エコーロケーションは海を越えて

こんぶ煮たらこ

エコーロケーションは海を越えて

 ボクは生まれた時一人だった。

 いつもはお母さんがいて、お父さんがいて、お祖母ちゃんがいて、お祖父ちゃんがいて、お姉ちゃん、お兄ちゃん、おっきいお姉ちゃん、おっきいお兄ちゃん……。たくさんの家族に囲まれながら、みんなで海を泳いでいたんだ。

 でも気がついたら、一人になってた。最初はどうしてみんなボクを置いていっちゃったのか、わからなかったけど、海に映った自分の顔を見た瞬間、すぐに理解した。

 ――ボクはもう、ボクじゃない。

 それに気づいたら、何だか海もとっても広く感じて、――とっても怖くなった。


 そんな時、キミが現れたんだ。


「こんにちは! はじめまして! ねぇあなた、お名前は?」


 これは、ボクがキミと初めて出会った時のおはなし。












 ◇


 初めて会った、家族以外の子。

 その子はボクにとびっきりの笑顔で話しかけてきた。綺麗な海色の瞳をキラッキラに輝かせて、ボクの返事を待っている。

 見ているだけで吸い込まれそうなほど真っ直ぐな眼差し。そこに、緊張して震えたボクの姿が映っていた。

 挨拶は慣れっこのはずだった。おはようも、こんにちはも、おやすみも、いつもしていたはずなのに、知らない子だと思うと途端に声が出せなくなる。

「こ、こんにちは……はじめまして」

 精一杯、勇気を振り絞って言った。

 それが、初めて交わした言葉だった。

 顔が熱い。喉が渇いているわけでもないのにスカスカの声で、最後に言ったはじめましてが上ずっているのが自分でもわかった。

「恥ずかしいー!」

 そんな自分の声を聞いたら、いてもたってもいられなくなって、その場で思いっきりジャンプする。

 その瞬間、自分でもビックリするくらい力が湧き上がってきて、身体がふっと海面から離れた。

 こんなに高く跳んだのは初めてだった。

 ふいに巻き上がった潮風がボクの前髪を押し上げて、空を飛んでいたウミネコと目が合う。

 ウミネコは驚いていた。当然だと思う。ボクだって、こんなに跳べるなんて思っていなかったんだから。

 だから勿論、制御なんてできるはずもなく……。

「わっ、わわっ!?」

 ジャッパーン!

 そのまま背中から海にダイブする。

 落ちる瞬間、近くにいたその子がありったけの海水を被るのが見えた。

 しまった――と思った。

 すぐに上昇して海面から様子を窺う。なるべく目は合わせないように、そして適度に距離を保ちつつ、ちょっとだけ顔を出して、その子のことをじっと見つめる。

 その子は頭から海水をびしょびしょと降らしながら、ただ何も言わずに俯いていた。髪の毛が張りついていて顔は見えないけど、その肩がわなわなと震えている。

「あ、あの……。ご、ごめんなさ――」

「……凄い凄い凄ーいっ!!」

「え?」

「あなたもそれできるの!? 私もそれ得意なんだけど、あなたみたいに迫力あるの初めて見たよ! ねえねえ、どうやったの!?」

「え、えーと……」

 ボクはてっきり怒られると思ってたから、正直面食らった。その子は怒るどころか、さっきよりも数倍目を輝かせてボクに近寄ってくる。そしてあっという間に距離を詰めると、水中でボクの手を掴んだ。

 とっても温かかった。冷たい海水の中からでもわかる、その懐かしい温もり、心がふっと軽くなる瞬間。優しい気持ちがその掌から伝わってくる。

 その子がもう一度尋ねた。「何て名前なの?」と。

「ボクは……シャチ」

「私はバンドウイルカ! よろしくね!」

 そう言ってバンドウイルカは手を振った。

「バンドウ、イルカ……? じゅるり……」

「うわっ!? 大丈夫!? よだれ出てるよ!」

「あ、あれ? ご、ごめんなさい……」

 また恥ずかしいところ見られて、ボクは赤面した。涎を拭く姿も見せたくなかったから、また顔を水面に埋めて治まるのを待つ。すっかり動かなくなったボクを見て、バンドウイルカが「もしかして」と言った。

