第34話椿の異変
翌日の水曜日は朝から生憎の空模様だった。
天気予報では昼過ぎから雨が振る予定らしい。
折りたたみ傘を衛はバッグに仕舞い、通常通り自宅を出た。
今朝は梅雨の到来を予期させるような、湿気が肌にまとわり付きジメジメとした空気が漂っており、衛の気持ちを少し沈ませた。
昨日の体育で受けた苦痛が思い出された。
今日はそんたことが起きなければいいなと、諦めに似た気持ちで登校した。
衛の予想した通り、丘陵高校への最寄り駅を降り多くの生徒たちと顔を合わせるようになると、自分を取り巻く好奇の目を嫌でも感じた。
どうやら結衣との噂は2学年だけに収まらなかったようだ。
衛は嫌な汗をかきながら少し足早に学校へと向かった。
下駄箱を履き替え、階段を登り、2年B組教室のドアを開けた。
途端に衛は突き刺すような視線に射止められ、息を飲むこととなった。
直ぐに頭を過ぎったのは、昨日以上に教室の雰囲気が悪いものになっているということだった。
昨日は出口という新たな話し相手ができたことで、午後は少しは居心地が良くなったはずが、どういうことか悪化している。
こちらを無遠慮に見る友人たちにも遠慮がない。
それがクラスのルールでもあるかのような状況だった。
そこに衛の居場所はほとんどないように思われた。
それでも意を決して自分の席に腰を下ろす。
前途多難な一日になることを衛は覚悟した。
「マモちょっと良い?」
前の座席を腰掛けそう話すのは朝比奈椿だった。
その顔にはいつもと違い余裕が感じられないように思えた。
それに服装もこの時間であれば、もう少し露出があるはずだが、それがない。
まぁ、そこに関して言えば衛はありがたい気持ちがあったので、気に留めないことにした。
「うん、丁度暇にしてたところだよ。なんか朝比奈さんと話すの久し振りな気がするね」
今週に入ってから椿と話すのはこれがはじめてのことであった。
衛にとってはその一言は特別意識したものではなく、自然と口について出たものだった。
「え?……そうだっけ?……ごめん最近忙しくって誰といつ話したのか覚えてないや……ごめんね」
やけに椿の反応がそっけないことに、衛は直ぐに気が付いた。
しかし、衛はそれを追及する気にはなれなかった。
椿が素直に謝ることに驚いたということもあったが、椿自身思い悩んでいる風なのが伝わってきたからだ。
「ううん、こちらこそ気を使わせるようなこと言ってごめんね。何か悩み事でもあるの?俺で良かったら話し聞くよ?俺の場合は聞くことくらいしかできないと思うけど……」
椿には高校に入学してから何かときにかけてもらうことが多かった。
1年生の時は別の組であったが、廊下で顔を合わすと必ずと言っていいほど、声を掛けられた。
今年、同じ組になってからも椿は頻りと声を掛けてくれる。
奥手なことを自覚している衛にとっては、椿のような快活な態度はありがたかった。
もし、今その椿に悩みがあるのであれば力になりたいと思うのは、衛にとって当たり前の感情であった。
「……全く、マモって本当に良い性格してるよね……。ふぅ…まいったな……」
泣き笑いの表情とはこのことを言うのだろうか?
心は悲鳴を上げているのに、必死に笑顔を取り繕っているのが痛々しい。
本当に一体椿に何があったというのだろう?
自分の置かれている状況も忘れてそのことだけが、衛の頭を占めた。
「あたしのことは今は放って置いてもらえる?それよりも今はマモの事が先だから。マモはSNSって全然やってないよね?」
緩んだ気を引き締めるように、椿が真剣な顔をこちらに向ける。
そして衛の胸を不安で覆う単語を口にする。
昨日から考えないようにしていたことでもあった。
「うん、俺は友達に連絡を取る手段くらいにしかスマートフォンは使ってないよ」
「その言い方だから、ある程度予想は付いてるんだよね?月曜日の夕方頃から、この組のグループトークで盛んにマモたちの話しや噂が飛び交うことになってて……。昨日だと体育でマモが運動苦手なのを確認しようとか授業前に連絡が来てた…」
「……どうりで今日もみんなの様子が変なんだね。そっか、全然知らなかったな。そんな話があったなんて……」
「……マモ?」
椿の話を聞いたことで衛の表情が仮面のように無機質なものへと変わる。
その変化に気づいた椿が不安そうに口を開く。
椿が心配になるのは分かっている。
しかし、こういう時人はどんな表情や反応をしめせばいいのだろう?
