彼女はもう怒らない。

山下良半

 彼女はもう怒らない。

 初めて見た映画のことを覚えている人は多いと思うけど、初めて「音楽」に触れたことを覚えている人は意外と少ないと思う。音が溢れるこの世界で物理としてたくさんの音楽を耳にして人は育つけど、僕には初めて「音楽」を聴いた、という記憶がある。それは、彼女が僕に「音楽」を教えくれた記憶だ。


 僕らは同じ高校の同じクラスで出会った。「僕らは出会った」というよりは、彼女はあまりにも強烈すぎて、僕が彼女に出会ったといったほうが正確かもしれない。入学して、彼女はすぐに目立ち始めた。高校最初の新学期が始まるとすぐに髪を目も覚めるようなピンクに染めて、教師の質問に答えず、やがてクラスにも顔を出さず屋上へ続く踊り場でタバコをすって停学になって、2週間後に学校に現れるとすぐに上級生7人に絡まれ、そのままそばにあったモップの金属部分で有無を言わさず3人を病院送りにして、また停学になった。なんだか漫画みたいな突き抜けた存在だった。当然、彼女は浮いていた。手がつけられない、柄の無いナイフのように誰も障らず、教師たちはまるでそのままナイフが錆びて使い物にならなくなって朽ち果てるのを待っているように、ひたすらに彼女を無視した。


 僕はどうだったか。

 どこにでもいるような量産されたような生徒だった。適度に仲間とつるんでは学校を抜け出してマクドナルドに入り浸り、思い出したように駅前のドラッグストアで整髪料やらコンドームなんかをチームプレイで万引きをしては笑い合っていた。彼女に比べればたいした事の無い存在だった。


 僕はどこにでもいるような生徒だった訳だから、そんな風に突き抜けた彼女とは別に関わりは特になかったと思う。だからたった1回、その瞬間しかなかったはずだ。その日は高校生最初の夏期休暇前だったと思う。僕は放課後担任に呼びだされて、職員室横の会議室に座っていた。前日に僕らの学校のそばにある他校の高校に仲間と忍び込んで窓ガラスをきっちり6つ投石して壊したからだった。6つだったのは5人で忍び込んで度胸試しだと盛り上がりめいめい石を取り合ったのに、2人が途中で恐ろしくなったのか止め、それに僕がイライラしてこんなのができないのかと側の石3つを連続で叩き込んだからだ。そんなこんなでガヤガヤとしていたら、そばの民家の親爺がそれを聞きつけて翌日僕らの高校の制服姿が犯人だと告げ口をして、なんだかよく分からない推理の結果僕だけが見つかった。僕は当然、なんで自分だけがという被害者意識と告げ口をした親爺と石を投げなかった仲間を思うとふてくされた気分で椅子に体を投げ出すようにすわって、タバコをすいたいな、と考えていた。するとドアが開いた。担任の前田と学校一の危険少女が立っていた。

「片桐。しっかり座れ。お前、あんな馬鹿な事したんだからせめて態度だけでも反省しろよ。河瀬もつったてないで入れよ。」

 前田はわざわざ僕の真ん前の席に赤いいつものジャージで座り、会議室に入ろうとしなかった彼女、河瀬さおりを呼んだ。さおりはむっつりとしたまま会議室の奥へ歩いていくと窓際の席に僕らを無視するようにすわった。

「河瀬と片桐、お前らはここでこの紙を書くように。」

 前田は僕らに白いコピー用紙を渡した。紙には反省文という文字と点線で欄が描かれていた。

「片桐、お前一人じゃないんだろ。さっさと他の奴の名前いっとけよ。笹川とか高橋とかなんだろ?」

「一人だって言ってんだろ。」

「お前が一人でやる奴か。なんでもいいからさっさと紙書いたら職員室もってこいよ。」

 前田はそう告げるとすぐにいなくなってしまった。僕は紙をつまみ上げて、どうしたものかと思案したが机にそのまま置き、ため息をついた。彼女を見ると、片肘をついて窓から校庭を眺めていた。

