第26話新しい景色と元野球部の川越

いつも通り時計のアラームで目が覚めた。

ただいつもと違い瞬時に脳が覚醒する。

まるで学校に行くのが待ち遠しかったかのように。

不思議な感覚だった。

一から作り変えられたのかと錯覚するほど、自分の見慣れた部屋が新鮮に感じる。

例えるなら物の価値を改めて教えられ、見方が変わったとでもいうような変化が自分に起きていた。

この部屋にある全ての物を愛でることができそうだと衛は思った。

好きな人と言葉を通して確認し合う。

それがこんなにも見える景色を変えるとは思わなかった。

小学生の時から使っている机、本棚に仕舞ってある卒業文集、積み重なったゲームケース、窓から見える朝日、まだ眠たげで静かな道路、屋根にとまる一羽のカラス。

そのどれもが世界の財産と思えるような、そんな大袈裟な気持ちになった。

それともそんなことを感じるのは自分くらいなものだろうか?

いずれにしても心が弾む朝だった。

しばらくベッドで余韻にひたり支度をはじめた。

ますは洗面所に移動する。

結衣と連絡を取り始めてから、適当だった身だしなみは少し時間をかけるようになっていた。

一度髪を濡らし寝癖をなくす。

その後ドライヤーで髪をセットし、最後にワックスで髪に少し動きを付ける。

太い髪質なため思った通りとはいかないが、清潔な印象は持たれるはずだ。

鏡を入念に見て髭や鼻毛が出ていないかを確認する。

自分と睨めっこをし異常がないことを確かめ満足する。

確かに掛かる時間は増えたがそれでも一番大切なことは性格だ!と正面の自分とにらめっこをする。

酔うな!忘れるな!自惚れるな!と何度も自分に言い聞かせる。

それはまるで檻に入った獣に必死に唱えるようであった。

そうすることで檻が堅固になり獣も大人しくなると信じているような。

そんな必死さが衛には見られた。

朝食を取り、制服に着替え、いつもより少しだけ遅い時間に家を出る。

変な考え事ばかりしてしまい、準備に手間取ったからだ。

家を出る際、いつものように声を掛ける母が嬉しそうな顔をしていた気がした。

何か衛の変化を敏感に察知したようだ。

あれから羽柴家の前を通る時は少しだけ期待をしてしまう。

羽柴家の玄関からは誰も出て来ることはなかった。

ひょっとした朝の部活動で出かける時、結衣も衛の家を少し見たかもしれない。

そんなことを想像するとつい口元が緩んでしまう。

駆け足で走るスーツを着た男性、スマホを見ながら歩く女性、友人と話しながら歩く小学生、沿道の小さな花や草、一人ひとり一つ一つに何が意味がある気がする。

名も知らない家の外観の美しさに改めて気付いたりする。

見た景色全てを受け入れてしまえるようなそんな感覚。

いつもなら信号が黄色から赤に変わるタイミングで、スピードを上げて進む車を見ると許せない気持ちになるが、今日はそんな自分は鳴りを潜めている。

ちょっと感情に振り回されていることに気付く。

電車を降り学校までの道のりを歩く。

いつも通り迂回路を通りのどかな風景に目を細めた。

自然と口角が上がる。

重心を右足、左足をと交互に移し地面を蹴って前に進む。

歩くという行為にすら楽しめそうだった。

それもこちらを窺うように見る周囲の気配を感じるまでは・・・・・。

 

下駄箱で靴を履き替え2階にある教室に進む。

昨日の夜に羽柴結衣と決めた覚悟を胸に教室のドアを開ける。

朝の早い教室にはいつもと同じ顔ぶれのクラスメイトが数名いた。

真っ直ぐ自分の席に向かう。

いつの間にか景色に鮮明さが消えていた。

なぜだが分からない。

強烈に独りぼっちであることが感じられた。

席に着きバックから教科書やノートを取り出し机の中にしまう。

ここに至るまでの動作を全て盗み見られているように感じる。

いやもっと前からそう感じていたのかも知れない。

昨日の出来事があって身構えてしまっているのだろうか?自意識過剰になっているのだろうか?

