一章 傷痕

 ドアがコンコンと音をたてた。

 ラーナ・ヴァンは、それを一瞥したが、すぐに机上の短剣に向き直った。

 なんと言っても、黴でも生えたように白く色褪せたドアだ。古く軋みがひどいのである。昨夜は小人の口笛のような風にすら随分軋んで、ろくに眠ることもできなかった。


「……あれ、いないの?」


 とはいえ、声まで聞こえてくれば、さすがにノック音だったのだと気付く。

 まさか本当に小人の悪戯ではあるまい。


「いる」

「なんだ、いるならすぐ返事してよ」


 果たして、抗議の声とともに現れたのは小人だった。


「逃げられたのかと思っちゃった。まあ、宿代なら先に貰ってるけどさ」

 

 否、愛らしい顔を憮然としかめたそれは、ただの子どもだ。


「これ、朝食を持ってきたよ」


 少年は重そうにプレートを抱えながら、ラーナの許へ歩み寄った。


「えっと、ここ置いてもいい?」

「うん」


 短剣、砥石、小瓶、羊毛などの置かれたテーブルの隙間に、朝食のプレートが置かれた。


「ありがとう。助かる」

「べつに礼なんかいいよ。これが仕事だもん」


 少年は照れたように頬を掻き殊勝なことを言った。


「そう」


 ラーナの反応は淡白だった。

 食事にもすぐ取りかからず、短剣の手入れを続けた。眼前にかざし微妙な光沢の歪みを見ながら、木像を彫るナイフの要領で研磨していく。


「冒険者なんだね」


 少年は何故か部屋を出て行かなかった。

 ラーナはぎこちない頷きを返した。


「やっぱり〈ガラスの靴〉の欠片を探してるの?」

「うん」

「女王様に献上すれば、お金持ちになれるんだよね?」

「……」


 ラーナは答える代わりに、小瓶の油で布の切れ端を湿らせた。誤って血まで吸わせぬよう、慎重に剣身へ塗布してゆく。


「……ご飯食べないの?」


 少年は質問を変え、なお部屋に居座った。

 冒険者は目も上げず、羊毛で余分な油を処理し始めた。


「君、いるから」

「気にしないで食べていいよ」

「気にする」

「食べてるとこ見られたくないの?」

「うん。だから、こんな恰好」


 室内で被ったままのフードを後ろへはね上げると、少年の面持ちが驚愕のそれへと変わった。

 ラーナは短剣を革帯におさめて息を吐き、自らの頬に手を当てた。乾いた感触をなぞった。目許と鼻以外、唇までをも覆った包帯のそれを。


「えっと、ごめんなさい……」

「べつに謝らなくていい。これがボクだ」

「赦してくれるの?」

「赦すとか赦さないじゃない。べつに恨んじゃいない。でも、ボクが食べてるところ、こっそり覗いたりしないほうがいい」

「どうして……?」


 少年が怯えたように身をすくませると、ふいに包帯の下の傷が疼いた。


「とても醜いから」


 ラーナはそう答えると、持ち物を検めはじめた。

 確認作業はこれで五度目。もう充分。むしろ過分だ。

 けれど、この顔のことを想ったら、じっとしていられなかった。


「……そうなんだ」


 ぽつりとこぼれた少年の声は、何故か少し残念そうだった。

 それから暫し沈黙があった。

 荷物をまさぐる音だけが、ガサガサと静寂を埋めていた。

 やがて荷物確認も終わり、傍らの少年を見やると、彼もまたこちらを見ていた。

 少年は決然と喉を鳴らし、胸の前で握り拳を作った。


「ぼ、ぼくは、お兄さんカッコイイと思う! 醜くも怖くもないよ!」

「……」


 上気した少年の顔を、ラーナはじっと見つめた。

 錆びた鋼のような脆く頑なな眼差しで。


「……ありがとう。でもボクよ」


 何か言いかけた少年の頭に、ラーナは先んじて手をのせた。温かい感触をわしゃわしゃと撫で、包帯の下で微笑んだ。

 きっと卑屈な表情に違いない。

 そう自分自身を嫌忌しながら。



――



 宿をでた旅人に待つのは、乾いた風の冷たさだ。それが包帯の下の傷を疼かせ、なんとも惨めな気持ちにさせる。


 こんなものがなければ、あんな目にさえ遭わなければ――。


 もう何度思ったか知れない事柄が、またぞろ頭を過ぎる。

 果実売りの娘として、客に笑いかけていたあの頃がひどく懐かしく思えた。


「……」


 今は笑顔のひとつも晒せはしない。

 素顔を隠す包帯すら人目から遠ざけるべきだ。

 フードを目深に、襟をかき合わせ、ラーナは歩きだした。フードからはみ出た黒くながい髪が風を受けてなびいた。


「リンゴ美味しいよぉ」

「今日みたいな寒い日にゃ、うちのケープを買ってきな!」

「ロープ足りてるかね? 砥石は? 桐油もあるぜ」


 商店の立ち並ぶ喧騒の中を、ラーナは黙々と進む。


 ……五年前とは大違いだ。


 かつては辺境の集落など静かなものだった。農村がほとんどで、領主もいないのが普通だったのだ。ところが近頃は、貴族が村を買い管理するようになって、どこも少々騒がしくなってきた。


