3.そして私は飼い犬になる
「朝だよ」
そんな声とともに体を激しく揺らされて、私は渋々目を開けた。
白い天井。右側には天井まで届く本棚が見える。見慣れない部屋の景色に、一瞬ここがどこなのかわからなかった。
だけど、目をキラキラと輝かせて私の顔を覗き込んでいる琥珀の顔を見て昨日の出来事を思い出した。
彼氏に浮気されて家を飛び出し、怒りに任せてがむしゃらに歩き回ったら迷子になり、雨の中途方に暮れていたところで琥珀と出会った。
思い出したらなんだか気持ちが重たくなってきたけれど、体は随分軽くなったような気がする。一人でこんなにグッスリと眠ったのは久しぶりだ。
彼にあんな仕打ちを受けたのだから、色々な感情が押し寄せて眠るどころではないはずなのに、今の今まで忘れていた。
琥珀に犬として拾われたことのインパクトの方が強かったからかもしれない。犬扱いはゴメンだけど、安らげる寝床を提供してくれて、嫌な出来事を忘れさせてくれたことに感謝しよう。
「ねぇ、ポチ。起きて。朝の散歩に行こう」
琥珀はしつこく私の体を揺らしながら起きるように催促する。今日も犬扱いは続くらしい。
ようやく充電できたスマホに手を伸ばして時間を確認すると、まだ五時を回ったばかりだった。
私は琥珀の声を無視して再び布団に潜り込む。
「ポチ、ポチ、起きて。散歩の時間だよ」
諦めない琥珀に私は仕方なくのっそりと体を起こした。
「あ、起きた。ポチ、散歩に行くよ」
私はうれしそうに笑う琥珀の顔を真顔で見る。
「どうしたの? ポチ」
「私はポチじゃない。だから散歩にもいかない」
それだけ宣言して私は再び布団の中に潜り込もうと体をよじる。すると琥珀がキュッと私の袖をつかんだ。
そして少し迷うように目を彷徨わせてから、上目遣いで私を見て「あ、碧依、散歩に行こう」と言う。
私は唇をキュッと引き締めた。琥珀の表情と仕草に、思わず頬が緩みそうになってしまったからだ。それになんだか胸の辺りがキュンと鳴った気もする。女子高生のかわいらしさはこんなにも攻撃力の高いものだっただろうか。
「ねぇ、碧依……」
「あー、わかった、わかった」
私は琥珀に動揺が伝わらないように、不承不承を装ってつぶやきながら顔をそむけた。
キャリーケースから洗顔料を取り出して顔を洗いに行き、部屋に戻って床の上に化粧品を並べる。その間、琥珀の方が犬のように私の後をちょこちょことついてきた。そんな様子がちょっとかわいいと思ってしまう。
「ねぇ、碧依、なにしてるの?」
私の背後に立つ琥珀が聞いた。
「なにって、見ればわかるでしょう。化粧よ」
そう答えながら私は顔に化粧水をはたきつけていく。
「どうして?」
「すっぴんで外を歩き回れるはずないでしょう」
答えた瞬間、嫌なことを思い出した。仕事で疲弊した休日、私が化粧もせずに家でグダグダしていた日だ。料理を作る気にもなれず、コンビニで何か買ってこようという話になった。そのとき彼が「化粧しなくていいの?」と聞いた。「疲れてるだろうから、家の中では百歩譲ってノーメークでも仕方ないけど、外に出るときくらいは化粧するべきじゃないか?」さも正論のように言う彼にひどく苛立った。けれど私は「そうだね」と言って化粧をしたのだ。それから休日でも極力化粧をするようになった。
思い出したらなんだかムカムカしてきた。別に化粧が嫌なわけではない。確かにすっぴんを他人に晒すなんて恥ずかしい。だけど化粧もせずのびのびと過ごしたい日だってあるのだ。
「碧依は化粧をしなくてもかわいいよ?」
琥珀は私の顔を覗き込みながら言う。かわいいなんて言われ慣れていないから少し照れた。
「いや、でもこの年で……」
「大丈夫だよ。碧依はかわいいし、朝早いからそんなに人に会うわけじゃないし」
彼ならば絶対に言わない言葉だ。もしも元同僚の女性たちに「すっぴんでもかわいい」と言われても、嫌味か嘘かと疑っただろう。
だけど琥珀の言葉はストンと胸の奥に落ちてきた。それは『犬』に対する言葉かもしれないけれど、嘘でもお世辞でも嫌味でもなく、琥珀が本当にそう感じているのだと思うとうれしくなる。
「そ、そうね。じゃぁ日焼け止めだけにしようかな」
「うん」
私は日焼け止めクリームを塗りながら琥珀に尋ねる。
「琥珀は化粧してないよね?」
「うん」
「化粧に興味はないの? 琥珀くらいの年齢なら、化粧をしてる子も多いでしょう?」
「うちの学校厳しいから。それでも化粧をしてる子はいるけど……」
「お休みの日にでも、少し化粧の仕方を教えてあげようか?」