「お腹空いてるの? だったらジャパリまん、一緒に食べようよ!」 

 そう言ってバンドウイルカが取り出したのは、まあるい、ピンク色をした奇妙な物体だった。初めて見るそれに思わず目が釘付けになる。

 中央に渦巻状の白い模様があって、生きているのか死んでいるのか、見ただけでは判断がつかない。食べようと言ったのだから、多分食べ物なんだろうけど……。

 その時、ボクのお腹がぐぅ、と鳴った。その音が、眠っていたボクの本能を呼び覚ます。

「いただきまぁ~っす!」

 がぶり。その瞬間、口の中でとろけるような旨味が広がった。

 こんな美味しいもの、今まで食べたことがなかった。いや、それだけじゃない。その旨味の中に、懐かしい味が含まれているのを舌が感じ取る。

 この味を、ボクは知っている。そうだ、これは確か――。

「わぁ~!? ちょっと! 私の手まで食べないでよおおおぉぉぉ~!!」

「あれ? わわっ!? ごめんなさい! とっても美味しかったからつい……」

「えぇっ!? それはえっと……ジャパリまんが? それともまさか――」

 バンドウイルカが薄ら青い顔をこちらに向ける。その指にはボクのつけた歯型がうっすらと残っていた。そんなに強く噛むつもりはなくて、ちょっとしゃぶっただけのつもりだったんだけど……。

 何も言えずに黙っていたボクを見かねたバンドウイルカが何かを察したのか、すぐに「まぁこれくらい大丈夫大丈夫! それより面白いこと言うんだね」と言って笑う。

「ねぇ、あなたもしかして最近フレンズになったばかりの子?」

「フレンズ?」

「そう! 私たちはフレンズって言って元はみんな動物だったんだよ。それがある日突然、サンドスターが当たって大変身! ――フレンズには色んな子がいて、私たちみたいに海で暮らす子もいれば、海から出て陸で生活してる子もいるし、空とか森とか、みんなそれぞれ自由にこのジャパリパークで遊んでるんだ」

「へぇ~!」

 バンドウイルカがとっても楽しそうに語っているのを見て、ボクも何だか興味が湧いた。今まで陸に上がるなんて考えたこともなかったけど、この姿だったら陸どころか鳥のフレンズに頼めば空も飛べちゃうんだって! 空、というまったくの真逆の世界のことを考えると、思わず心が踊った。

 その時「じゃあさ」とバンドウイルカが言った。

「せっかくフレンズになったんだもん! まずは色んなことやってみない?」

「――うん! ボク、色んなことやってみたい!」

 ボクはバンドウイルカの手を取ると、青く輝く海を駆け出した。













 ◇


「また負けたー!」

「えへへへへ。またボクの勝ちぃ」

 がっくりと項垂れるバンドウイルカを前に、ボクは両手を上げて喜んだ。そのまま軽々とジャンプをして彼女の頭上を飛び越えると、水飛沫に混じって綺麗な虹が顔を覗かせた。

「もお、シャチってば強すぎだよ。私もうヘトヘト~!」

「ねえねえ! 次は何して遊ぶ? 泳ぎっこ? ジャンプ? あ! 狩りごっこだったら負けないよ!」

「えぇ~!? まだやるの!?」

 バンドウイルカと遊ぶのはとっても楽しかった。特に狩りごっこは、やっていると何故だか無性に興奮してきて、バンドウイルカの尾びれを何回も噛んじゃった。その度に「もう! 次噛んだら狩りごっこはおしまい!」って言われるんだけど、気づいたら二人とも熱中しちゃって、結局彼女の尾びれはボクの歯型でいっぱいになった。

「う~ん。ジャンプだったら負けないんだけどなぁ」

「でも泳ぎっこはボクの方が速いよ?」

「えーそうかなぁ。おんなじくらいじゃない?」

「じゃあおんなじくらい! ボク、バンドウイルカとおんなじがいい!」

「私たちって、もしかしたら案外似た者同士なのかもね」

「うん!」

 彼女と遊ぶうちに、自分の身体について段々とわかってきたことがある。

 だいぶ力が強いこと、頭を使うのが得意なこと、スタミナがあること、泳ぎが速いこと……。まだ力の制御がうまくできなくてたまにやり過ぎちゃうこともあるけど……。そして何と言っても――。

