三章 いまここにあるもの

 村の門前に座っているのは、しなびたキノコのような老爺ろうやだ。片手にもった赤い果実をボリボリと頬張り、膝上に拡げた羊皮紙へ濁った目を落としている。


「おじいさん、ちょっといい?」


 ラーナが声をかけると、老爺はまた一口果実をかじった。そうして紙に目を凝らし唸る。ちっとも目線をあげる気配はない。

 ラーナは小さく嘆息し、仕方なく老爺の肩を叩いた。

 老爺はぎょっと目を剥き、ようやく旅人を見上げた。


「こんにちは」

「あ、あぁ、こんにちは……」

「外出たいんだけど。開けてもらえる?」

「ああ、すまん。門ね」


 相手が旅人と判ると、老爺は立ち上がり開門作業に取りかかった。

 しかしすぐに手を止めてしまう。


「あ、ちょっと待った。あんた、どこまで行くつもりだい?」


 ラーナは例の地図の苛立ちを隅に追いやりながら、こめかみを掻いた。


「特に決めてない」

「え、決めてないのか……。まあ、いいや。行くあてがないなら、むしろ丁度いい。西のエルガ村へ向かいな。東へ行くには山道を越えなくちゃならんのだが、あそこは落石が多くてね。案の定、今朝あったそうなんだ。たぶん道が通るのに、半月は待たなくちゃいけねぇよ」

「そうなんだ。危ないところだった。教えてくれてありがとう」

「いやいや、礼には及ばんさ」


 老爺が作業を再開する。

 今度は手を止めず、こう訊ねてきた。


「ところで、あんた独りかい?」

「うん」

「冒険者だろ? 仲間はいいのかい」

「ここで見つけていこうと思ったけど。気が変わった」

「へぇ、冒険者の勘ってやつかい?」

「まあ、そんなところ」


 ラーナは適当に受け流した。処刑を目の当たりにして気分が悪くなったからだと言っても、理解してもらえるとは思えなかった。

 認めたくはないが、〈呪痕カルマ〉もちは死んで当然、殺されて当然の存在なのだ。


「よし、開いたぞ」


 老爺が腰に手を当て、伸びをした。

 ラーナはその傍らを通り、ありがとうと頭を下げた。

 ああ、と微笑んだ老爺は、すれ違いざまに冒険者の顔を見た。

 襟の間から覗いた包帯の相貌そうぼうを。


「あんた、それ……」


 どうした、と訊ねようとした声は、声にならなかった。

 悲鳴へと変わったからだ。

 ふいに目の前が真っ暗になり、腹の底から浮遊感が立ちのぼってきた。

 ふらついた老爺は門を支えに、なんとか転倒を免れた。目許をごしごしと擦り戦慄した。


「お、あっ、あれ……?」


 幸い、色彩はすぐに戻ってきた。

 目をしばたたき焦点が合ってくると、老爺は冒険者をさがしたが。


「い、いねぇ……」


 その姿は、幻でも見ていたかのように忽然と消えていた。



――



 老爺の目を欺いたラーナは、街道が弧を描き始めるなり、セコイアの並木の中から街道へ戻った。

 辺りは木々に囲まれているはずなのに、道へ出たとたん風が吹いて冷たい。外套を羽織っていても肌に痛く目に沁みる。


「しまったな……」


 下着を買い損ねた。が、門番に異能を使っておいて、いまさら戻るわけにはいかない。


「ううん、エルガで買う!」


 先へ進むことを考えよう。

 気分転換に、両手でぱちんと頬を叩いた。じんと痛むが、弱い自分は叩きだせる。寒さまで紛れるような気がした。


「ふう……いいね」


 深呼吸をして東を見れば、なかなかどうして悪くない眺めだ。

 否、むしろ圧巻というべきだろう。

 怪物じみたセコイアの背後。

 その巨躯に阻まれることなく、雲を穿つ威容があった。遥か南方にまで連なる、長大な山脈だった。


 その高峻さたるや、竜のあぎとの如し。


 ジグザクの稜線はひとつとして欠けることなく連なり、山巓さんてんに積もる雪は牙の鋭さを象徴するかの如く白銀と煌めいていた。ゆえに名を、臥したる竜――臥竜がりょう山脈という。