「うん! 教えてほしい!」
琥珀はパッと笑顔を咲かせる。化粧をする必要がないくらい琥珀はかわいいと思うけれど、化粧をして少し大人っぽくなった琥珀はもっと魅力的になるだろう。
なんだか私もわくわくしてきた。
こんな会話をしていると、妹でもできたような気分になる。
「今、日焼け止めも塗ってないの?」
「うん」
「日焼け止めくらいは塗りなさい」
「でももう秋だし……」
「紫外線を舐めちゃダメ。ほら、塗ってあげるから」
私はそう言うと手のひらに日焼け止めクリームを垂らす。琥珀は素直に顔を突き出して目を閉じた。
私は琥珀の顔にクリームを延ばしていく。肌の滑らかさとクリームの伸びの良さにびっくりした。
自分の肌との違いにショックを受けたのだけれど、その肌触りが気持ちよくていつまでも触っていたいような気持になる。
「碧依、まだ?」
と琥珀に尋ねられるまでクリームを塗り込み続けてしまった。
「お、終わった。もう大丈夫」
琥珀はパッと目を開けてうれしそうに笑った。
「それじゃあ、ポ……じゃない、碧依、行こう!」
そう琥珀に促されて私は散歩に出かけた。
外は昨夜の雨が嘘のように晴れていた。白んだ空には雲ひとつない。
ぼんやりと空を見上げながら歩いていると「碧依、早く」と琥珀が催促する。少し足を速めて、先に逝っていた琥珀に追いつくと、琥珀はサッと私の手を取る。
「リードがあればいいんだけど、代わりに手を繋ごう」
琥珀は少し頬を赤くしていたずらっ子のような笑みをうかべた。
リードがなくてよかった。リードを付けて商店街を歩き回ることになったら、本当にやばい人になってしまう。
それでも早朝に女子高生と手を繋いで散歩をするのは、正しい大人の姿なのだろうかと疑念を持たざるを得ない。
まぁ、無職の宿無しという時点ですでに正しい大人の姿からは外れているのかもしれない。そう考えると、私なんて犬扱いが丁度いいような気もしてきた。
「散歩、楽しいね」
琥珀は水たまりを跳ねるように避ける。そんな姿は私よりもよっぽど犬っぽい。
私は犬のようにはしゃぐ琥珀を眺めながら、なぜそんなにも犬にこだわるのだろうかと考えていた。
ずっと犬を飼いたかったと琥珀は語った。だけど本当にそれだけで得体のしれない女を拾うだろうか。
私の見た目は犬っぽいとは言えないと思う。ごく平凡な人間の女にしか見えないはずだ。多分。
確かに昨日は商店の軒下でうずくまって泣いていたけれど、だからといって犬に見えるはずもない。
私のことを頑なに犬扱いする姿は、アホっぽいというか無邪気で子どもっぽいというか、そんな感じだけれど、もしかしたら琥珀なりに何か理由があるのかもしれない。
三十分ほどの散歩を終えて家に帰ると、翡翠さんが朝食の準備をしていた。私は慌てて翡翠さんの手伝いをする。
琥珀はゆったりした様子で学校に行く準備をはじめた。
テーブルに並べられた朝食は、ご飯にお味噌汁、おひたしと玉子焼き。豪華ではないけれど、それがむしろ心に染みわたるような温かい朝食だった。こんなにゆっくりとちゃんとした朝食をとるのは本当に久しぶりだ。
朝食を終えると琥珀は鞄を持って玄関に向かう。私は犬のように玄関まで見送った。
琥珀は靴を履くと振り返って背伸びをして手を伸ばした。私は少し考えてから体をかがめる。すると琥珀は私の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「すぐ帰ってくるからね、いい子で待っててね」
そう言う琥珀は本当に楽しそうだ。私の髪をボサボサにして満足したのか、琥珀は元気よく家を出て行った。
こうして琥珀に犬扱いされるのもこれが最後になるだろうから、ちょっとしたサービスのつもりだった。
私がリビングに戻ると翡翠さんがお茶を用意してくれていた。翡翠さんの向かいの席に座り、私はお茶をありがたくいただく。
「昨夜は本当にありがとうございました」
私は改めてお礼を伝えた。翡翠さんは「いえいえ」とやわらかな笑みを浮かべる。
「こちらこそ琥珀のわがままに付き合っていただいてありがとうございました。あんなに楽しそうな琥珀を見るのは久しぶりです」
「そうなんですか?」
翡翠さんは曖昧な笑みを浮かべる。私が知る琥珀は、無邪気に私を犬扱いする琥珀だけだ。普段からあんな感じなのかと思っていたけれどそうではないらしい。
そういえば私に声を掛けてくれたときの琥珀は、もっと表情が乏しくて何を考えているのかわからない感じだった気がする。だけどあのときの私は自分のことに精一杯で琥珀の様子をしっかりと観察する余裕がなかった。