「そんなに人の恋愛って興味のあるものなのかな?」
「それだけマモと羽柴さんって組み合わせに話題性があるってことなのよ。マモはそれを意外に思うかもしれないけど」
「因みにその連絡を主導してるのは柳君だよね?」
「え?知ってたの!?マモには心当たりがあったってこと?何で転向早々に衛のことを目の敵にしてるのか、あたしは不思議でしょうがなかったんだけど」
柳のことを口にした途端、椿の反応が大きくなる。
帰り道の柳とのやり取りを知らなければ、衛と柳の間にはなにも接点はない。
椿も含めクラスメイトの多くはそれを不思議に思うことだろう。
「うん、実は色々合って……俺の性格が気に入らないみたいなんだよね」
「そういうことだったんだ。…………そっか、なんか色々と腑に落ちたわ。でも…それが分かってるならマモはこれから反撃するの?」
それなら手を貸すよと言いたげたリアクションに、少し衛は嬉しくなる。
「ううん、SNSとかでやり返したりはしないよ」
「でも、マモの真面目な性格なら皆も目が覚めるんじゃない?」
「ひょっとしたらそうかもしれないけど、俺は別にいいんだ。冷たい言い方になるけど、今こうしてこういう状況にしている人たちから、力を借りたいとは思わない。もちろん一部の人のことだし、そういう雰囲気というか、流れに逆らえないことも分かってるから」
少し声を落し椿に顔を寄せ耳打ちする。
孤高になりたい訳ではない。
どこまでも善人を気取るつもりもない。
それでも自分を貫く以上、譲れないものもあるのだ。
そんな衛のセリフに椿は目を見開いて驚いている。
失望させてしまっただろうか?
少し頬が赤みがかっている。
「……ごめん、ショックだよね。こんな突き放すようなことを言うなんてさ」
「え?ううん、マモの言ってることはよく分かるよ!ごめん!?色々と心の整理が追いついてなくて」
椿には珍しく慌てた様子で返事する。
普段、相手を茶化すことが多いだけに、顔を真赤にしているのは新鮮な表情だ。
「おい、天然たらし野郎の衛。羽柴さんだけじゃ飽き足らず、椿にも言い寄ってるのか?」
後ろからドスの聞いた声が聞こえて来たことで振り返る。
天井を仰ぎ見るように顔を上げると、そこには伊藤志信の姿があった。
黒縁目だねが光を反射し、仰け反るようにこちらを見下している。
「え?志信おはよう。たらしって俺のこと!?」
「お前以外いないだろうが。椿の耳元で愛の言葉でも囁いたのか?」
腰を90度に曲げて顔をこちらに近づけてくる。
そう言いう志信との距離も近いと衛は思った。
「ちょっとあんた何デリカシーのないことを言ってんのよ。今、マモがどういう環境にあるか分かってんでしょ?そういう発言は控えなさいよ!余計な火種になるでしょ!!」
椿が真面目に志信に対して嗜める。
いつもの志信であればそれに怯むところだが、今日はそうではないらしい。
「ふん、俺は思ったことを言ったまでだ。直接本人にな。こそこそと言ったり思うくらいなら、口に出す!!それが俺だ」
メガネを光らせ満足気に仁王立ちする。
引き締まった細身の志信の体格にはそのポーズが似合っていた。
まるでB組の生徒たちにあえて言っているようでもあった。
「志信らしいね。含みがないから嫌な気持ちにならないし、ちょっと悔しいけど格好いいと思ったよ」
素直に思ったことを衛は口にした。
「ふふん、そうだろう。ハッハッハッハ。周りの奴も衛みたいに気付いてくれればいいんだがな」
志信は得意げに笑う。
「直ぐに調子に乗らなければあんたもモテるかもね……」
半眼で頬をついた姿勢で椿が呆れたように呟く。
「……でも志信の本当に良いところは、こうして毎日気にかけてくれる優しいところだと俺は思うよ」
「「……………」」
しみじみと口にする衛。
