第3話心弾むできごと
食事を済ませると洗面所で歯を磨き、2階の自室からバックを取ってくる。
その際に今日の授業の確認をバックの中身を覗いて確かめてから、玄関に向かう。
父はいつの間にか家を出ていた。
見送りに来た母、弓子に一言”行ってきます”と言って衛はドアを閉めた。
向かう学校までは、電車を一度乗り継ぎ片道およそ1時間20分。
高校までの道のりを衛は一人で行くことが大半であった。
”散歩感覚で学校に行けたらいいな”という理由で、友人と待ち合わせて行くようなことはしていなかった。
ただこの日はいつもと違い衛の心は大きく弾むこととなった。
隣に住む幼馴染の羽柴結衣(はしばゆい)と偶然登校時間が重なったのである。
衛の家から駅までの道のりは、隣の羽柴家を横切らなければ行くことができない。
彼女とは家族ぐるみの付き合いで、幼稚園、小学校、中学高そして高校までも同じであった。
小学生の頃まではよく遊ぶ仲であった。
しかし同じ高校にまで入学したものの、弓道部に所属している彼女と帰宅部の衛とでは、登下校の時間が重なることはなかった。
それでなくとも中学生になった頃には、衛も多くの男子がそうであるようにすっかり女性を意識するようになっていた。
それ以来結衣と登下校を一緒にする機会は周囲の目を気にするあまり、減少していった。
衛の推測に過ぎないが彼女も自分と距離を置きたかったことだろうと思っている。
今はどうなんだろ?今でも迷惑かな?と一瞬頭によぎったものの、挨拶せずに無視するのも余計に変だと考えた衛は、”おはようと”彼女に声をかけた。
丁度玄関からこちらに歩いていた結衣は、衛に気付くと一瞬驚いたような表情をし
「・・おはよう・・・」
と小さなかすれ声で言い、もじもじと俯き加減でどこか居た堪れないように衛には見えた。
(やっぱり声をかけない方がよかったかな)
彼女の態度に衛は不安になった。
結衣は門扉を後ろ手に閉めると、立ち止まっている衛に小走りで近付いてくる。
なびく髪が朝の日の光に美しく反射していた。
近くに来る結衣を一言で表すなら”大きい”。
身長がである。
160センチ後半の衛に比べて、彼女は170センチ後半はあった。
その差は約10センチ。
衛は自分の背丈が低いことに強いコンプレックスを抱いていた。
それは小学6年生頃から次第に大きく成長していく友人たちに身長を追い越され、現在まで見送り続けるうちに根付いたものだった。
その筆頭が結衣だった。
当初こそ衛も”その内追いつくから!”と声を大にして友人たちに言っていたが、中学3年になるころには追いつくこともできず、体の成長は完全に止まってしまっていた。
そんな彼に気を遣ってか中学生の途中から、結衣は彼の側に近づくのを躊躇うようになった。
衛はそのことに気付いていた。
しかし自分に遠慮しての行動なのか、逆に自分との対比で彼女自身が目立ってしまうことを嫌っての行動なのか判断がつかないでいた。
このことも彼女と疎遠になる要因の1つとなっていた。
案の定今も結衣は衛の隣には来ても、そこには一定の距離を空けていた。
「今日は朝練の日じゃないの?」
2人で話すのも久しぶりなため何を言えば良いか分からず、当たり障りのない質問をする。
衛にはこの一言も絞り出すのにも酷く勇気がいることだった。
「・・・うん、今日は顧問の先生の都合で朝練はないんだ・・・」
質問に答える結衣の声は小さい。
その上距離も少しあるせいか余計に聞き取りにくかった。
また肩甲骨まである長髪は前髪からセンターに分けており、俯き気味な顔の角度からでは、表情までもが判断しにくかった。
同性の友人、所属している弓道部の先輩・後輩には明るく真面目な彼女だが、異性に対しては消極的な態度をとることで校内でも有名だった。
二重の大きな目に小柄ながらも通った鼻筋、そして細い顎のライン。
弓道着を身に付ければまさに大和撫子だと学校でも評判だ。
当然そんな彼女は男女ともに人気がある。
彼女に好意を寄せる生徒の噂も沢山衛は耳にしていた。
小学生の頃と比べると結衣は随分大人しい性格になったと思うが、それは自分も含めて知り合い全てに言えることだ。
そんな皆が羨むような彼女にもコンプレックスがあるのだろうか?と彼女の態度から衛は何度も思った。
中学生のはじめに結衣に対してイジメのようなことがあったとはいえ、自分を含む異性に対する結衣の及び腰な態度は、腑に落ちないものがあった。
ただ幼少の頃から一緒に過ごしてきた衛だからこそ、今ここにある結衣とのこの距離は彼女の優しさからくるものだろうと思える。
背の低い自分に遠慮しているのだ。
そしてこちらをチラチラうかがい、どこか人懐っこい子犬のような表情の彼女を見れば、それは確信できた。
「えっと、本当に久しぶりに話すし、馴れ馴れしいの困ると思うから羽柴さんって呼ぶね」
抵抗はあったし寂しさも感じたが衛はそう前置きし
「ありがとう、俺の身長を気遣って距離を空けてくれてるんでしょ?でもそれなら気にしなくても大丈夫だから。よかったら一緒に登校しない?」
と言った。
中学1年生の頃までは下の名前で呼び合う仲だったものの、今では気恥ずかしさが勝ってしまっている。
衛は自然と覗き込むかたちで結衣を見る。
嫌な顔されてたらどうしようという不安で胸はドキドキと緊張している。
俯き気味の彼女は頬を赤らめ瞳は再び大きく見開かれている。
小さな口は真一文字に引き結ばれている。
「・・・こちらこそ変に気を浸かってごめんね、私が隣にいても大丈夫?」
少しの間があった。
そして少し慌てたように話す結衣に、衛は問題ないよと答えた。
結衣の返事を聞くまでに酷く消耗してしまった衛は、
「俺たち幼馴染で家も隣同士なんだから、一緒に登校しても何もおかしくないよね」
と誰に当てた言い訳ともつかないことを口にする。
結衣と登校することに自分を納得させたい何かがあったのかもしれない。
もしくは彼女と親しくなりたい男子に向けた言葉かもしれない。
いずれにしても、ごちゃごちゃと考えてしまっている時点で舞い上がっていることに変わりはなかった。
そうだよねと結衣は少し困ったよう笑った。
並んで歩くうちに会話は弾み、それに比例して2人の距離は自然と近づいていった。
そのことが衛はとても嬉しくて心が満たされていくのを感じた。
そして昔を思い出し懐かしくも感じた。
何よりも隣で結衣が笑ってくれることに胸の充実を覚えた。
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