「……〈ガラスの靴〉」


 柵のような外壁しかない小さな村だというのに、幾人もの旅装束と肩をぶつけた。鼻をつくのは、血や汗や油のにおいだ。


 世は冒険者時代。


 かつては、主要都市に害をなす獣や盗賊を討伐するばかりだった冒険者が方々に闊歩する時代だ。


「さぁさ、寄っといで!〈ジュリエットの手記〉の新しい翻訳文が来たよぉ!」


 俯きながら歩いていたラーナの耳に、威勢のいい声が飛び込んできた。

 顔をあげると、水路にぐるりと囲まれた広場で、小太りの男が体格に似合わずぴょんぴょん跳ねているのを見つけた。

 その懐にたんまり抱えられているのは、中ほどを紐で縛られた羊皮紙だ。

 そこへ波の如く、冒険者が寄せては返っていく。

 ラーナもおずおずと男の許へ歩み寄った。


「これ、地図だよね?」

「地図? まあ、地図みたいなものだけど……。あっ、もしかして旅人さん、旅は初めてかな?」


 男は人の好さそうな笑みを浮かべた。


「うん、山育ちで。下りてきたばかり」

「そうかそうか。これは正確に言うと地図じゃないんだ。地形は描かれてなくてね。暗号文によって、〈ガラスの靴〉の欠片の在り処が示されてるんだ」

「暗号文……」

「ああ。普通の人じゃ読めない。世の言語学者たちが、必死で解読してる。これはその最新版ってわけだ」


 男はぐっと顔を寄せてくる。その目が商売人特有のギラついた輝きを放った。


「最新ってことはね、これを持ってる人はまだ少ないってことだよ。今すぐ買って示されたところへ急げば、旅人さん、あなたが〈ガラスの靴〉を手にできるかもしれない」


 男は囁くように言う。そして今が買い時だと付け足した。

 がめつい気迫に、ラーナは気圧けおされる。


「えっと……じゃあ、いくら?」

「五〇ペニーいただくよ」

「五〇か……。少し高いな」


 客が渋った様子を見せると、男はなぜか得意げに頷いた。


「まあまあ、安心おしよ。三〇ペニーにしてあげよう」

「え、二〇もまけてくれるの?」

「新米さんには特別価格さ」

「……」


 怪しい。

 ラーナは目を眇める。

 が、どのみち他に頼れるものもなかった。


「買うよ」

「毎度あり!」


 ラーナは金銭と引き換えに、羊皮紙を受けとった。


「気をつけてね、旅人さん。ターパス神の加護があらんことを」

「ありがとう。ミフェスト神の加護があらんことを」


 それぞれ旅の神、商いの神の加護を願うと二人は別れた。

 ラーナは近くの木立を風除けに腰を下ろした。

 早速、羊皮紙を拡げてみる。

 男の言ったとおり、地図ではなかった。

 記されていたのは、こうだ。


『悪魔の手は右。甲は東。平は西。無名指の先。鱗片の怪。胎の中』


 意味不明である。

 最初の『悪魔の手』からして何を示しているのか解らない。『右』が、なおさら謎だ。東やら西やらと見ると、比較的大きな規模を示唆しているようにも思われるが――。


「あ、そうだ」


 ラーナは持ち物の中に地図があったのを思い出す。そこに手がかりがあるかもしれない。


「……げっ」


 ところが、いざ地図を拡げてみても、そこには手がかりの手の字もなかった。

 ここベルターナ州を記したらしいそれは、粗放で稚拙極まりないものだったからだ。

 まるで子どもの落書き、あるいはミミズの這った痕。ゴミと相違ない代物である。


「はあ……」


