第4話 REAL 04
それからしばらく経ったある日、少女は現れた。
視界の隅にログアウト十分前の表示がちらつき始めた時、セーラー服の少女が通りの向こうを歩いているのに気がついた。
望遠ツールで目元を拡大すると、あの泣きぼくろがあった。ビジターのちゃちな姿ではなく、ちゃんとしたレジデントのデータだ。
ログアウトまであと八分。
メインストリートを東に向かう彼女から目を離さず、佐山は追跡を始めた。
信号が変わり、横断歩道を渡ると、少女は三十メートルほど先を歩いていた。
ログアウトまであと五分。
もう時間は残り少ない。佐山は追いつこうと足を速めた。
少女がちらりとこちらを見て、素早く路地に入る。
続いて佐山も路地に飛び込むが、すでに少女の姿はない。遠ざかる足音だけがどこからか響いてくる。
「どこに行った?」
ログアウトまであと二分。
マップを確認しようとしたときに、目前に赤く大きなログアウトの文字が表示された。
「ちくしょう!」
椅子から起きあがった佐山はヘッドセットをむしり取ると、壁に投げつけた。ヘッドセットが壊れる音がしたが、現実のような気がしなかった。
それ以来、ログアウトの間近になると、少女は佐山の前に現れるようになった。
目の前を横切る。ふと見上げたビルの階上からこちらを眺めている。路地の奥の暗がりに消えていく。
追いかけ始めると、ログアウトのサインとともに現実に引き戻される。
何度も何度も何度も、追いかけっこは繰り返された。
そんな夢を見て、疲れ果てて目覚めると、これが現実なのか夢なのか〈リアルワールド〉なのかわからなくなる。
現れては消える少女を追いかけているうちに、佐山の現実はどんどん希薄になっていった。
そして、強制ログアウトさえなかったら、と思詰めるようになっていた。
何を使えばいいかはわかっている。
リミットブレーカー。
どうすれば手に入れられるかは知っていた。他のツールも。
捨てアカのダイレクトメッセージに、指定された金額のギフトカードの番号を知らせると、ダウンロードサイトのアドレスとパスワードを知らせる返信が届いた。
休みの前日を選んだのは、仕事だけが今の佐山を現実と繋いでいることをわかっているからだった。
ログアウト間際までは接触してこないとわかっていても、いつもなら、それでも少女を探して疲れはてていた。
佐山は今日初めて、普通のユーザーのように暇つぶしのために街をそぞろ歩いた。
ログアウト十分前、見覚えのあるシルエットが視界の端をかすめた。
彼女の行動パターンなら知りつくしている。佐山に必要なのは追跡する時間だけだった。
恒例の追いかけっこのあと、今回も寸止めで彼女に逃げられたように見せかける予定だった。
もし彼女がこちらのログイン状態を監視していても、仕込んだツールでタイムアウトを擬装すはる。事前に記録しておいた、ログアウト時のデータを再現し、おとりに利用するのだ。同時に、規約では禁止されているツールで自身を透明化する。
ログアウト時刻を経過し、佐山の姿が見えなくなったことを確認した少女は、一瞬バカにするような表情を浮かべ、セーラー服のスカートを翻す。
油断している彼女を追うのは、たやすいことだった。
〈リアルワールド〉では、ドアの向こうが座標としてどこかに連続しているとは限らないし、ドアの内部がその外見に見合った大きさをしているとは限らない。
少女が入っていったビルも、普通の建物に見えた。だが、踏み込んでみるとそこは見た目よりもずいぶん広かった。窓はなく、うす暗い。燐火のような青白い光がそこにある物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
佐山の眼前には、マネキンの群があった。いや、
目を開き、あるいは目を閉じ、佇む沢山の人影。
「し、死体?」
反射的に後ずさった。背中が壁に触れ、佐山は我に返る。
そんなはずはない。
ログインと同時に形成され、ログアウトと同時にこの世界から消えてしまう、〈リアルワールド〉に現在ログイン中のユーザーたちのはずだ。
直感を否定しようと、近くに立つ男性のデータに触れてみる。
ストリート系のファッションの若い男性で、耳たぶに大きなピアスをいくつもあけている。
手首まで覆うトライバルタトゥーの腕に触れると、指先は肌の温かさや柔らかさを知覚したが、データから感じられる以外の何かが背筋を凍らせ、佐山は慌てて手を離した。
見まわすと静かに佇む人々は皆、輪郭を闇ににじませていて、生きている人間に特有の生気は感じられない。
顔色は生きている人間のそれだが、魂の抜けてしまったものに特有の弛緩した表情だった。
もし睡眠時の脳波が検出されれば、自動的にログアウト処理されてしまう。ということは、これらの人々は眠っていないはずだった。
しかし見ればみるほど、「死んでいる」という印象が強くなり、佐山は軽く吐き気をおぼえた。