 とたん、息苦しくなった。彼女が僕らから見ても危うい、バランスを崩している『アブナイ奴』で、その彼女と密室にいる事もあったが、それ以上に彼女が美しかったからだ。なんといって良いのか分からないが、彼女はただ眺めていた。そこにはなんの苛立ちとか面倒くさいといった感情はなく、私はすべてと無関係でただ座っていて他にやりたい事もないからただ眺めている、そんな横顔だった。独立して存在して、自分の意思でこの『世界』はどうとでもできる、そんな強靭な横顔な彼女は、なんだかイライラしてただ石を投げて捕まる僕とは異なる高い次元にいるように思えた。あんまり見つめていた所為か、彼女が校庭を向いたまま口を開いた。

「なにしたの?」

 初めて彼女に話しかけられ僕は瞬間かなり慌てた。

「大川高校の窓割って、見つかった。」

「なんで大川なの?」

「なんでも良かったんだけど、一番近かったから。」

 彼女はそう、と呟くと手元の反省文を手に持ってくるくるとまわした。

「河瀬はどうしたの?」

「お金、盗んだの。」

「いくら?」

「12万。」

「どこから?」

「知らないおじさんから。」

「すげぇ、大金だな。お前、すごいな。」

「ほんとに?どうしてすごいと思うの?」

「だって12万だろ。めちゃ大金じゃん。」

 そんなこと無いよ、たいした金額じゃない。と僕をまっすぐに見て言った。僕たち高校生にとって12万はまぎれも無い大金だったけど、彼女みたいにぶっ飛んでいると色んな世界を知っていて、たいした事無いのかもしれないと僕は少し自分の小ささを恥ずかしく思った。僕が黙っていると、彼女は「どうやって盗んだか知りたい?」と聞いた。僕は黙ってうなずいた。

「知らないおじさんを騙したの。ネットで探して、15歳の私をどんな風にしても、何してもいいから2時間私を買ってくれる人を探して、その中で一番高い金額の人とホテルにいったの。会ったら意外と若い人で、多分32、3だった。それでホテル入ってその人がいろんな道具をだして、シャワー浴びるている時に閉じ込めて財布からお金を抜いて逃げたの。その金額が12万。ホテル出たところで、顔を真っ赤にしたその人がタオル一枚で追いかけてきてすぐに捕まった。この売女が、ガキがって大声でわめいて。そしたら騒ぎになって、今度はその人が警察に捕まった。買春に未成年。たぶんひどい目にあうんだろうね。それで私は補導されて、今ここにいるの。」

 よく見ると彼女はほほに痣を作って僕を見つめていた。男に殴られたのだろうか。僕はただ、彼女の話を聞いて何も言えずにいた。「だから大した金額じゃないよ。それが私の値段だから。」

 まじかよ、と僕はまるで阿呆みたに呟いた。「なんか、金が必要なの?」

「お金はあっても良いけど、それより『それ』をしたかったの。誰でもいいから、私はただ素直に自分を切り売りしていくだけじゃないってことをしたかったの。」

 僕はやっぱり馬鹿みたいに『すげぇな』とつぶやいた。その時の僕らの会話は多分それだけだった。彼女は話し終えるとペンを取り出して、一気に何かを書き終えて反省文をつまんで職員室に向かっていった。僕は彼女の話を聞いて、『切り売りしていくだけじゃない』という事について考えたがよくわからなかった。代わりに、同級生でおまけに美しい横顔をした彼女が見知らぬ大人とホテルにいるところを想像していた。それはなんだか危険でとても官能的で、高校1年生だった僕は馬鹿みたいに気づいたら勃起していた。職員室から「こんなのが反省文か!」という前田の怒声が響いて我にかえると、頭の悪い文書を反省文として殴り書きした。職員室の前田の机にマラソンのランナーが給水スポットに立ち寄るがごとく、反省文を叩き付けると僕は急いで彼女を捜して外へでた。彼女は校舎を出て、最短で大通りに出るには抜けなければならない校庭を横切っているところだった。彼女は真っ赤なヘッドフォンを頭にかぶり、ポケットからMDウォークマンを取り出して選曲していた。僕は駆けてきて暴れる肺を少し腰に手を当ててて整えると彼女に聞いた。