「ねえねえバンドウイルカ、ボクお腹減っちゃった」

「えっもう!?」

 どうもボクは身体を動かすと、すぐにお腹が空いちゃうらしい。ぐるるるる、とあんまり可愛くないお腹の虫がジャパリまんを催促している。

「あのね、ジャパリまんはいつでも食べられるものじゃないんだよ。本当はご褒美の時に貰える特別なものなんだから」

「そうなの?」とボクが尋ねる。「そう」という彼女の返事は、いつもより素っ気なく聞こえた。

 そう言えば、さっきからずっとバンドウイルカにねだってばかりだったということに気づく。一緒に食べていたジャパリまんだって、半分こにしなければ全部彼女のものだったはずだ。それでも彼女は文句一つ言わずにボクにジャパリまんをくれた。

 バンドウイルカはとても友達想いなんだ。だったらボクだって――という気持ちが沸き起こる。

「じゃあボク、ちょっとジャパリまん狩りしてくる! バンドウイルカはここで休んでて!」

「えっ!?」

 バンドウイルカは驚いていた。ボクがバンドウイルカの分までいっぱい取ってきたら、もっとビックリするだろう。彼女の喜ぶ顔を思い浮かべたら、それだけで心がぽかぽかと温かくなった。

 早く行かなきゃ。ボクは身を翻すと、今度はもっと沖の方を目指して波を蹴った。

 最後にふと「今は海のご機嫌が――」と聞こえた気がした。















 ◇


 「ジャッパリま~ん~♪ ジャッパリま~ん~♪ どこにいるんだジャパリまん~♪」

 海の中をぐんぐん、ぐんぐん進んでいく。身体が軽くなったからなのか、前よりも随分とスピードが出るようになった気がする。

 一人で泳ぐ海がこんなに広いとは思わなかった。何だかこの海全部が自分のものみたいに思えて贅沢な気分になる。でもやっぱり、ちょっと寂しいかもしれない。

「あれ? そう言えばジャパリまんってどこにいるんだろう」

 うっかり何も聞かずに飛び出してきてしまったけど、そもそもジャパリまんとはどういう生き物なのだろうか。あんな丸くて美味しいもの、海に泳いでいたかな。海じゃないとしたら陸? となると、どの辺りにいるのか……。

「どうしよう……。もし見つからなかったらバンドウイルカが悲しんじゃう」

 お腹が空いてるのはボクだって一緒だった。でもバンドウイルカはボクのためにジャパリまんをたくさんくれた。絶対に、ジャパリまんの群れを見つけてバンドウイルカにお礼するんだ、改めてそう決意する。

「よぉし! 今度はもっと潜って――」

 そう言って海底へ身を投じた、その時だった。


  ブオオオオオオオオオオオオオン、

  ブオオオオオオオオオオオオオン、


 ものすごい衝撃が、ボクの耳を襲った。

 何が起きたのか、わからなかった。

 目の前に何かが迫ってくる。黒い、大きな影が視界を塗りつぶしていく。その中に三つ、蠢く目のようなものが見えた。

 次の瞬間、とてつもない衝撃波がボクの全身を打ちつける。水の中にいるのに、その抵抗をもろともしない強い、強い衝撃だった。

 視界がぐわん、と大きく揺れる。世界から音が消える。

 逃げなきゃ。頭ではわかっているのに身体が動かない。海中にできた巨大な渦が、ボクを一瞬で飲み込んだ。


 助けて! 助けて!


 海水が纏わりつく。息ができない。

 混乱と恐怖が思考を支配し、何も考えられないまま、ただひたすら渦に身を引き裂かれそうになる。

 そして沈みながら、心の中で何度も叫ぶ。


 助けて! 怖いよ! 誰か!


 必死に、もがく、抗おうとする。

 でも、動けば動くほど、海はボクのことを嘲笑うかのように、その自由をいともたやすく奪っていく。


 助けて! バンドウイルカ――!


