2.そして私は拾われる

 どうやら少女は家出少女ではなく、塾からの帰り道だったらしい。大きなリュックの中には塾で使う参考書がどっさりと入っているとようだ。

 家はすぐ近くだと言っていたけれど、勢いを増していく雨から二人の体を守るには、少女の傘は小さすぎた。なんとか荷物は濡れないように死守していたが、私の体はあっという間にずぶ濡れになっていく。

 雨に濡れて物理的に頭が冷やされていくと、私は一体何をやっているんだろうと情けない気持ちが込み上げた。そして、やけにうれしそうな少女の横顔が、私の気持ちに追い打ちをかける。

 しばらく歩いたところで少女が足を止めた。

「ここがウチだよ」

 商店街の最も端に建つ三階建ての建物だった。一階部分は店舗になっているようだ。

 少女は躊躇することなく軽い足取りで店舗脇にある階段を上っていく。私は一歩ずつ踏みしめるようにして階段を上がった。

 階段の突き当たりにあるドアを開くと、少女は「ただいまー」と元気に言った。

 そしてそのまま玄関に靴を脱ぎ捨てて家の中にバタバタと入っていく。私はその玄関に立ち尽くし、わかりきっていた可能性を失念していたことにようやく気が付いた。

 少女が一人暮らしではないという可能性だ。いや、むしろその確率の方が高い。少女は私を飼う……もとい、泊めてくれると言ったけれど、ご家族は反対するかもしれない。むしろ反対しない方がおかしいだろう。

 夜間、娘が見ず知らずの、しかもずぶ濡れの女を連れて帰ってきたのだ。親御さんは当然驚くだろうし、下手をすれば私は不審者扱いされるかもしれない。

「ああ、おかえり。どうしたの? やけにご機嫌ね」

 少女の母親らしき人物の声がする。声から察するに、怖い感じはしない。泊まらせてもらうのは無理かもしれないけれど、少しスマホを充電させてもらおう。スマホが復活すれば今日の宿くらいはなんとかできるはずだ。

 私は親御さんにどう話をしようか考えながら、家の奥で繰り広げられる親子の会話に耳を澄ませた。

「ママ、犬を拾ったの。飼ってもいいでしょう?」

 思わず「ちょっと待った!」とツッコミの大声を上げてしまいそうになる。まさか本当に犬だというなんて思わなかった。

「動物は飼えないって言ってるでしょう。元の場所に戻してきなさい」

 なんだかよく聞く台詞だ。

 元の場所に戻すんじゃなくて、保護団体か動物病院に連絡して相談した方がいいよ、と心の中でアドバイスをしてから、いやいや連絡されたら困るじゃないと思い直して密やかにため息をつく。

「そんなのかわいそうだよ」

「かわいそうでもウチでは飼えないの」

「お願いママ、ちゃんと面倒みるから」

 少女は必死に食い下がっていた。この会話だけ聞いていると、日本中でよく繰り広げられている母と娘のやり取りそのものだ。ただし玄関にいるのが人間の女でなければ……。

「何を言ってもダメなものはダメ」

「どうしてダメなの?」

「犬は吠えるからご近所の迷惑になるでしょう」

「大人しいから大丈夫だよ。全然吠えないし」

 たしかに吠えないけれども、根本的なところが間違っている。少女が着ていた制服の高校は、それなりにレベルの高いところだったと思うのだけど、私の認識違いだろうか。それとも、最近の女子高生の間では擬人化ではなく擬犬化が流行っているのだろうか。

