第46話心の影と回想 

目覚まし時計の短針は21時を指しており、長針は頂点を少し右に過ぎたところだった。

夕食を終え自室のベッドで天井を見るともなく見つめていた石田衛は、急き立てられうように寝間着である灰色のスウェットを脱ぎ、

白のTシャツに黒のチノパンの上からパーカーを着込むと階段を下りた。


「どこ行くのよ!?」


訝しむ母親に散歩と一言顔も見ずに言うと、靴を履くのも面倒そうに煩わしげに玄関を開け、夜道へと出ていく。


どうしたのかしら?いつもと様子の違う息子にそんな呟きが石田弓子の口から出た。


まだ梅雨に入りたての夜は少し肌寒い。

月は雲に隠れている。

体を丸め両手を組むようにして足早に衛は歩を進める。

行き先は決めていない。

ただ家でジッとしていることができなくなった。


考えがまとまらずに散歩をすることは昔からよくあった。

しかし衛の今の気持ちは少し違った。

まるで何かに追われるような、自分の命が脅かされるような恐怖が胸に込み上げてきて苦しい。

まだ歩き出して間もないのに呼吸がし難く、息があがる。


一体何をそんなに恐れているのか自分でも分からない。


石田家の周辺は住宅街となっている。

整然と区画整理された道は、土地勘のない者にとっては迷路のように同じような景色が続いて見える。

衛にとってはその見慣れた家々を関心なく突っ切って行く。


今の彼には既に通り過ぎた羽柴家も頭にはなかった。

羽柴結衣が今どこにいて、何をしているのかも頭には浮かんで来なかった。

ただ彼の靴の音だけが静かな闇夜の道にちっぽけな音を響かせていた。


いつもであれば等間隔にある街灯が、返って夜の風景を衛に不気味に感じさせた。

しかし今の彼はそれよりも、”この気持ちを抱えたままでいる”ことの方が余程怖いことであった。


散歩の醍醐味は日常の小さな変化を発見する喜びにあると思っている。

しかし今はそれよりも自分の影のように付きまとうモヤモヤから逃げたい一心だった。


流れていく風景を横目に感じながら、衛は今日一日のことが頭に次々と浮かんでは消えていく。



「あの…私、石田衛と言います。えっと…あの、若葉さんのお宅でしょうか?泉さんと同じ学校に通っている者です。……あの、泉さんはご在宅でしょうか?」


家に帰るなり衛がしたことは、若葉泉に謝罪の電話をすることだった。

あいにく泉のスマートフォンの番号を知らない衛は、母親同士で若葉家とは付き合いのあることを弓子から教えてもらい、自宅の電話番号を聞き出した。


興味津々の母親を無視し、2階の自室で勉強机に腰を落ち着ける。

5分ほど頭の中で言うセリフを反芻して電話をかける。


「あら、石田さん家の衛さんでしょ!?いつも泉がお世話になってます。泉なら丁度帰って来たところだから替わるわね。……それにしても随分しっかりしてるのね?私どこか営業の人から電話がきたかと思っちゃったわ」


泉の母親だから物静かな人を想像していた衛は、明るい調子で返ってきたことに驚いた。

そして衛のスマホからは”いずみ~石田くんから電話よ~”と泉の母親の声が僅かに聞こえてくる。



「もしもし……石田くん?」


暫くして少し控えめな声の泉が電話に出る。


「急に電話してごめんね……今日のことでどうしても謝りたくて!その…ごめんなさい……巻き込んじゃって」


電話越しに伝わらないが、自然と頭をペコペコと下げて話す。


「ううん、石田くんが謝ることじゃないよ。私まさか写真に撮られてたなんて思わなかったの。それに……泣くつもりなかったし……。私の方こそ大事にしてしまって申し訳なく思ってる」


「そんなことないよ!!あんな風に詰め寄られたら恐く感じるはずだよ!」


スマホを握る手に少し力が入る。

声のボリュームも大きくなり泉の言葉を否定する。


「……確かに圧迫感は感じた。でも…私本当に泣くつもりはなかったの。ただ……柳君の瞳を覗いたらいつの間にか涙が出てて……。自分が泣いたことに驚いてさらに泣く羽目になったの……。信じて……もらえる?」


「柳の目…?」


泉が言いたいのは、”決してあの場の雰囲気に流されて泣いた訳ではない”ということだろうか?