「死者の家にようこそ」
背後から初めて聞く少女の声がする。
「なんなんだ、これは? 死者の家って?」
「こいつらみんな、現実ではもう死んでる。でもこうやってデータが残ってれば、こっちでは永遠に生きていられると思ってた。バカだよねえ」
くすくすと笑いながら、死者たちの陰から少女が顔を出した。
肩までのまっすぐな髪に泣きぼくろ、制服のスカートからのぞくかわいらしいひざ小僧。
しかし、目の前の少女の、その身にまとう刃物のようなぎらりとした空気を佐山は知っていた。そのときは、今のようにあからさまに剣呑ではなかったが。
「そういうあんたの
言い放つ佐山を一瞥して、秋山ミホの姿をした何かは隣のデータに寄り添った。ブレザーの制服を着た女の子で、並んでいると、仲の良い女子高生同士のようだ。
「死にたいやつは死ねばいいんだ。無理して生きている必要はない。そうだろう?」
目を開いて直立したままの女の子の肩口に顔を載せ、何も聞こえるはずもない死者の耳元で囁く。
「バカなやつはいくらでも死ねばいいのさ」
少女の姿に聞き慣れた男の声が重なり、佐山は頬が嫌悪感で歪むのを感じた。
「だから、あんな噂流してたんですか。そんなことして、何になるんですか」
ログイン記録自体の改ざんはできないだろうから、目の前の少女のデータを動かしているのが課長の秋山だという確証はとれるだろう。
ただ、証拠がなければ、本村を死に追いやった犯人として秋山を追い詰めることはできない。もっと決定的な証言を引き出さなければ。
ツールがやりとりを記録しているのを確認しながら、佐山は目の前の人物をにらみつける。
「人間は簡単に死ぬんだよ。こいつもそうだった」
親指でくいと自分を指す少女は、冷笑を浮かべている。
「二人きりのきょうだいで年も離れていたから、甘やかしすぎたんだろうな。親に怒られたとか彼氏とケンカしたとか、そんな理由でいつも『死にたい』って電話してきて、その日、俺はそれを無視した」
あまりにも、「いつものこと」だったから。
一度退社したものの、急なサーバダウンによるクレーム対応のために会社に呼び戻されたから。
死んだと知らされたのは翌朝。やっと帰れると残っていたスタッフで顔を見合わせたとき、沈痛な面持ちの上司に呼び出された。
「妹が死んで俺は思い知らされた。両親にとっては妹がすべてだった。俺が生きていることなんか、あいつらには何の意味もないことだったんだよ」
休みをやりくりして帰っても出迎えはない。暗い顔の両親が仏前にぼんやりと座っている。深夜になると、押し殺した泣き声が古い家に響いた。
それはまるで、妹からの最後の電話に出なかった兄の非情を責めているようだった。
お前が代わりに死ねばよかったのに――と。
「だから俺は、妹を憎むことにしたんだ。死にたがってるやつもね。現実を見据えて生きない人間は、既に死んでいるのと同じなんだよ」
死んだ妹の姿で兄が笑う。
細められた瞳の奥の狂った光を見て、佐山は反射的に目を逸らす。
「誰もがみんな死にたがってるわけじゃない。本村は死にたくなんかなかったはずだ」
「君の友だちは死にたかったんだよ。俺の妹が死んでから、ずっと死にたかった。だから死者に惹かれて、追いかけて、死んだ。俺が手を下したわけじゃない。勝手に死ぬんだよ、みんな、死にたいから」
深呼吸をして、佐山は少女の目を見返した。
「違う。本村に死ぬ気はなかった。その姿にだまされて、あんたに殺されたんだ。秋山課長、少なくともあなたには殺意があった。そうですよね?」
高笑いとともに、秋山が傍らの女の子を突き飛ばした。佐山は思わず後ずさる。ブレザー姿の少女は何の反応もなく足下に転がり、一層死体のように見えた。
「……殺意?」
佐山の言葉を反芻するようにつぶやいた少女は、いつの間にか日本刀を握っていた。
「死ねばいいと思っていたよ。だが、殺すというのは、こういうことだろう?」
そう言うと、刀をめちゃくちゃに振り回しはじめた。
そのたびに、周囲の
データの破損によってもともと死んでいたボディは闇に溶けて消えていく。
「もういいです。俺は戻ってこのことを会社に報告します」
出口へとじりじりと撤退しながら、佐山が叫んだ。
「リミットブレイカーで捨てた現実に戻れるつもりか。バカだなお前は。とっくにお前の現実なんてなくなってるっていうのに。見てみろ。もう戻る道なんかない」
知らぬ間にオブジェクトの改編が行われたのか、入ってきたはずのドアがない。
「命が尽きるまで、ここにいるがいい」
秋山の声が響く中、佐山のまわりの闇が濃くなっていく。
少女がまた、狂ったように笑う。今度は遠くで。
そんなはずはないのに、その顔が本物の赤黒い血にまみれていたようで、佐山は気を失った。
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