回る。乗り越えねばならない場面もあれば、潔く引き返さねばならない場面もある。適切な状況判断ができなければ先は長くない――。


「さて、これからどうするか……」

「とりあえず、山を下りましょう。日が暮れると危険です」


 たった二人のチームだ。ライバルでなくとも、野盗に襲われてはたまらない。

 魔獣の出現も気がかりだった。

 地上で遭遇したなら、かろうじて逃げられる望みはある。

 だが山道で遭遇すれば、万が一にも助かる見込みはない。

 なにせ退路がないのだ。確実に殺される。


「……」


 レイラは崖に目をやった。

 崖の縁に目をやった。

 やはりそこには、かすれて消えかけた血の痕が残っていた。


 ふと先の男の言葉が思い出された。


『岩と一緒に落ちてったそうだが、まだこの辺りをうろついてないとも限らねぇよ』


 とたんに胸が早鐘を打ちはじめた。

 最悪の想像が脳裏を過ぎったのだ。


 この血痕は、まさか。

 のものではないのか、と。

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