欲貌のシンデレラ

笹野にゃん吉

プロローグ

 ブナ林に屋根はない。雨粒は密に茂った葉の隙間から滴り落ち、キャラバン隊を濡らしていく。雨除けケープなど気休めにもならない。滴はブーツの中へ迷いこみ、火照った足を不快に冷やす。


「ウマを連れて来なかったのは正解だったな」


 ギース商隊長の言葉で、一行は愛馬の背中を懐かしんだ。ブナ林に踏み入ってから、かれこれ五日になるだろうか。皆、疲れていたし、この閉塞的な空間から解放されたがっている。


「ですね。遠路はるばるやって来て、立ち往生は御免だ」


 無論、クレバンもその一人だったが、彼の足取りは軽かった。

 否、誰一人として暗鬱とうつむく者はいない。

 むしろ、彼らは皆一様に、静かな快哉をあげ続けている。

 それもそのはずだ。


「目当てのブツも手に入ったことですしね」


 此度の遠征は成功を収めたのだから。

 王都へ戻り、ブツを納品したあとには、金銀財宝に囲まれた華やかな未来が待っている。


「うむ。早く女王陛下からたんまり褒美を頂きたいものだ」

「まったくですな。此度の報酬があれば、我々猟師もしばらく楽ができますよ」


 クレバンが同伴した猟師たちを見やると、彼らはニンマリと笑った。


「狩猟の勘が鈍りそうだな」


 とギースが言えば、小柄な猟師がクレバンを一瞥して答えた。


「用心しますとも。しかしクレバンが獣に喰われたと小耳に挟んだときは、どうぞ笑ってやってくだせぇ」

「おいおい、お前のほうが喰いやすそうなサイズだろうが」


 軽佻けいちょうな罵り合いが始まった。二人は大仰な身振り手振りを交え、互いを罵倒し合った。外野の猟師たちは、それを荒っぽく煽り立てた。

 旅の楽しみはそう多くない。くだらない小競り合いも大した娯楽だ。

 堅物のギースがクックと喉を鳴らし、仏頂面の護衛隊らも表情を綻ばせた。


「おい! 天の神はお前らのじゃれ合いに飽いたらしいぜ。が黒ずんできやがった」


 それも雨の勢いが穏やかなうちに限られた。


「ハッ! 神様のクソは烈しいな!」


 延ばした鉛のような雲の底から、大粒の雨が降り始めた。雨粒は旅人たちのケープ上でバタバタと踊った。不快な踊りは、遠雷を呼び寄せた。

 旅人たちの胸中が本能的な恐怖で満たされる。

 俄然、歩調を速めるも、雷鳴は猛烈な勢いで迫り来る。空は逃げ惑う人間どもを捕らえんとする神の手のように、間断なく雷光を閃かせた。

 いつしか旅人たちの目には木々の陰影がくっきりと焼きついていた。


「高木の近くは避けろ!」


 大音声が雨音を破った。

 ギースが巨大な二股のブナを指差していた。

 その時、一際烈しく空が瞬いた。

 暗い林の中、大木のシルエットがモノクロームに切り抜かれた。


「……!」


 クレバンの目には、それが一匹の怪物のように見えた。

 怪物は何かを放って寄越した。己を指差した男に、指を突き返したように見えた。


 パアアアアアアアアアアアアアアン!