「それで、碧依さんはこれからどうされるんですか?」
「一旦どこかに安い宿を探して、それから部屋探しをするつもりです」
「家には帰らないんですか?」
私は少し考えてから口を開く。
「実は一緒に住んでいた彼が浮気をして……その相手を家に連れ込んでたんす。夕べは琥珀がいたから詳しくお話しませんでしたけど……」
「それは……」
「今は彼と顔を合わせたくないですし、彼とやり直すつもりもありません」
私はきっぱりと言う。
「それなら、しばらくこの家にいてくれませんか?」
そんな提案をされるとは思っていなかった。得体のしれない女を一泊させるだけでもかなり寛大だと思うのに、この家に居続けていいと言うなんてお人よし過ぎる。
私は広瀬家に害を及ぼすつもりはないし、身分を証明できるものを出せと言われたら出すことができる。だけど翡翠さんの立場からすれば、こんな女を家に置いておくのは不安なはずだ。
私としてはありがたいことだけど、どうして翡翠さんがそんな提案をするのかが気にかかる。
「いえ、でもご迷惑でしょうし……」
「迷惑だなんて、むしろ助かります」
「助かる?」
「あの子、近頃ずっとふさぎ込んでいたんです。それとなく理由を尋ねてみたんですけど何も話してくれなくて……」
「琥珀が?」
「難しい年ごろですし、あまり無理強いをしない方がいいと思って、あの子から話してくれるのを待っていたんですけど……。だけど昨日は見違えるように楽しそうに笑っていて、本当にホッとしたんです。碧依さんにとても懐いているので、碧依さんがいなくなるときっとまた元に戻ってしまうんじゃないかと……」
「そういうことですか……」
翡翠さんが琥珀を心から心配していることはよくわかった。
「碧依さんの状況を利用するみたいで申し訳ないんですけど、琥珀が落ち着くまでウチにいていただけませんか?」
「それは、引き続き犬として?」
「え? あ……」
翡翠さんが頬を引きつらせて笑みを浮かべる。私も思わず苦笑してしまった。
翡翠さんが引き止める理由もわかったし、私も泊めてもらえるのはありがたい。犬として、というところが少々引っかかるのだけれど、翡翠さんの話を聞く限り、琥珀が犬に固執して私の世話を焼きたがるのにも、やはり何かの理由がありそうだ。
行き場のなかった私に手を差し伸べてくれた琥珀に恩返しをするのだと考えればそんなに悪いことでもないような気がしてきた。
「それではお言葉に甘えて、もう少しの間ご厄介になってもいいでしょうか」
「はい、もちろん。ありがとうございます」
翡翠さんは心底ホッとしたような笑みを浮かべた。それほどまでに琥珀はずっと暗い顔をして日々を過ごしていたということだろう。
「あの、それでお家賃のことなんですけど……」
いくら双方の利害が一致しているとはいえ、大人としてはっきりさせておかなくてはいけない。ただ飯ぐらいの居候になったら、それこそ犬扱いだ。
「犬になっていただくので家賃なんて……」
そう口走った翡翠さんは、パッと口を押えた。完全に犬なんだなと思うと、提案を受けたことが正しかったのか疑問に思えてくる。
「いえ、そういうわけにはいきませんから」
少しげんなりしながら私が言うと、翡翠さんは少し考える仕草を見せた。
「あの、お仕事も探していらっしゃるんでしたよね?」
「はい。でも住む場所が決まらないと仕事も探せないので、それはもう少し先になりますけど」
「それなら、ウチの店でアルバイトをしませんか?」
「アルバイト?」
詳しく話を聞いたところによると、翡翠さんは一階で喫茶店を経営していて、ちょうどアルバイトを募集していたらしい。
私は、翡翠さんの店でアルバイトをして、その賃金から宿泊費(というにはかなり安い食費程度の金額)を天引きしてもらうことになった。
提示された宿泊費はホテルに泊まるよりもずっと安い金額だから、少々申し訳ない気持ちもあるけれど、翡翠さんとしては私を犬扱いすることへの慰謝料的な意味合いもあるのだろう。
宿泊費を抑えられた上に快適な寝床とおいしい食事が付く。さらにアルバイトをして当座のお金を稼ぐことができる。犬扱いさえ我慢すれば、私にとってはこれ以上ないくらいの好条件だ。
こうして私と翡翠さんの契約は成立して、私は正式に広瀬家の犬となった。
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