いや、ヒソヒソと小さな声を出す時時に生じる、口から洩れる空気の抜ける音が聞こえる。

それが警戒させるのだろう。


「おい、衛。お前が羽柴さんの告白をうやむやにしてるのって本当なのかよ?」


教室後方のドアからズカズカと入ってきた男子生徒は、衛の隣の席に身を乗り出すかのように座りいきなり捲し立ててくる。

彼には見覚えがあった。

同学年の川越という名だった。

野球部を今年に入り辞めたという噂だった。

衛の彼に対するイメージは丸刈りが強かったが、目の前の相手は髪を茶色く染め随分と伸ばしていた。

眉は野球部の時と変わらず細く薄いままで、つぶれた鼻と右に傾いた唇が軽薄さを醸し出していた。

160㎝前半と小柄ながらもお調子者で目立つ印象を覚えている。

今は隣のC組に在籍しているはずだ。

衛とはほとんど話したことはなかったばずだが、さも友人のように馴れ馴れしく踏み込んだことを聞いてくる彼に衛は驚いた。

下の名前で呼ばれたのも初めてのことだった。


「それでどうなんだよ。お前から迫っておいてはぐらかしてるのは本当なのかよ!」


声が大きい。

まるで敢えて注目を集めようとしているかのように言う。

それに昨日起きたことと彼が言うことは違っている。


「俺から羽柴さんに告白を迫った覚えはないよ」


「そんなことはどうでもいいんだよ!返事はどうしたよ」


「え・・・・まだ・・してないけど」


君には関係ないだろと口に出そうになった。

しかし言うことができなかった。

ほぼ話すのが初めての相手に対して言う言葉ではないなと思ったのと、波風を立てたくなかったのが理由だった。

ただ一番大きな理由は彼が元野球部ということで、最悪殴られるかもしれないと思ったからかもしれない。

情けないことに衛は完全に及び腰になってしまっていた。


「・・・は。まだしてねぇのかよ!チキン野郎じゃねぇか。自分から迫っておいて返事しねぇなんてありえねぇよ!変な性癖でも持ってんのかよ!ぎゃははははは」


下卑た笑いだった。

この場は川越の独壇場のようだった。


「いや、だから俺から告白を迫ってないから!」


慌てて口にする。


「あぁ、それなら俺の聞いた話と違うじゃねぇか!俺は手紙を貰ったお前が内容が本当のことなのか迫ったって聞いたけどな!」


「手紙を貰ったのは確かだし、教室に羽柴さんも現れたけど俺から強要はした覚えはないよ」


とっさに結衣の気持ちや手紙の送り主が結衣ではないことを言いたくなったが、グッと堪える。

例え川越に誤解をされようとも、わざわざ心に秘めたものまで明かす気にはなれなかった。


「お前にその気がなくても向こうはそうは思わねぇだろ!?デリカシーがないのかよ!」

川越にそんなことを言われたくなかった。

今まさに衛の立場で言えば、この件は放っておいて欲しいのだから。

それにしても川越は一体何をしたいのだろうか?とここにきて衛は思った。

初めから衛の言葉に聞く耳を持たないのであれば、一方的に話しをする必要があるのだろうか?

わざわざ衛に向かって大きな声で自分の主張をしに気たのだろうか?

それとも川越は結衣のことが好きで、あてつけの気持ちがあってやっていることなのだろうか?

と衛は考えた。


「川越、衛の言ってることを否定するなら最初から聞きにくるなよ」


またも教室の後方から声が聞こえた。

伊藤志信だった。

大股でこちらに歩いてくる。

その表情は珍しく険しいものだった。

トイレの帰りらしく胸の前で律儀にハンカチで両手で拭きながら向かってくる。


「昨日の場には俺も衛の隣にいた。こいつは間違ったこと言ってないぞ」


「お前俺たちの会話盗みぎきしてたのかよ」


志信の体格と表情に川越は若干狼狽え気味で答える。


「自分の声の大きさを自覚したらどうなんだ?それにやけに衛に突っかかるじゃないか。親しい仲でも喧嘩する仲でもないだろうに」


「こいつに一言言ってやりたかっただけだよ!もう済んだから俺は戻るよ。じゃあなチキン君」


まさに捨て台詞を吐いて川越は座席から腰を浮かす。

彼の中で俺の渾名はチキンになったようだった。


「・・・・もし、お前がまた衛に突っかかっていくところを目撃したら、野球部の顧問にお前の生活態度について俺から報告しておくからな」


志信は呟くようにそれでいて明瞭な声で言った。


「ハッ、俺はもう野球部じゃねぇよ!それに先生に言うって小学生かよお前。噂通りお前らできてんのかよ!気持ちわりぃ」


「言っておくが俺は直接お前の相手をしてやってもいいんだぞ!体格差と経験を考慮してやっているのは俺の方だ」


川越の言葉を無視し志信は本当に珍しく教室で声を上げた。

空手の時の姿を見たことがない者にとっては目を丸くさせたことだろう。

よく通り凄みのある声音だった。


「・・・・・やれるものならやってみろよ・・チクリ野郎」


再度捨て台詞を吐くと川越は青ざめた顔で足早に教室を出て行った。

衛は終始2人の会話を聞く側になっていたが、志信の姿には大いに勇気づけられた。


「申し訳ない。感情的になった」


志信が衛に頭を下げる。

その姿はBクラスの教室にいる者たちに向けて言っているようでもあった。


「全然そんなことないよ!俺は本当に来てくれて助かったよ!ありがとう、志信!!」


弾かれたように気持ちを込めて言う。


「・・・・そうだな。お前は良い訳を考えたり上手くはぐらかすのが苦手だからな。あのままあいつのペースになっていたら完全に悪者にされていたな」


「う~ん、俺としては一生懸命釈明したつもりだったんだけど・・・・」


「言い方が素直過ぎるからな、お前の場合は」


「それは・・・否定できない・・かな」


二人の表情が柔らかいものへと変わる。

それとは対照的に教室の生徒たちの姿勢はいつもと違いぎごちないままであった。

そのことが志信がA組に去った後でも違和感としていつまでも衛の頭の片隅にあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る