「うん、ただ…暗くて無機質で……墨で塗ったみたいな………。今思うと、その瞳が恐かったんだと思う」


「…そっか……俺は信じるよ。その話忘れないで覚えておくよ」


無意識に衛は唾を飲み込んでいた。

泉には最後にもう一度謝罪が遅れたことも含めて謝り、通話を切った。



息を弾ませながら信号のない十字路を右に曲がる。

足の回転を緩めることなく、まるで依然として影に脅かされているような気持ちで歩を進める。

通行人や車とすれ違うことなく付き進む。


衛の頭に下校の時の事が映像として蘇ってくる。


(くそ…くそ!…くそ!!)


何がそんなに悪態を付きたくなるのか衛にも分からない。

それでも頭を振り繰り返し思い出される今日の出来事を遠ざけたくなる衝動が湧いてくる。

心の中で叫ばなければ冷静でいられそうにもない。



帰りのホームルームが終わり、衛は席を離れ帰宅しようと教室後方の扉へと向かった。

そんな衛の後ろからは柳光流が席を立つのが気配で伝わってきた。

なんとも嫌な気持ちが胸の中心から広がるのが分かった。


B組以外の生徒たちは既に廊下に大勢いおり、それぞれが目的地を目指してごった返している。

今日は悟と帰る予定だった。

彼なりに気を遣ってくれてのことだろう。


その悟はまだ姿を見せていない。

トイレにでも行っているのだろうかと衛は思い廊下に出た。


「よぉ、光流帰ろうぜ!!」


廊下に出るなり声に襲われた。

まるで耳穴に管を通され直接送り込まれたかと錯覚するほどだった。

頭がぐらりと揺れるような感覚の後、ドンと衝撃が右肩に走る。

衛は思わずドサッと音を立てると、その場で尻もちを付いた。


「あれ、チキン君いたの?」


川越一哉の自然を装いつつも含みのある声が頭から降ってくる。


「おいおい、それはやり過ぎだろ~」


宮下俊文が笑いながらB組教室の中から声をかける。


地べたに突然座り込んだ衛の様子を見た周囲の生徒たちは、何事だとチラチラ様子をうかがいだす。

俊文の言葉はそんな周囲に対する”軽い冗談だよ”とフォローする役割をしていた。


「何いってんだよ。ぶつけられたのは俺の方だって!被害者は俺だぞ!!」


「そんな風には見えねぇよ。お前の方が柄悪いんだからさ」


「やっぱり?」


笑い声を上げしきりに明るい声で軽いノリだとアピールする。

非は認めつつも、決して”大袈裟なことじゃない”と周囲に知らせる。


そんな二人のやり取りの合間に、ふふふとドズ黒い笑い声が小さく聞こえた。

バックを肩に掛け直し立ち上がった衛は、その声を発した光流と目が合った。

その瞳には形容できない闇が広がっていた。


一体光流がどんな感情でいるのか衛には分からなかった。


その時、


「おい!!いい加減にしろって言っただろ~が!!!」


周囲を押しのけ佐藤悟が衛の隣に駆け寄ってきた。


「またお前かよ別に何もやってね~よ。言い掛かりつけてくんな!」


一哉が煩わしそうな表情で言う。

悟は小さな声で大丈夫か?と衛の身を案じると、


「俺もお前に言ってね―よ!親玉はお前なんだろ!!こいつらけしかけんのいい加減止めさせろよ!!」


光流に大声でそう言う悟の表情は懇願するような切実さが込められていた。


大事になってきたことで生徒たちが集まってくる。

その中には朝比奈椿や羽柴結衣の姿も遠巻きに見えた。

既に伊藤志信と出口俊介は部活に行ってしまっていてここいはいない。


「え、何の言い掛かり?俺は一哉たちの友人だけど、石田君にけしかけろとは言ってないよ。それに出会って間もない石田君とわだかまりもある訳ないし」


薄っすらと笑みを浮かべる光流の表情に焦りは一切ない。


「嘘つくなよ!!衛が絡まれてる時いつも川越たちと一緒にいるじゃねぇか!?」


顔をクシャクシャにし言い返す悟は必死な形相をしている。

両極端な両者を客観的に見るなら、悟が強引に言い掛かりをつけているように見える。


「まいったな……君はアニメ好きなようだけど……変な陰謀とか現実にはないから。俺を疑うのは勝手だけど傷つくな~。まぁ、川越君たちには俺も注意しとくから……今日のところはそれでいい?」