「……首、痛くなってくるな」


 天を噛み砕かんばかりの威容には身が竦む思いだ。自然はこれほどまでに力強く果てが見えない。こみ上げる感銘は計り知れない。師からはよく自然を侮るなと叱られたが、これは、さすがに侮りようがない。


「まさか、悪魔の手じゃないよね」


 ラーナは、苦笑した。

 あり得ないとは言い切れなかった。

 だが、そうという確証もない。

 いま優先すべきは仲間集めだ。

 ラーナはまたぞろ頬を叩いて伸びをする。


「さて、と」


 そうして街道の延びる南方へと歩き始めた。

 ラーナはそれを奇跡のように感じた。

 長らく道なき道をかき分け生活してきたからだ。

 師に拾われる以前は街で生活していたはずなのに。

 この五年で積み重ねた記憶と経験が、かつて当然だったものを新鮮に錯覚させていた。


 きっとこの旅も自分を変えていくのだろう。

 否、変わらなければならないのだ。

 そのために師の許を去り、山を下りてきたのだから――。


「ターパス神の加護があらんことを」


 ラーナは、その声ではっと我に返った。

 見れば、正面から馬車がやって来ていた。その両脇には直接馬に騎乗した人の姿がある。おそらく〈ガラスの靴〉探索隊とは異なる、行商キャラバンだ。


「ターパス神の加護があらんことを」


 道のど真ん中を歩いていたラーナは、慌てて路傍ろぼうに寄った。

 道は曲がっていて、馬車はその奥から続々とやって来ていた。


 ラーナはそれらを観察し、ここは好い道だと見当をつけた。

 荷車を牽いているのが、どれも普通のウマだからだ。ウマは足こそ速いが、さほど体力がなく繊細な生き物である。道が悪ければ、必然的にロバやラバ、あるいはウシを見る機会が多くなるだろう。

 実際、地形はおよそ平らかで起伏や穴はちっとも見当たらず、泥濘ぬかるみひとつなかった。


「ん」


 おかげで、旅は順調に進んだ。

 分岐路へたどり着いたのは、日がやや西へ傾いた頃だった。空の端に散らばった雲が、かすかに朱色を刷いて見える。鳥が巣に帰り始める頃合いだ。日暮れには、まだ幾許いくばくか猶予があった。


 ラーナは瘤のように盛り上がった岩の前で足を止めた。

 隣に打ち立てられた里程標を覗きこめば、東は「サルーガ」、距離は八マイルとあった。

 試しに東を眺めてみると、明らかな登りだ。勾配は緩やかでない。並木は徐々に低木と化し、茂みも少なくなっている。地衣類と思われる独特の模様が木々や岩に付着している。どうやらこの先が、老爺の忠告してくれた例の落石のあった道のようだ。