 次の瞬間、けたたましい雷鳴が音という音を引き裂いた。

 一行は、たまらず耳を押さえたが、ただ一人凝然と立ち尽くす者がいた。

 ギースだった。

 その爪先がふいにびくんと跳ねあがった。そして、ゆっくりと後ろに倒れた。


「……あ」


 クレバンは足許に転がったギースを見下ろした。

 土に血が滲みるように、足先から頭頂まで恐怖が浸潤していった。


「お、おい……」


 先の光景が錯覚でなかった事に気付かされたからだ。

 ギースの額に、怪物の指が埋まっていた。

 血と雨に濡れた短剣だった。


「敵だッ!」


 誰かが警告の声を発した。

 たちまち猟師たちが絶叫し、土を撥ねながら逃げ出した。

 護衛隊は一斉にショートソードを抜き放った。雨にさらされた剣身が複雑に煌めいた。


「あそこだ、かかれェ!」


 護衛隊長の号令一下、麾下きか吶喊とっかんが雨音を破った。二股のブナ目がけ、偉丈夫たちが突進した。


「……ダメだ」


 クレバンだけが動けなかった。

 突き進むことも、逃げることもできずにいた。


 足掻いても無駄だと悟ってしまったからだ。

 見てしまったからだ。

 二股の分かれ目に悠然と立つ、その人影を。

 相貌そうぼうを。

 稲光が景色を明暗に分かつ刹那、浮かび上がった赤色を。


「おい、なに突っ立ってんだ!」

「……!」


 クレバンはその声で我に返った。

 小柄な猟師に腕を引かれ、踏みだした。

 その時、足許の短剣が跳ねた。ビョウと風を切る音とともに血の華が咲いた。


「う」


 断末魔というには、あまりに呆気ない声とともに仲間のむくろが転がった。

 足音が次々と途絶え、そこここで紅い霧が噴きあがった。


「ぐあああぁあああぁあああぁあぁっ!」


 護衛隊の猪首いくびからも血と絶叫がまき散らされた。

 空を翔ける短剣の軌道は、予測不能だった。まるで猛禽のようだった。縦横無尽に飛び回り、剣戟をかいくぐり、一瞬の交錯の後に命を絶った。いつしか雨は血の色に染まっていた。


 クレバンは首を押さえた。肉はまだ繋がっていた。

 死にたくない、と強く思った。

 オレには、まだがあるから。


 パアアアァアアァアアアァアアアァン!


 雷鳴が胸を叩いた。

 クレバンは、ギースの傍らに転がったものを見下ろした。


 箱だった。ブツの入った箱だった。


 クレバンは盗人じみた手つきで、それを懐へおさめ踵を返した。


「うあッ!」


 そこへ血塗られた短剣が襲いかかった。刃は足をかすめ、地面に突き刺さった。クレバンはたまらず腰を抜かした。


 そして、見た。


 短剣の柄に結び付いた真っ赤なロープを。

 それはひとりでに、にゅるにゅると蠢いていた。ミミズの化け物のように。


「ひいっ……!」


 クレバンは腰を抜かしたまま後退った。

 またぞろ雷鳴が響きわたった。

 悲鳴はもう聞こえなかった。


 クレバンは観念して、見た。


 二股のブナの大木。表面を地衣類が抱擁し、元の灰白色と混じりながら斑を描いた、その中ほど。

 大木の分かれ目に、依然として佇み続ける人影を。


「……〈ウズマキ〉」


 一見すれば、それは普通の旅人のようだった。身にまとう装束は、クレバンのものとさして変わりない。

 しかし明らかに違うのだ。


 頭部が。


 毛羽だった刷毛で血を塗りたくったような、かすれた赤をしている。

 仮面だ。

 目許に、それぞれ渦を巻いた不気味な仮面だ。渦の中心は、どこまでも暗く底が知れない。


「……」


 今、〈ウズマキ〉がブナの木から降りたつ。ぬかるんだ地面がくちゃと音をたてた。

 その音はいやに明瞭に聞こえた。

 雨音も雷鳴も束の間、静観を決めこんだように鎮まっていた。


「たす、けてくれ……」


 クレバンは懇願した。喘鳴のような声音で。

〈ウズマキ〉は雑音に構わない。

 悠然と歩み寄れば、否と唱えるように片腕を真横へふり抜いた。


「ッ」


 クレバンの頬に痛みがはしった。

 短剣が宙に弧をえがき〈ウズマキ〉の手へ吸いこまれるように握られた。腕に巻きついたミミズじみたロープは、絶えず蠕動ぜんどうを繰り返していた。


「……お前、持ってるな?」


 くぐもった声が言った。

 クレバンには、一瞬、それが誰の声なのか分からなかった。

 拍動の訴える、逃げろの命令だけが確かだった。

 震える足で土を蹴った。

〈ウズマキ〉が、手の中の短剣をくるりと回し、逆手に構えた。


「答えろ。〈ガラスの靴〉を持ってるだろ?」

「ガ、〈ガラスの靴〉……」


 今度こそ、クレバンは声の主を理解した。反射的に懐を掴んでいた。二つの渦巻きが、それを見た。


「やはりな」


 クレバンはなおも土を蹴った。

 その時、ギースの頭が手に触れた。ちくりと肌が痛んだ。


「……なんだよ、持ってちゃいけねぇのか?」


 たちまち手のひらが燃えるような熱を帯びた。熱は心臓に伝播でんぱした。突如、腹の底から苛立ちが噴きだし、恐怖を塗りつぶした。


 渡さねぇ、これはオレのものだ……。


 視界が縁から赤く染まりだした。唇がめくれあがり、犬歯が覗いた。凍えた血液が沸騰し、足の震えが消えた。

 土を掴んだ、次の瞬間だった。


「いがっ、ぎゃあああああッ!」


 その手に痛みがぜたのは。

 見れば、短剣が埋まっていた。手のひらを貫通し、地面にまで達していた。

 クレバンの胸は、ふたたび恐怖で満たされた。


「大人しくしろ。お前は質問に答えるだけでいい」


〈ウズマキ〉の手が霞み、手中に新たな短剣が握られた。翳った林の中で一瞬、それが白く冷たく煌めいた。


「〈闇貌あんぼうの魔女〉を知っているか?」

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