女子高生に拾われる話。

悠生ゆう

1.そして私は途方に暮れた

 最悪だ。

 会社を退職したのは一週間前。

 辞めたことを後悔してはいない。

 上司のセクハラもパワハラも無茶苦茶な残業も、もう耐えられないところまで来ていた。辞めなければ体を壊すか心を壊すか二つにひとつだったと思う。

 だけど次の仕事のあてもない状態で辞めてしまったことは失敗だったと思う。

 仕事ばかりしていて給料を使う暇もなかったから、それなりに貯金はあるけれど、先が見えない状態は不安だった。

 だから私は一日でも早く新しい仕事を見つけたいと焦っていた。

 どうしてあんなに焦っていたのだろう。やっとあの地獄のような会社を辞められたのだから、次の仕事の心配なんてしないで、のんびりと心身を癒すくらいの気持ちで良かったのだ。

 そんなことにも気付かないくらい、あの会社に毒されていたということかもしれない。

 そもそも、もっと早く会社を辞めていたら、彼に浮気されることもなく、こんな風に見知らぬ街で途方に暮れることもなかったはずだ。

 彼との同棲をはじめたのは半年程前だった。仕事で疲弊している私を見て、彼が「一緒に住まないか?」と言った。戸惑いの気持ちもあったけれど、あのときは確かにうれしかった。

「ほら、デートしててもなんか疲れてるみたいだしさ、一緒に住めば毎日デートみたいなものだろう? それにオレだって色々手伝えると思うし」

 その提案は素敵なもののように思えた。彼のやさしさを感じて心が動いた。だから迷いながらも私はそれを承諾した。

 一緒に暮らして一番よかったことは、彼の都合に合わせて眠たい目をこすり、重い体を引きずってデートに出掛けなくてもよくなったことだ。

 好きな人と一緒に暮らせば、毎日がウキウキと楽しいものだと思っていたけれど、そんな気持ちになれたのは最初の一週間くらいのものだった。

 最初に彼が言った「手伝える」の認識が違うのだと気が付くのにそれほど長い時間はかからなかった。

 私はほぼ毎日が残業だ。それでも帰宅して二人分の夕食を作る。日付が変わるころに帰宅する日は、彼が「無理しなくていいよ」なんて労いの言葉をくれるけれど、食事を用意してくれることはなかった。

 たまには料理を作ってよと言ったこともある。それに対する答えは「オレが作るより買ってきた方が美味いだろう?」だった。合理的と言えば合理的なのかもしれない。

 休日には「洗濯しておいたから、今日はゆっくりしたら」と彼はひとりで外出する。彼の言う「洗濯」は洋服を洗濯機に放り込んでボタンを押すところで終了していた。結局、干すのも畳むのも私の役目だ。それに家事は洗濯だけではない。平日にできない家事をこなしているうちに、結局休日は消費されていく。

 それでも彼は「手伝って」いるつもりなのだ。

 一緒に暮らすようになってから、ひとりで暮らしていた頃よりも疲労が蓄積していた。イライラすることが多くなり、ちょっとした彼の言動にも腹が立つ。ときには大声で怒鳴り散らした。「そんなにヒステリックになるなよ」と困ったような笑みを浮かべる彼の顔に余計に腹がたった。

 そうしてイライラをぶつける自分自身も嫌で、彼と会話をすることを避けるようになったのだ。

 だけどストレスの一番の原因だった会社を辞めたから、彼との関係も改善できると思っていた。

 二人でおしゃべりをしながら夕食を食べて、休日には映画を見に出掛ける。そんな日が来ると思っていた。仕事のストレスが無くなれば、もっと寛大な気持ちで彼の言動を受け入れられると思った。

 だけどそうはならなかった。

 会社を辞めた翌日から私は職業安定初に通いはじめた。ネットでの職探しもはじめた。

 今度はあんなブラックな会社ではなく、人間らしい生活ができる会社に入りたい。そう思って必死で探していたけれど、どの求人情報を見ても、内部は真っ黒なんじゃないかと疑う気持ちが浮かんでしまう。

 だから求人情報を見てピックアップした会社の所在地まで足を運び、実際はどんな会社なのか観察までしていた。

 あの会社を辞めても尚、私は毎日忙しく動き回ることでしか気持ちを落ち着けることができなかったのだ。

 仕事が見つからない焦りと、毎日歩きまわった疲れがピークに達したことを感じ、私はようやく少し休もうという気持ちになった。

 だから今日は、いつものように出掛けたけれど、随分早い時間に家に帰ったのだ。

 そうして疲れを癒すために帰った家で私が目にしたのは、私たちのベッドに横たわる彼と見知らぬ裸の女だった。

 頭に血が上り、その後の行動はよく覚えていない。

 女を家から追い出して、彼と激しい口論をしたような記憶がぼんやりとある。

 そして、もう一瞬でも彼と同じ空間にいたくないと、キャリーバッグに荷物を詰め込んであの家を飛び出したのだ。

 もしかしたらここが最大の失敗だったのかもしれない。

 私が家を飛び出すのではなく、彼を家から追い出すべきだった。家賃の半分は私が支払っていた。だから私にも住む権利はある。

 堂々と浮気をした彼があの家でぬくぬくと過ごし、私が行く当てもなく彷徨うなんておかしい。

 とはいえ今更あそこに戻る気になんてなれなかった。

 実家は遠いし、帰ったとしても突然の帰郷にあれこれ詮索されるだけだ。仕事に追われて友だちとの付き合いをおろそかにしていたから、気軽に泊めてくれるような人もいない。それでも頼み込めば一泊くらいはなんとなかったかもしれないけれど、残念ながらスマホの充電はゼロになっていた。