 ラーナは、ふと西の小山に住む男の顔を思い浮かべた。

 身寄りのなくなったラーナを拾ってくれた恩人だった。自然で生き抜く術を教えてくれた師でもあった。

 しかし何かと大雑把な人で――つまり、このふざけた地図を描いた張本人だった。

 文句のひとつも言ってやりたい。言ってやりたいが、そのために山へ引き返すわけにはいかない。言えたとして、まともな答えが返ってくるとも思えなかった。どうせ「地図くらい買え」と一蹴されるのがオチだ。


「いや、そんなことより猟師だ」


 幻影の言葉になど従ってやるものか。

 地図を買ったところで訳文の手がかりを得られる保証もない。


 役立ちそうなのは猟師だ。

 方々を渡り歩きながら、狩りで生計を立てる者たち。もっぱら地理に詳しい。近頃は冒険者やキャラバン隊からのお雇いを待つ連中も多い。


 たしか村の中央に酒場があったはず。


 ラーナは訳文と紙屑を肩さげ袋の口に挿して立ちあがった。木立の風除けがなくなると、思いの外寒く肌が粟立った。荷物は少ないほうが好ましいが、あとで下着を一着買い足すべきか……。


 あれやこれやと考えながら歩いていると、辺りが俄かに騒がしくなってきた。見れば、小屋や民家が立ち並ぶ狭隘きょうあいな路地に、なにやら人だかりができている。


「早くしろ!」

「何されるか分からんぞ!」

「誰かいないのか!」


 怒号が飛び交っていた。見るからに穏やかではない。

 皆、逸っている様子だ。中には「殺せ!」、「首を斬れ!」といった物騒な言葉まで聞かれた。

 ラーナは嫌な予感を覚えながらも、人だかりへ近づいていった。

 すると、人の輪からやや離れた場所で、難しい顔つきをした男と目が合った。


「なんの騒ぎ?」

「処刑だよ」

「処刑? この村、公開処刑するの?」


 男は緩やかにかぶりを振って、忌々しげに顔をしかめた。


「いや、普段はそんな事ないがね。〈呪痕カルマ〉もちだよ」

「〈呪痕〉もち……」


 途端に包帯の下が疼いた。


「魔獣に襲われた人だよね?」

「ああ。〈トロイの悲劇〉知ってるか? 結構大きくて兵士も大勢いた、トロイって街があった。今はもうない。魔獣に襲われて、残ってるのは瓦礫だけだそうだ」

「怖いね……」


 その言葉は上辺だけのものではなかった。ラーナには、その恐怖が容易に想像できた。


「ああ、魔獣は災厄だ。地震や山火事みたいな。そんなものに襲われて生き残るなんて普通じゃないだろ? きっと魂を捧げて、眷属になったんだろうさ。だから異能なんて使えるんだ。ああっ、悍ましい……!」


 男は早口にまくし立てると、二の腕をさすり震えた。


「……」


 ラーナもまた震えた。

 拳を固く握りながら。

 腹の底から沸々と湧きあがる怒りを、必死に鎮めようとした。


「やめてェ! 助けてください! 悪さするつもりなんて、これっぽっちもないんです! 本当ですッ!」


 しかし心の抑えを、悲鳴が破った。

 頭の中で制止の方便を並べるより先に、人垣へ飛びこんでいた。

 肩と肩を押し分け、悪罵の的となったその人を見た。


「信じて、信じてください……!」


 そう、人だった。

〈呪痕〉もちと蔑まれた者には、鋭い爪牙も禍々しい毛皮もなかった。滂沱のごとく涙を流して慈悲を乞い、恐怖に震える、ただの女がいるだけだった。


 どこが魔獣の眷属だ。バカバカしいにもほどがある……!