「なに聞いてるの?」

彼女は僕を見て不思議な顔をして、真っ赤なヘッドフォンを外した。

「それ、何聞いてるの?」

「音楽」

「だから、だれ?バンド?」

「レイジ」

「玲二?だれだろ、知らないな。」

彼女は「人じゃないの。バンド。」と言った。僕はやっぱりそんなバンドは知らなかった。当時の僕はろくすっぽに音楽なんて知らなくて、家のソファーに馬鹿みたいに寝そべってる時にたまに8時だか9時だかにやっている音楽番組を口を開けて見ているくらいだった。彼女は不意に僕に近づくと、外したヘッドフォンを僕の頭にのせた。彼女の髪が風で揺れて僕の口もとを優しくさわった。とたん甘美な香りがして、側に並ぶと案外に彼女は小柄で、僕はまたしてもドキリとした。ピコピコと彼女がMDを操作する電子音がして、刹那、爆音が僕の頭蓋骨に鳴り響いた。歪んだ、金属の音だった。ぐわんぐわん、宙をくるくると回るように電子の音が飛び交い、続いて金切り声の男が英語のラップを叫んだ。僕はこれまでこんな音楽を聞いた事はなかったし、なんだかうまく言えないが、心とか頭とかじゃなくて僕の細胞を揺らした。それは「ホンモノ」のように感じた。浅い上澄みを掬ったでもなく、深い核心を溶かしだしたでもなく、兎に角どこをとってもまがい物なしの純度の高さがあった。僕は鳥肌が立つのを感じた。それまで僕は音楽で鳥肌が立つことを知らなかった。校庭の外の大通りを黄色いバスが通った。夏を迎えたばかりの校庭にゆるやかな風が抜けた。癖のある排気ガスのにおいを感じ、不意に僕は排気ガスの匂いがきらいじゃない事を思い出した。僕はヘッドフォンを外した。

「この人はなんていってるの?」

「すごく怒ってるの。何かに。たいていは世の中に。」

「なんか分かんないけどいいね、これ。たぶん、本当に怒ってるように思う。」

「そうね。」

「河瀬も怒ってるの?何かに。」

彼女は僕の事を見つめた。彼女は質問を答える代わりに、もしくは言葉選んでも見つからなかったのかもしれないが、初めて少し表情を崩して言った。「気に入ったのなら、今度貸してあげる。CD。」


多分これが僕の初めて「音楽」だったと思う。


 僕がそのCDを借りたかどうかはもう覚えていないが、それからしばらくして彼女は高校を退学した。離婚をして地方にある実家に越していった母親についていったらしかったが、人を殺して少年院に入ったとか、年をごまかして違法風俗店で働いているとか、その時は校内をいろんな噂が流れた。僕はその後、ギターを買ったり、だんだんと付き合う友人が変わってバンドを組んでみたり、大学で軽音サークルに入ったりして、その飲み会でプロになるためにはなんて友人たちと管を巻いたりしたけど、結局今は新卒で入った食品会社で営業をもう10年ほどしている。


 今日、受持ちのエリアの外回りを予定より早く終えた僕は会社の営業所に戻る前にコンビニで缶コーヒーを買うと営業車のシートを倒してなんとなく漫然とラジオをかけた。特に代わり映えもしない毎日に、あんまり達成の見込みもない仕事のノルマとか、付き合っている彼女とのなんとくの今後とかにぼやぼやと考えを巡らせていた。すると、突然営業車のラジオからあの曲が流れてきた。

 ふと、もう何年も思い出すことがなかった記憶がよみがえってきた。僕はじっくりと沁みるように校庭での彼女との記憶を掘り起こした。そして考える。 


 彼女は今も怒りの炎を灯しているのだろうか、と。

そして、あの時の彼女のように、僕はまだ何かに怒れるのだろうか、と。

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彼女はもう怒らない。 山下良半 @hanbun-yoru

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