その言葉に椿と志信が一瞬口を閉じ沈黙する。
二人とも少し顔を赤くして、引いているような気配すら感じる。
「……え!!俺、何か変んなこと言った!?」
変な雰囲気を察した衛は急に不安になり慌てて2人に視線を送る。
「いや……別に悪いことじゃないし、嬉しいことなんだが、一度椿に注意されただろうが!!お前は素直に言い過ぎる!聞いてるこっちが恥ずかしくなる!!それに誤解されるぞ!!」
「マモの良いところだどは思うけど……ちょっと控えた方がいいかもね。いや、そのマモの性格は分かってるつもりなんだけどね……それでも……ねぇ?」
珍しく椿と志信が顔を見合わせて同じ考えに至る。
「そうだった。ごめん。言い訳になるけど2人とも良くしてくれるからさ。自分の置かれた立場的に尚の事感謝したくなるんだよね」
「お前の気持ちは俺も椿も分かっているつもりだ。まぁ、でも口に出して言われた方がうれしくもあるがな」
大きなため息を一度口から吐き出し、やれやれといった感じで志信が肩をすぼめる。
何となくいつもの志信と雰囲気が違うことを衛は感じた。
「ねぇ、あんたちょっと今日は苛立ってない?あたしの気のせいならいいんだけど?」
椿も敏感にそれを察知したようだ。
「……そうか?そんなつもりはないんだがな?」
志信がお前はどう思う? といった調子で衛に顔をむける。
「俺もいつもの志信と違う気がする……何となくだけど」
椿の疑いに衛も同意する。
いつもの志信のようにも感じるが、何か違う。
余裕がいつもより感じられないのだろうか?
「………そうか。ちょっとした仕草とかに出てしまっていたのかもな…。俺もまだまだ心の鍛錬ができていないようだな」
「何かあったの?」
志信には珍しく弱気が顔を覗かせている。
余程嫌なことがあったのだろうと、衛は心配になる。
隣にいる椿もいつもの志信に対する顔と違い、真面目な顔をしている。
「いや…俺は特に何もないさ。ただ、お前と羽柴さんのことが気にかかってな……。教室にバッグを置いてからここに着ている訳だが、俺の教室でもここと同じように羽柴さんを囲んでヒソヒソと噂話をしていてな……。何故こうも急に学年の雰囲気がおかしくなっているのかと、気持ちが晴れなくてな」
そこでようやく衛は柳とのこれまでの経緯を、志信に話していなかったことに思い至った。
「いや、志信にちゃんと言ってなかった俺が悪いんだ。実は……」
衛は下校時の柳とのやり取りなどを掻い摘んで志信に話した。
そしてラブレターを書いた相手が不明な点も。
「そうか、前からお前は目をつけられていた訳か。羽柴さんの告白の時の柳の行動に納得がいったよ。それにしても羽柴さんの名を騙ったラブレターだったとはな…」
「きちんと伝えてなくてごめん。俺のせいで志信には余計な心配をさせちゃったね」
「いや、ここ数日でお前に色々な事が起きているからな、無理もないことだ。それに衛の話を聞いても、俺は今の状況に納得ができないことに変わりはない。お前の友人だからかもしれんが、お前ら2人にはうまくいって欲しいからな」
「うん、ありがとう」
衛と志信は恥ずかしげに微笑む。
「ねぇ、あんたたち、あたしが前に言ったこと本当に覚えてんの?いい加減にしなさいよ」
そこに椿の呆れを通り越した不機嫌な声が割り込む。
「「……」」
衛と志信の2人がその言葉にハッとなったところで、予鈴が鳴った。
A組へと移動する志信。
どうやら少しはいつもの調子に戻れたようだ。
椿も衛にそれじゃと一言告げ、自分の席へと移動する。
衛には分からなかったが、衛に背を向けた椿の表情に色はなく、思いつめた顔をしていた
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