第36話若葉泉と石田衛の帰り道

下校時刻になり衛は学校から駅までの道を傘をさして歩いていた。

もちろん登校時と同じ迂回路を通って。

これまでなら佐藤悟が隣にはいてくれるのだが、今日は生憎と同じ組の友人と帰る予定があったようで、衛は1人だった。


もともと1人で歩くことが好きだった衛としては、全然構わないことなのだが、今朝教室に入った時からこちらを探るような視線にさらされ続けたこともあって、心細かを感じていた。

ましてや降り止まぬ雨のせいで気分も自然と沈んでしまっている。


傘の柄を通して伝わるしとしとと降る雨の感触は嫌いではなかったが、それでも今は雨の景色を楽しむ余裕は衛にはなかった。

ただそれでも良かったことは、ただでさえ人通りの少ない下校時の迂回路は、雨のお陰で余計に少なくなっていたことだった。

これには少なからず解放的な気持ちになることができた。


前を歩く生徒は1人だけ。

小柄な女性だ。

ゆっくりと歩く衛ではあっても、次第に距離が近づいていく。

それは身長差に歩幅のせいとゆうよりも、傘を抱えるように持ちながら俯き何かを見ている女性との足取りが遅いことに原因があった。


その女生徒の後ろ姿が近づくにつれ、衛はその姿に見覚えがあることに気付いた。

どうやら彼女は若葉泉のようだった。

彼女と帰りが同じになることは珍しいことであった。

小学生の頃は友人として仲の良かった間柄であったが、中学・高校と同じにも関わらず関係は疎遠となっていた。

教室が同じになったのも中学2年生の時以降のことであった。


彼女との距離は5mほどに迫っていた。

そして衛はここで悩んでいた。

知らぬふりをしてさっさと追い抜いてしまうことがいいことは理解していた。

ただでさえ周りの目が煩く感じているのだから、波風を立たせるようなことを支度はなかった。


しかし、昨日志信から電話で試験で一番を目指して欲しいと言われたことが頭を過ぎっていた。

泉は志信に次いで学年で2番目にテストの点が良い。

そして今もどうやら彼女は手製の単語帳を見ているようであった。

その勉強への向上心がどこから来るものなのか、衛は聞いてみたい気持ちが芽生えていた。

悩んだものの衛は聞いてみることにした。

泉に対して女性としての興味から話しかける訳ではないというのが、衛を動かくきっかけとなった。


「あの、若葉さんだよね?俺、同じ組の石田なんだけど良かったら話しかけてもいい?」


少し距離を空けて相手を恐がらせないように声を掛けてみた。

羽柴結衣の時もそうであったが、やはりナンパをしているような、妙な罪悪感が胸に広がるのを感じた。

衛の声に反応した泉はこちらに振り返る。

まさか声を掛けられるとは思ってもいなかったようで、その動作はビクっと驚くようであった。


「石田…くん?……私に何かよう?」


小学生の頃はお互いに名字を呼び捨てにしていたこともあり、泉も敬称を付けることに多少違和感があるようだった。

それでも嫌がるような素振りはないことに衛は安堵し、小走りで隣へと追いつく。


「えっと少し聞きたいことがあって……今見てるのは英単語帳?」


身長が150cmほどの泉の手には使い古された単語カードがあった。


「そうだけどそれが何?」


きょとんと切りそろえられた前髪が少しかかるレンズ越しの目は、不思議そうにこちらを見つめている。

おかっぱ頭に丸眼鏡のどこか昔を思い起こすような泉の格好は、小学生の時から変わっていない。

しかし、少し冷たい印象を与える彼女の目や薄い唇には、その髪型と眼鏡はよく似合っていた。


衛が勉強に然程興味がないことを泉は分かっているようで、まさか衛の口からそんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。


「えっと……その…もし答えたくなければ言わなくていいんだけど、若葉さんが勉強を頑張る理由って何かと思って?」


「…………。どうしてそんなことを聞くの?」


冷やかしで聞かれている訳ではなくとも、衛と勉強とのつながりが腑に落ちないようだ。

「伊藤志信ってうちの組によく来るA組の友達がいるんだ」


「背の高い人だよね。メガネを掛けた」


「うん、そいつがテストで一位を目指すように俺に勧めてきたんだ。何で俺にそんなことを言うのか分からないんだ。だけどそのことが頭にあって…それで小学生の時から勉強してる若葉さんの動機が気になったんだ。思いつきで聞くようなことじゃないとは思ったんだけど……聞いてみるだけ聞いてみようと思って……」