「ウチはお店をやってるからダメなの。それに面倒もちゃんとみられないでしょう」

「だから、面倒は私がちゃんとみるって言ってるじゃん」

「そう言ってもいつも口ばっかりじゃない。ご飯の仕度とか、片づけとか、やるって言っても三日も続かないでしょう」

「今度は絶対だから」

「ダメなものはダメ。もう、ママが返してきます」

 そうして二人分の足音が玄関のへと近づいてきた。

 私はどうすればいいのだろう。犬の真似でもするべきだろうか。いや、そんなことをしたら余計に母親から不審を買うような気がする。

 私が逡巡している間に母親の姿が現れた。

 こんな状況なのに、私はなぜか少女は母親似だったんだな、なんてことを考えていた。

「あ、えっと、はじめまして」

 私はひきつった笑みを浮かべて頭を下げた。

 母親は口をあんぐりと開けて立ち尽くしている。

 少女だけが弾けるような笑みを浮かべていた。

「ね、ママ、いい子でしょう? 飼ってもいいよね?」

 次の瞬間、母親のゲンコツが少女の頭に落ちた。

「いったー、虐待!」

「一体これはどういうことなの!」

 母親が怒るのも当然のことだ。

「だから、商店街に捨てられてた犬を拾って……」

「犬じゃないでしょう!」

 良かった。母親には私が犬には見えていないようだ。しかしここまで私を犬だと言い張る少女はすごいとしか言いようがない。

「犬になるって言ったもん!」

 少女の声に、母親がキッと私を見た。私が少女をたぶらかしていると思われているのかもしれない。

「あ、あの、道に迷って、行く当てもなくて……そうしたらお嬢さんが声を掛けてくれて……」

 私はなんとか誤解を解こうと思ったけれど、たどたどしい言葉しか出てこない。

 少女は母親の横で、まだしつこく「犬を飼うんだ」と駄々をこねていた。ちょっと黙っていてほしいと思ったのだけど、少女の幼稚な言動が逆に母親を冷静にさせたようだ。

「もしかして、娘が失礼なことを……?」

「い、いえ……困っていたので、声を掛けていただいて助かったんですけど……」

 私と母親の間には、なんとも言えない気まずい空気が流れる。

「ママ、飼ってもいいでしょう」

 諦めることも空気を読むこともしない少女が尚も訴え続けていた。

「いい加減にしなさい」

 たしなめる母親。

「お願いママ」

 諦めない少女。

「くしゅんっ」

 くしゃみをする私。

 狙ったわけではないけれど、そのくしゃみは、どうやら良いタイミングだったようだ。

「あっ、そのままだと風邪をひいてしまいますね。お風呂が沸いているのでよかったら温まってください」

「あ、でも……」

 すぐにでも飛びつきたい提案だったけれど、一応遠慮をしてみせる。

「うちの子が迷惑をかけたんですよね。すみません。とりあえず温まってから事情を教えていただけますか?」

 娘は非常識にも見知らぬ女を犬扱いするけれど、その母親はとても良識のある人のようだ。

 私はそんな良識のある母親の言葉をありがたく受け取ることにした。

「私がお風呂に入れてあげる!」

 少女はひとり、私たちとは違うテンションで叫ぶと私の腕を引っ張って家の中に導いた。

「あの、ひとりで入れるから」

「ヨシヨシ、大丈夫だよ。怖くないからね」

 少女はどうしても私を犬にしたいようだ。その場しのぎだったとはいえ、私は少女の申し出を受け入れた。それならば、このごっこ遊びに少しぐらい付き合ってあげたほうがいいのかもしれない。