 一方、西の「エルガ」は三マイル。大した距離ではないし、道は対照的に緩やかな下りとなっていて、如何にも楽そうだった。

 この分なら日が暮れる前にエルガへ辿り着けそうだ。

 しかし油断は禁物。

 慢心は注意力を散漫にさせるばかりでなく、悪運まで呼び込むという。


「……よっと」


 ラーナはその場に屈みこむ。

 里程標隣の岩の前には、三つの古びた皿が置かれている。一つだけ石ころが置かれており残りは空だ。

 腰に吊るした袋の中をまさぐり、空の皿に木の実を一つ置いた。

 そして手を組むと旅の無事を祈った。


 短い祈りを終えると、ラーナは岩の表面を見つめた。

 中ほどが窪んで影に隠れている。旅の神ターパスの彫られている証だ。

 街道の各所には、ターパス神が祀られている。信心深い旅人は、これに貢物を捧げ旅の安全を祈るのだ。


「さて、行くか」


 ラーナは膝に手をつき立ち上がる。

 西の坂を下りはじめると、風向きは追い風になって、ますます足が進んだ。

 早めに宿をとれるかもしれない。処刑を目の当たりにした所為で、身体はともかく心が疲弊していた。仮眠をとった上で、パートナーを見つけられたら最高だ。


 でも、見つけられなかったら……。


 不安は水で押し流すことにした。

 ラーナは水筒を呷った。


「……うぅっ」


 水は思いの外冷たかった。胃の腑がきゅっと縮こまった心地がする。

 背中から吹きつける風は夜が近づくほどに鋭くなっていく。

 ハアと手のひらに息を吐き、腹を撫でていると、とおくに人影が見えてきた。大きいのと小さいのが、それぞれ一人ずつ。親子だろうか?


「……?」


 だが、どうも様子がおかしい。辺りをきょろきょろと見回すばかりで、その場から動こうとしなかった。

 嫌な予感がした。しかし他に道はない。進むより他ない。

 やがて、大きいほうがこちらに気付き手を振ってきた。

 ラーナは手を振り返しながら、辺りを警戒した。



 野盗が設けた囮かもしれない。


 殺気は感じられなかった。並木の奥に動く影もない。風に運ばれてくる匂いは草木のそれだった。

 急かすように手を振る人影を見て、ラーナは認識を改めた。

 小走りに坂を下っていった。

 次第に、二人が親子でなく若い姉弟だと判ってくる。

 姉はラーナと目が合うなりほっとした表情を見せ、弟は怯えたように姉の後ろへ隠れた。


「どうしたの?」


 と訊ねるなり、姉は愁眉しゅうびをよせた。「大変なんです!」と道の先を指し示した。


「この先に男の人が倒れてるんです。血が出てて、でも、わたしたちじゃ運べなくて……」


 見る見るうちに、その顔が蒼褪めていく。

 どうやら怪我人の状態は深刻らしい。

 ラーナは二人に深く頷き、案内を促した。

 すると、それまで怯えた様子だった弟に「こっち!」と手を引かれた。


 おかげで件の男は、すぐに見つかった。


 髭面の四十がらみの男だった。木の幹にもたれかかり目を閉じている。

 姉の言ったとおり出血している。右の袖が全体的に黒ずんでいるが、肩口の染みが特にひどい。血が泡になって漏れだしている。


「ひどい傷。三人で運ぶの難しいな。とりあえず、人呼んできて。村、遠くないでしょ?」

「はい、すぐに!」

「応急処置しとく。焦らないで。状況、簡潔に伝えて。できる?」

「で、できます!」


 そう言うと姉弟は、跳ねるように駆け出して行った。

 その背中を見送る間もなく、ラーナは男の衣服を脱がし傷口を検めた。そこここに擦り傷や切り傷が見られたが、やはり一番ひどいのは肩の傷だった。大きく抉れた傷口には、白いものまで覗いていた。