「そう。そういう理由なら別に良いよ。私も真面目に話して適当に受け取られたくなかっただけだから」


泉は話すことで変に口外され噂になることを恐れていたようだ。

話しかけた当初より表情が柔らかくなっている。


「ありがとう。それじゃ勉強する理由を聞いてもいい?」


「……そうね。まず言っておきたいのは私は努力はしているけど、勉強を無理しているつもりじゃないから?」


泉に念を押すように言われ、衛は虚を衝かれた気持ちになった。

てっきり親に言われて習慣になっていると言われることが頭にあったからだ。


「私、宇宙について勉強したいの。まだ、研究職に就きたいとかまでは思ってないんだけど……。小学生の低学年の時にはそう思ってて、それで勉強しているの」


「……そっか……因みに宇宙のどんなことに興味があるの?星座とはブラックホールとか宇宙の膨張速度だとか大きさだとか惑星とか、色々とあると思うけど」


泉の言葉に素直に感心してしまい衛は息を呑んだ。


「石田くんも宇宙に興味があるの?」


少し驚いたように単調だった声音が少し持ち上がる。

宇宙という漠然とした内容以上のことを聞かれるとは思っていなかったのかもしれない。

「いや、俺の知識はどれも広く浅いから……色々調べてるうちの1つでしかないから」


「よく授業中に自作のプリントを見てるもんね」


一番後ろの席で真面目の授業を受けている泉には、バレていたようだ。

あまり人と関わろうとしない泉に見られていたことに、衛は少し恥ずかしい気持ちになる。

「うん、単なる暇つぶしでしかないけど…」


「それでも寝てたりスマホをいじるよりは良いことだと思うわ。……それで宇宙の話だけど、私は石田くんが言ったこと全部よ」


控えめな笑顔でフォローされてますます恥ずかしい気持ちになった。

しかし、衛以上に泉は自分の欲張りな発言に少しばつの悪い、照れたような表情をしていた。


「…私ね、小さい頃にお父さんに宇宙が膨張してるってこと聞いたの。それ以外にも光の速さとかについても。お父さんは普通の会社員だから、それ以上のことを詳しく知ってる訳じゃないんだけど……私その話がどうしても信じられなくて……それで世の中にある文献を検証してみたいって思ったの。自分で確かめれたら納得できると思って。それに、宇宙についての突飛な話を聞くくらいなら、自分が発表する側になりたいな…とも思って……そうだね、それで言うなら研究職になりたいと思ってるのかな私…」


宇宙に限った話ではなく、論文の多くが英語で書かれていることは衛にも予想が付いた。その論文の一つ一つを自分で確かめようと思うなら、嫌でも勉強しなければいけないことだろう。

幼い頃にそう願ったのであれば、勉強を苦痛に思わないことも理解できる。

興味本位で聞いてみたものの、しっかりと自分のやりたいことが分かっている泉が急に大人びて衛には見えた。


そして自分の現状が酷く矮小にも思えた。


「それじゃあ……ビックバン起源説とはダークマターの存在とかヒッグス粒子とかも検証してみたいってことだよね……凄いなぁ。凄い以外に言えないけど、若葉さんってスケールの大きな人なんだね。……本当に凄いなぁ」


中二病の気質がある衛は宇宙に存在すると言われる暗黒物質=ダークマターや、重さの原因となるヒッグス粒子について、インターネット百科事典で浅く調べていた。


「石田くんもなかなかマニアックだと思うけど……私の話を聞いても笑わないのね?」


世に出る常人には理解し難い理(ことわり)について発表する立場に立ちたい、というこれまた変な自身の夢について、泉は真面目に受け止めてもらえるとは思っていなかったようだ。

その顔は驚きが隠せないようで笑みが浮かんでいる。


「むしろスッキリしたよ。小学生の頃から真面目だった理由がしっかりとあって。そうだなね、海外の論文を読もうと思ったら英語も数学も勉強しないとならないよね。……そっかそのための努力を今してるけど、夢だから無理はしてないってことなんだね」


はじめに泉が言った言葉が理解できこれまた納得がいく。


「うん、自分で決めたことだから…。でも、まだまだ実現するかどうかも怪しい夢なんだけどね……」


覚悟のある強い光を放つ泉の瞳に少し不安の色が映る。

ひたむきに追いかけているからこそ、夢への具体的な難しさも十分に理解しているようだ。


「慰めになってないけど…俺が志信を抜いて学年で一位を取るよりは可能性あるよ。それに若葉さんにはその夢を実現して欲しいと思うな……」


「それはどうして?」


「個人的な意見だけど自分の夢を口にするのって勇気がいると思うんだ。それにやりたいこと自体見つけるの難しいと思う。………ううん、違うな。やりたいことを思うだけで済ませないことが凄いんだと思う。だから、どうかその努力が実って欲しいなって思うんだ。……そうなれば…もし俺がやりたいこと見つけた時は……ちょっとはそれが叶いそうな気がすると思える…から……なんか自分勝手な理由でごめんね」