 そんことを考えてしまったものだから、少女のゴリ押しを断れず、一緒にお風呂に入ることになった。

 少女は「お湯かけるよ」とか「髪を洗うからね」などと言いながら楽しそうに私の体を洗っていく。

 こうしてなすがままにされていると、ちょっと倒錯的な気分になってくる。

 体を洗い終えてから湯船に向かい合って浸かった。二人で入るには少し狭いけれど、少女は小柄な方だから窮屈すぎるということはない。

 少女は私の胸もとをジッと見ると、自分の胸もとに視線を移した。そこにはささやかな二つのふくらみがある。

「どうしたら大きくなるの?」

 犬に尋ねる質問ではない。少女の中の線引きがよくわからない。

「大人になってひどいストレスにさらされると胸が腫れるのよ」

「へー、そうなんだ……」

 少女が感心したように頷きながら言った。まさかこんな反応が返ってくるとは思わなかったので少し慌ててしまう。

「ちょっと、冗談だからね、信じないでよ」

「それくらいわかってるよ」

 今度は平然とした顔で言う少女。なんだかこの少女に振り回されてばかりいる。

 お風呂を出てからも少女の世話は続き、体を拭いて髪を乾かすところまでやってくれた。

 もしかしたら王国のお姫様はこんな感じなのかもしれない。犬ではなくお姫様になったつもりで接すれば、ちょっとは気分が良くなるかもしれない。

 すっかり落ち着いたところでようやく母親に事情を説明することになった。

 リビングに通された私は、ソファーに母親と向かい合って座る。少女は母親に首根っこを掴まれて、母親の隣に座らされていた。

「あの、こんな風に突然押しかけてしまってすみませんでした」

「いえ、こちらこそ娘がすみません」

 どことなく気まずい空気を孕んだまま話を進める。

「えっと、お名前をお伺いしても?」

 母親の問いに私が答えようとしたとき、少女が「ポチ!」と元気よく答えた。そしてやっぱり母親からゲンコツを落とされる。

 少女は頭を押さえながらサッと立ち上がって私の隣に座り直した。

「久喜碧依(くきあおい)です」

「絶対ポチの方がかわいいのに」

 少女はそう言って唇を尖らせる。

「碧依さんね、私は広瀬翡翠(ひろせひすい)です。娘は琥珀(こはく)と言います」

 それからようやく私はここに来た事情の説明をはじめた。もちろん、同棲中の彼氏が浮気をしている現場を目撃して修羅場になったなんて生臭いことは伝えず、やんわりとした内容に変えている。

 説明を終えると、翡翠さんは快く私を泊めてくれると言ってくれた。

「ありがとうございます。でも、旦那さんは大丈夫ですか?」

 先ほどから琥珀の父親の姿が見えない。玄関に男物の靴があるのを見たからシングルマザーではないように思った。

「今は単身赴任中でいないから気にしなくて大丈夫ですよ」

「そうですか」

 なんだかホッとした。琥珀との犬だなんだというやり取りを、父親の前でもう一度繰り広げる必要はなさそうだ。

「色々事情があるみたいですし、落ち着くまでウチにいてくださって構いませんから」

「助かります。本当にありがとうございます」

 明日にでも出て行くつもりだけど、そう言ってもらえることがうれしい。

「やった、ポチ、よかったね」

 だけど私よりも喜んでいるのは琥珀のようで、私の頭を抱えてガシガシと撫でた。

 必然的に私の頬は琥珀の胸もとにうずめられる形になる。ふわりとほの甘い香が鼻腔をくすぐった。

 女子高生とはこんなにもやわらかくていい匂いがするものなのだろうか。

 一緒にお風呂に入ったからか、犬扱いをされながらそんなことを考える心の余裕ができていた。

 ある程度の犬扱いに、不本意にも慣れてきた私だけれど、どうしても譲れない一線はある。

 私はしつこく頭を撫でまわしている琥珀を引き剥がした。

「あのね、琥珀ちゃん」

「呼び捨てでいいよ。ちゃん付けは子どもみたいだからイヤ」

 十分に子どもだと思うのだけど、ここは相手の要望を受け入れる寛大な大人の姿勢を示しておく。

「わかった。琥珀。私の名前は『碧依』。『ポチ』じゃなくて『碧依』だよ」

「えー、ポチの方がかわいくない?」

「碧依」

 これだけは絶対に譲れない。だけど琥珀は納得できないといった様子で頬を膨らませた。そもそも『ポチ』というネーミングセンスはいかがなものかと思う。

「さぁ、もう遅いから寝ましょう。碧依さんにお布団を用意しますね」

 一通りの話を終えたとき、翡翠さんが立ちあがって言った。すると名前の件で拗ねていた琥珀の顔がパッと明るくなった。

「ポチ、一緒に寝よう」

 琥珀まだ私を『ポチ』と呼ぶつもりのようだ。本当に頑固というかなんというか。

 私が黙っていると「一緒に寝る」という方を拒否されていると思ったのか「ね、一緒に寝ようよ」と腕を引っ張った。

 おそらくペットと一緒に眠るという憧れを叶えたいのだろう。

 それを止めたのは翡翠さんだった。

「琥珀、やめなさい」

 翡翠さんの厳しい声に、琥珀の動きが止まる。

「犬は新しい環境に慣れるまで時間がかかるの。あまり構いすぎるとストレスになるのよ。一人でゆっくり眠らせてあげなさい」

 確かに一人でゆっくりと眠りたい。眠るときまで琥珀に構われ続けるのはちょっと辛い。だけど今は、翡翠さんにまで犬扱いをされたことの方がショックだった。

 しかし翡翠さんの言葉は効果てきめんだったようで、琥珀は素直に受け入れて一人で自分の部屋に行ってくれた。

 広瀬家は一階が店舗、二階にキッチンやリビング、三階が各自の部屋となっている。

 翡翠さんは三階にある小さな書斎を私の部屋に充てて、布団を敷いてくれた。

 翡翠さんに改めて「ありがとうございます」とお礼を言うと、翡翠さんは心底申し訳なさそうに「バカな子ですみません」と謝罪した。

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