クレーマーの対応に苦慮している店員のように、眉を寄せ突き放した言葉を言う。

そしてその場から一哉と俊文を連れて行こうとする。

光流のどこか小馬鹿にした言い方に、それを聞いていた周囲は失笑を漏らす。


いつも大袈裟に話を盛り上げる悟の姿を知っているだけに、生徒たちも難癖をつけたのは悟の方だと決めつけたようだった。


ヒソヒソとささやき声の飛び交う周囲を他所に、悟は尚も話を続ける。


「…ああそうだよ。俺はアニメが好きだよ……」


3人の背に向けて俯き言う。

その悟の言葉に一瞬場が静かになる。

そしてタイミングを見計らったかのように、プッと一斉に吹き出す声が漏れると、ドッと笑い声が川越や周りの生徒たちから生じる。

悟は一人歯をギリギリと噛みしめ、目尻からは涙を浮かべはじめていた。


「何だよ…バカにすんなよ…。そんなアニメの……アニメの主人公みたいな顔をしてるんだぞ……お前は!!」


悟の指差した先には光流がいた。


「はぁ!!??」


と光流は振り向き、悟の話の行方が分からず怪訝な顔をする。

なになに!!?ここで光流のこと褒めんの!?オタク訳わかんね~と俊文がツッコミ光流と目を合わす。


「急に一体何を言い出すの!?俺は君に顔を褒められたことを素直に喜べばいいの??」


光流は気味の悪いものでも見るように上体を仰け反らすと、周囲に困惑していることをアピールする。


悟は頬に薄っすらと伝わる涙もそのままに、俯き加減で光流から目を離さない。


「主人公みたいな顔してるくせに……そんなカッコイイ顔してるクセによぉ!…何で!!…なんでお前は悪役みたいなんだよ!!」


「!!!!!!!」


ボタボタと涙を見せて吠える悟の一言に、笑っていた生徒たちの表情が静になる。

僅かに息を飲む声も聞こえた。


「衛を見てみろよ!!お前にどんなことされても周りに気を遣って我慢してるだろ~がぁ!お前にも気を遣ってんだぞ、こいつはよぉ!酷いことされてんのにさ!!」


「転校してきて2週間もしないお前に、もし衛が冷たい態度取ったらどうなると思う!!みんな影響受けてお前相手にされなくなんだぞ!!」


「そんなこと考えてる衛は、俺の好きな漫画の主人公みたいだよ!!!お前と違ってな!!こんなモブキャラの俺にも優しくしてくれるんだからさ!!………お前はどうなんだよ!??お前人に優しくできんのかよぉ!!」


言い終えると悟はグシグシと腕で涙を拭いて、光流から目を離さない。

この場に悟を笑うものは誰もいなくなっていた。


「…………」


気まずい沈黙の中、


「……俺の方から一哉たちには注意しておくよ」


悟の言葉に感化された風もなく、無表情に光流はそう言うと2人を連れて歩き出した。

その姿は平静と変わらなかったが、彼らを見送る生徒の多くの視線はそれまでとは違ったものになっていた。


ただ立ち尽くすことしかできなかった衛は悟にハンカチを手渡した。


「ありがとう」


手渡すと同時に悟の両手を衛は両手で包こんだ。

しかし言葉は一言しか出てこなかった。

悟同様に抜け殻のようになってしまった衛は、二人でその場の生徒たちがいなくなるまでじっとしていた。


椿と結衣はそれぞれ衛と悟に駆け寄りたい様子であったが、衛はそれに知らぬふりをした。


悟との帰り道の最後、いつものロータリーで別れる際、


「俺は衛の味方だからな!!」


目を見開いて力強く言われた。

そんな悟の顔を、衛は果たして真っ直ぐ見返すことができたかどうか、思い出すことことができなかった。

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