 ラーナは躊躇なく、自分の外套の袖を裂いた。それを傷口に押し当て、男の腕を持ちあげながら腋を指で圧迫した。

 男は痛みに呻いたが、血を流したままにはしておけない。まずは血を止めなければ確実に死んでしまう。


「痛いだろうけど、恨まないで」


 持ち上げた腕の下に潜りこみ、立ち膝になって姿勢を維持する。大きな傷だから、これで血が止まるかどうかは分からない。

 だが、ラーナにはこれ以上できる事がない。専門的な知識はないし、あったところで道具もない。手持ちの軟膏が力不足なのは明らかだ。


「大丈夫。すぐに助けが来る」


 精々、励ますことしかできない。

 この人は助かる。そう言い聞かせるしかない。

 男の傷はひどいが、〈呪痕カルマ〉ではなかった。

 恐れる理由がなければ、人は苦しむ者に手を差し伸べてくれるはずだ。

 あの姉弟のように。

 でなければ、ラーナは世界を見限ってしまうかもしれなかった。

 希望を絶ってしまうかもしれなかった。


『消えろ、バケモノめ!』


 薄っぺらの良心でも信じていなければ、生きる事は、あまりに残酷過ぎる――。


「ここまで頑張ったんだ。もう少しの辛抱」


 ラーナは男に呼びかけ続けた。



――



 熱波とともに吹き荒ぶ、火の粉を孕んだ風の中。

 ラーナは独り天を見上げている。

 その背を優しく抱いてくれるベッドはない。

 あるのは硬い地面の感触。

 起き上がる気力すら湧いてこない。渇いた喉がヒューヒューと、かろうじて呼吸をくり返すばかり。大人しく目を閉じていることさえできない。


「あ、ぁ……」


 なけなしの力で、ラーナは空に手を伸ばす。

 雲は地上から立ちのぼる煙を吸ったように黒い。なのに雨の一滴も降らしてはくれない。顔面の燃えるような痛みにも、悲しみに張り裂けた虚しさにも、寄り添ってくれない。時折、雷弧に青く煌めいて、ゴロゴロとわらうばかり。