 女性が異能を用いて人を傷つけた様子もない。傷ついているのは、あの女性だけだ。肘から先がなく、その断面に〈呪痕〉――毒々しい紫紺の傷が刻まれていた。


「うるせぇな、あんたら。仕方ねぇから、俺がやってやるよ」


 そこへ偉丈夫が進み出た。腰に剣をいた冒険者風の男だった。


「やめて、死にたくない! 誰か、誰か助けてェ!」


 涙にひび割れた眼で、隻腕の女はあたりを見回した。

 そこに返るのは「黙れ!」、「殺せ!」、「早く死ね!」の不快極まりない大合唱だ。

 

 お前らこそ……!


 ラーナは激情にわなわなと震えたが、踏みだすことはなかった。

 慙愧ざんきの念に胸を焼かれながら留まっていることしかできなかった。


「おい、お前ら、こいつを押さえろ!」


 偉丈夫が言うと、手下風の若者二人が女を押さえつけた。


「放せ、放して! 放してくださいィ!」


 懇願は、ラーナ以外の誰の心にも届かなかった。

 偉丈夫が剣を抜いた。それが陽光に照って白く煌めいた。

 乾いた風が吹いた。

 ラーナには、それがひどく熱いもののように感じられた。包帯の下が烈しく疼いた。


「消えろ、バケモノめ!」


 誰かの叫んだその声が、ラーナの胸をいっそう深く抉った。

 それは、かつてラーナ自身に向けられたものと同じ言葉だった。

 深い悲しみと怒りが、胸の中に渦巻いた。


「ハハハ! 俺がやってやるって言ってるだろ!」


 偉丈夫が剣を大上段に振り上げた。かんと笑いながら。

 ラーナは目を見開いた。湧きたつ激情に眼差しを燃やしながら。

 そして今、


「おわっ、目が!」


 剣は振り下ろされた。


「ぎゃあああああぁあああぁあああぁああぁッ!」


 けたたましい悲鳴が風を割り、血が高く噴きあがった。

 隻腕の女の首が転がった。

 そこに恐怖の絶叫がはり付いていた。

 しかしわらっているようにも見えた。

 一方の若者へ虚ろな目を向けながら。


「あ、がッ……」


 その若者の肩口は刃に深く抉られていた。

 自らの血溜まりに膝をつき、倒れることもできぬまま、ぴくぴくと痙攣していた。

 偉丈夫は、有象無象は、その様を茫然と見下ろした。


「何やってんだ、あいつ」

「仲間まで斬りやがったぞ……!」

「アニキ、嘘でしょ……?」


 群衆が怯懦きょうだに震えあがった。

 ただ一人、ラーナだけが憐憫とともに屍を見下ろしていた。


「違う! 急に目が見えなくなって……」

「そんな言い訳通用するかい! この狂人め!」


 それでも隻腕の女が、人として認められることはなく。

 偉丈夫への糾弾きゅうだんだけが、たちまちにして膨れあがった。

 ラーナは踵を返し、それを背後に捨ておいた。


 ……様を見ろ。


 人だかりの中を出るとき、目が合った。


「あ」


〈トロイの悲劇〉について話した、あの男だった。

 男は、やはり人垣からやや離れた場所で、事の成り行きを傍観しているようだった。群衆に融けこんでさえいなければ当事者ではない、とでも言いたげな態度で。

 ラーナは目を細め、男を睨みつけた。


「うわ……ッ!」


 すると男は、目許を押さえ短い悲鳴を上げた。

 ラーナはその傍らを通り過ぎていった。

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