衛は言ってる途中から柄にもなく真面目で感情がこもってしまうことに、無性に恥ずかしさを覚えた。

最後の方は泉から顔を背け明後日の方向を見て話していた。


「ううん、石田くんに応援してもらえて嬉しい…それに石田くんがテストで一番になれば、私の夢が叶うってことだもんね」


それまで笑みも控えめだった泉が、はじめて顔ほころばせて冗談を口にする。

その表情は衛に小学生の頃を思い出させて、懐かしい気持ちにさせた。

ふと脈絡のない疑問が頭に浮かんだ。


「ちょっと関係ないんだけどさ……若葉さんが髪型を変えないことと夢って関係があったりするの?なんか自分でも何でこんなこと思ったのか、分からないんだけど…」


衛のその質問に今度こそ泉の顔が驚きで目を見開く。

持っていた英単語帳を取りこぼしそうになり慌ててしまうほどだった。


「私、石田くんって何考えてるか分からないところがあるなって思ってたけど、それは正しい判断だと思うことにしたわ。何でそういう発想になるのか私には全然分からないもの」


こちらを見上げて早口に言う泉は不思議なものを見るようだった。


「これも小さい頃にお母さんに言われたんだ。あなたの夢は物事を知ることに多くの時間を割く必要があるって。だから本気なら女の子としての楽しみも、我慢しないといけないことになるかもって。お母さんが挙げた例えの1つに髪型があって……だから変えないようにしようって思ったんだ」


「そっか若葉さんなりの覚悟なんだね。それにしても……素敵なお母さんだね」


「えっ、どうして?」


きょとんと首を傾げて疑問を口にする。


「いや、しっかりと若葉さんの夢を受け止めたんだと思って。ほら、上辺だけなら勉強しろって言いそうだと思うんだ。でも物事を知らないといけないって言い方は勉強だけすれば叶うとは思ってないってことだと思うから……俺の憶測でしかないけどね」


「ううん、合ってると思う。お母さん昔から私のこと応援してくれてるから……」


そういう泉は当時を思い出すように前方を見つめ、物事を知りなさいと小さく口にする。その言葉を噛んで含めるように。

そしてこれまでの母の姿勢を改めて思い出しているようだ。

丸眼鏡の奥からのぞくその瞳は小刻みに揺らいており、母への想いが溢れているのかもしれない。


「……。石田くんってよくそんな些細な言い回しで、私のお母さんの気持にまで気づけるね。私なんて今までその言葉に全然深く考えてこなかったのに…」


今更気付いたことにショックを覚えたようで、言葉尻は小さくなっていた。


「俺の家のお隣さんが羽柴さん家なんだけどさ、そこのお父さんに言い方が似てる気がしたんだ。すぐに思い浮かんだんよね。その人も決して子供の言うことを冗談に受け止める人じゃないから」


「そうなの……」


以外な人物の名前が出たことに泉は驚いた様子だ。

羽柴剛史のことを思い出し少し笑みが溢れる衛の横顔を、チラと泉が横目でうかがう。

思いの外会話が続いたことで、迂回路と大通りの合流地点に2人は差し掛かっていた。


「あの…羽柴さんの名前が出たから言うのだけれど……柳君たちのことは大丈夫かしら?もし私と一緒にいてまた変なこと言われない?」


その一言に衛は弾かれたように泉に顔を向ける。


「そうだねよ!見られたら俺だけじゃなくて若葉さんまでも標的にされちゃうよね!ごめん気が回らなくて。それじゃあ急ぎ足で帰ることにするよ」


そう言いぐっと足を早めようと衛はした。


「ううん、そうじゃないの。私は別に気にしないから……私のことはいいの。でも石田くんは教室で大分辛い立場にあると思うから、これ以上そんな目に会って欲しくない…から……」


遠慮するように少し頬を赤らめて泉が口にする。


「俺のことなら大丈夫だよ。柳君とその取り巻きに興味はないから。それにしても若葉さんはよく柳君が中心人物って分かったね。それとも隣の席だから口にしただけかな…?」


意識した訳ではなかったが、気を使わせまいと衛は言う。

その衛の口から意外と強い言い方が出たことに泉はドキリとする。

衛がそんな似合わない言葉を使う以上、本当に柳たちに興味がないように泉には思えた。そして自分のとっさの一言で、柳のことを中心人物と思っていることに目敏く気付く衛に、泉は内心動揺した。


「私が見たのは偶然なんだけど……石田くんにC組の川越君が突っかかっていった時に、伊藤くんに言い返されて自分の教室に戻る一瞬、柳君に目配せしてたと思うの。それで柳君が主導で動いてると勝手に推測してたの……」


憶測を口にすることに気が咎めるようで、泉は少し声のトーンを下げて話す。


「若葉さんのその話を誰にも言わないから安心して。俺も川越君たちは柳君に言われてやってると思ってるから……転向してすぐに柳君に俺、目を付けられたみたいだから…」


衛は掻い摘んでこれまでのことを泉に説明した。

こうして2人で帰っている以上、泉も明日以降万が一にも絡まれる危険性を考えてのことだった。

ただ、その可能性は低いと衛は内心思っていた。

それは衛の油断でしかないことは、直ぐに嫌というほど痛感することになる。

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