 泣きたかった。

 でも、泣けなかった。

 涙が出なかったから。

 顔の傷から流れる血がその代わりだった。すべてを失った証だった。


『ラーナちゃん』


 ほんの少し前まで、男の人と話していたはずだった。

 普段どおり果実を売って。

 穏やかな微笑みを浴びて。

 街の中で誰より美しく、誰より愛されていることを、幸福に感じていたはずだった。

 ――それなのに。


「父さま……母さま……ぁ」


 もう誰も微笑みかけてくれる者はいない。

 返ってくるのは、焦げた木材やえた肉の臭いだ。

 ここには、もう命がない。

 狩り尽くされたから。

 魔獣に。

 ただ独りラーナだけが、突如、降りかかった災厄の中で生き残ってしまった。


「イヤ、イヤだよ……」


 立ちのぼる煙の中、赤いものがぜては消える。ラーナにはそれが、自分を置いて旅立っていく人々の魂のように思えた。


「独りに、しないで……ッ!」


 魂は、瞬いては消えてゆく。

 震えるラーナの手を顧みもしないで。



――



「……待って!」


 ラーナが手を伸ばすと、パチパチと炎が爆ぜた。

 しかし薄赤い景色の中に煙はない。空さえない。

 四方は壁に囲まれ、空は天井に隔てられていた。

 室内だ。

 燃えているのは暖炉。

 薪が乾いた音とともに割れる。


「うぁ……」


 そこに小さな呻き声が続いた。

 焦点を結びはじめた視界に、清潔な敷物と、そこに寝かされた髭面の男が見えてくる。


「……そうか」


 ラーナは額に滲んだ脂汗を拭った。

 ようやく夢を見ていたのに気付いた。


 ――あの後、救援がやって来て、怪我人を村へ運んだのだった。


 そしてラーナは、いまも男に付き添っている。彼の運命を、見届けなければいけないような気がして。

 ラーナは下がったブランケットを肩にまで引き上げた。

 するとドアが開いた。

 現れたのは禿頭の男だった。医者だった。


「おや、起きてらしたんですか」

「ちょうど目が覚めた。関係ないのに泊めてもらって、その、ごめんなさい」


 医者は包帯、軟膏、葉をすり潰した鉢、白湯のような液体が載った盆を置くと、ラーナの傍らに腰を下ろした。


「いいえ、お気になさらず。こちらとしても、いざという時には助けが要りますから」


 医者はそう言ったものの、怪我人の傷を縫うときでさえ、ラーナに助けを求めなかった。


「じゃあ、なにか手伝うことは?」

「今はありません。もう夜も晩いですから、ゆっくりお休みになるといい」

「仮眠ならとった。本当に何も手伝うことない?」


 ラーナは食い下がったが、やはり医者はかぶりを振った。


「包帯をかえて薬を塗るだけですから。それより、あなたも怪我を?」


 医者は怪我人に液体を飲ませながら、こちらを一瞥した。

 ラーナは顔に手をあてた。


「これは……前に野盗にやられて。でも古い傷。もう塞がってる」

「そうでしたか。余計なことをお訊ねしましたね」

「いや。ほら、傷ついた顔見られるのは、ちょっと。それで、うん、今も隠してる」


 ついつい余計なことを口走ってしまう自分に腹が立つ。このやり取り一つひとつが、命の綱渡りだというのに。

 幸い、医者がラーナを疑う様子はなかった。


「女性、ですよね……? なら尚更、顔に傷を負ったのは、お辛かったでしょう。医者は傷を塞げても、傷を失くすことはできない。お力になれず申し訳ない」

「そんな! 謝らないで。優しく接してくれる。それだけで、その、ボク嬉しいから」


 本当に。

〈呪痕〉もちにとって、人の優しさほど貴重なものはない。


「そう言って頂けると、ありがたいです。でもそれは、きっとあなたが招いた喜びですよ」


 医者の言葉に、ラーナは首を傾げた。

 怪我人の包帯を換えてから医者は続けた。


「傷を負っていても、あなたの心は美しい。人は目に映る物事に囚われてしまいがちですがね。傷を負っていようがいまいが、醜い者は醜く、美しい者は美しいのだと思います。あなたはこの方を救った。そのために尽力した。今もこうして傍にいる。わたしは、そんな真心に、きっと感化されたのです」

「……」


 思いもよらぬ言葉をかけられ、ラーナは返答に窮した。


 醜い、怖い、不気味と石を投げられたことならある。

 憎悪の眼差しに晒された恐怖は拭えない。


 だから――と自分を否定するほど卑屈ではない。

 けれど、美しいなんて言葉は、やはり相応しくないと思うのだ。


 だって、ボクが旅を始めたのは……。


「ご自身では、そう思われませんか」


 治療を終え、医者がまっすぐにこちらを見た。

 ラーナにはその視線が耐え難く、暖炉の炎へ目をやった。


「……思わない」

「そうですか。自分に秘密は作れませんものね」

「秘密、か……。そうだね。その人助けたのは、きっと気まぐれみたいなもの。ボクの本性が、させたんじゃない」

「それでも、わたしはあなたの正しさを信じますよ」


 ラーナは恐るおそる医者を見た。視線を交わす勇気まではなかったから、手許を見つめた。指先がかすかに血に濡れていた。それがひどく恐ろしく感じられた。血なんて見慣れているはずなのに。


「わたしは、あなたの過去も未来も知りませんから。ここにあるものがすべてなんです。もし、お気を害してしまったのなら、申し訳ありません」

「いや、全然。大丈夫」


 その言葉とは裏腹に、ラーナの心境は重かった。

 畢竟ひっきょう、人とは、そのようなものだと思い知らされた気がしたからだ。

 医者に絶望したわけではなかった。

 むしろ、真摯しんしに向き合ってくれて感謝している。

 けれど、彼の言った通り。


 人とは「ここにあるものがすべて」なのだ。


 これまで何を為してきたか。

 これから何を為すのか。

 そんな事に係わりなく、人はに囚われる。

 善良であろうと、慈悲深かろうと、〈呪痕カルマ〉もちというだけで惨たらしく殺される命があるように。

 本当に心を視ている人間など、きっとどこにもいないのだ。


「……でも、やっぱり今日は疲れた。厚意に甘えて、少し休ませてもらう」

「ええ、ゆっくりなさってください。それでは、おやすみなさい」

「ありがとう。おやすみなさい」


 医者が部屋をでていく。

 その背中を見送り、ラーナは目を閉じられずにいた。

 人の優しさに触れると、思い出さずにはいられなかった。

〈呪痕〉を負う以前の生活と、〈呪痕〉もちになった自分を受け入れてくれた師匠を。


 ……なのに、ボクは裏切った。


 かつての生活に焦がれたから。

 幸せだった頃の自分をとり戻したかったから。

 そして、それを成し得る力があると知ったから、ラーナは山を下りてきた。


 この顔いまを変える力。

〉を手にするために。

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