 その時、暗い海の底で、微かな光が見えた――気がした。

 青く、透き通った、闇の中でも決して折れることのない一筋の光が――。

『シャチ! 助けに来たよ!』

『バンドウイルカ!』

 ボクは叫んだ。水の中では声は出せないはずなのに、バンドウイルカの声がはっきりと伝わってくる。

『どうしてここが!?』

『いいから! それよりしっかり掴まってて!』

 逆さまになったボクを、バンドウイルカが同じように逆さまになって支える。お互いの顔と顔が触れそうになるくらい近かった。

 彼女の鼓動が伝わってくる。速く、強く打ちつけるその拍動が、彼女の恐怖を何よりも表していた。

 怖い。本当はボクだって怖い。

 バンドウイルカの手を握ると、彼女もボクに負けないくらい強い力で握り返してきた。ぎゅっと、ともすれば痛いくらいなのに、何故かとても柔らかく感じた。

 ふっと前髪が流れてバンドウイルカと目が合う。彼女の紺碧の瞳が、初めて会った時と同じ輝きを放っていた。

『やっと、目、見せてくれた』

『え?』

『シャチの目、私好きだよ』

 その時、一瞬だけ時が止まったかのように海が静かになる。それを好機と見たバンドウイルカが『いっくよー!!』と叫んだ。

 次の瞬間、バンドウイルカの尾びれがバシン! と、水を蹴った。その一蹴りで、身体がぐん、とスピードを増す。

 さっきの泳ぎっこや狩りごっこの時とは比べものにならないスピードだった。そのまま猛烈な勢いで水を掻き分け、一気に海面まで上昇していく。周りの景色が霞んで見えるくらい速かった。

 そして海面から顔を出し、息を吸った瞬間、そこでようやく助かったんだ、と思った。

 そのまま二人で顔を見合わせながら、何も言えずに、というよりは、お互い話すキッカケを待っているような無言の間が生まれる。

 心配させてしまったのはボクの方だ。まずは謝ろう。そう思って頭を下げようとしたその時だった。

「えいっ」

 いきなりバンドウイルカがボクのおでこを指で弾いた。ぺしっ、という場違いなほど軽い音が辺りに響く。

「いたっ!?」

 ジン、とした痛みが数秒遅れて伝わってくる。そのままおでこを押さえていると、バンドウイルカがただ一言、「よかった……」とだけ呟いた。その声が、掠れていた。海色の瞳が、夕暮れ時のように真っ赤に染まっていた。

「知らなかった。シャチもエコーロケーション使えるんだね」

「エコーロケーション?」

「うん。シャチが心の中で何度も私のこと呼んでたでしょ? 助けて、助けてって……。その声、全部私に届いてたよ」

「えっ!? そうなの?」

 驚いた。だってこの能力はボクが動物だった頃に使っていたものだったから。まだボクにもちゃんと動物だった頃の力が残っているのだと思うと、嬉しくなった。

 ボクは最初、自分のこの姿を見た時、もうボクはシャチじゃない、と思った。シャチとは違う、まったく別の生き物に生まれ変わってしまったのだと、そう思った。

 でも違った。ボクはシャチだ。シャチのフレンズだ。

 フレンズが何なのかとか、どうしてこの姿になったのかとか、わからないことはまだまだたくさんある。

 でも今はそんなことより、とにかく遊びたいんだ! いっぱい遊んで、もっと旅して、色んな子と出会って、どんどん知らない世界を覗いてみたい。

「ねぇシャチ、次はどこで遊ぶ? あ、そうだ! 私の遊び場に行こうよ! きっと気に入ると思うよ。私の友達のカリフォルニアアシカもいるし」

「えっアシカ!? じゅるり……」

「わー!? シャチ! よだれよだれ!」

「あれ? えへへへへ……。よぉし! 今度は海だけじゃなくて、陸でも遊ぶぞー!」

「おー!」


 それは、エコーロケーションがもたらしてくれた素敵な出逢い。

 不思議な音波が紡いでくれた、奇跡の物語。

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