 適当に電車に飛び乗り、適当に歩き回っていたから、今ここがどこなのかもよく分かっていない。スマホがあればすぐに場所を特定できるのだろうが、そのスマホが使えないのだ。

 そして日がすっかり暮れた今、私は見知らぬ商店街のシャッターが閉まった店の前に佇んでいる。

 商店街に並ぶ店は閉店している時間だし、近くに漫画喫茶やビジネスホテルも見当たらない。スマホが使えればすぐに検索できるのに、本当に踏んだり蹴ったりだ。

 もう体はクタクタで一歩も歩きたくない。さらに途方に暮れる私をあざ笑うかのように、空からポツリポツリと雨粒が落ちてきた。

 雨足は次第に強くなっていく。

 私は店の軒下でしゃがみこんだ。

 一体私の何がいけなかったのだろう。

 仕事のストレスで彼に当たり散らしたのがいけないのだろうか。気付かなかっただけで、彼はきっとずっと前から浮気をしていたのだと思う。

 もっと普通の仕事だったら、彼が浮気をすることもなく今もあの家で過ごせていたのだろうか。

 確かに私にも悪いところはあったと思う。だけどだからと言って浮気をしてもいいなんてことにはならないはずだ。だったら最初から一緒に暮らそうなんて言わなければいいのに。

 悔しい。悲しい。情けない。切ない。苦しい。怖い。つらい。一度に色々な気持ちが溢れてきて、涙がポロポロと零れ落ちた。

「なにしてるの?」

 唐突に頭の上から声が降る。

 涙でグチャグチャになった顔を上げると、そこには少しあどけない顔を少女が立っていた。

 私でも知っているちょっと有名な女子高の制服を着た少女は、右手で傘を差し、背中に大きなリュックを背負っていた。なんだかアンバランスな姿に見えて、家出少女かもしれないと思った。

 今の私には家出少女の面倒を見る余裕はない。

 少女から視線を外して俯き、手の甲で涙を拭いていると少女が再び問いかけた。

「ねえ、なにしてるの?」

 こんなときに家出少女に絡まれるなんて本当に最悪だ。

 私は無視を決め込んでいたのだけど、少女は立ち去る様子もなく、私の顔を覗き込むように腰をかがめた。

「こんなところでなにしてるの?」

「しつこいわね」

「ねぇ、なにしてるの?」

「うるさい、どっか行ってよ!」

 私は威嚇するように低く鋭い声で言った。いつの間にか涙も止まっている。

「捨てられたの?」

 少女は首を少し傾けて静かにそう問いかけた。

 捨てられた。その言葉は今の私にぴったりすぎて、止まったはずの涙が再び零れ落ちてしまう。

 すると少女の手がそっと私の頭に触れた。その小さな手でやさしくゆっくりと髪を撫でる。その温もりがなんだかとても心に染みて、さらに涙があふれ出した。

「そっか、捨てられたんだね」

 少女はそう言いながら、何度も何度も頭を撫でてくれた。傍から見ればおかしな姿だっただろう。

 そうしてしばらく頭を撫でてくれた少女はやさしい声で言った。

「私の犬になるなら、拾ってあげる」

 私の聞き間違いなのかと思って、少女を見上げて首を傾げる。

「私の犬になるなら、拾ってあげる」

 少女はまったく同じ言葉を繰り返す。どうやら聞き間違いではなかったようだ。

「はぁ?」

 私はそんな言葉しか返せない。人生の中で女子高生に「犬になれ」と言われることなんてあるだろうか。いや、あるはずがない。驚きのあまり涙も完全に止まった。

「だから、私の犬になるなら拾ってあげるって言ってるの。意味が理解できない?」

 少女の視線にどことなく私を見下すような色が浮かんだように見えた。

「馬鹿にしてるの?」

「違う。提案してるだけ」

「そんな提案、受けるはずがないでしょう」

「いやなの?」

「いいはずないでしょう」

 私はきっぱりと言い放つ。すると少女は少し残念そうに息を付くと、そのまま体の向きを変えた。

 そして少女が私に背を向けて一歩足を進めようとした瞬間、私は体を伸ばして少女の腕を掴んでしまった。

 少女は足を止めて振り返る。

「なんですか?」

 先ほどまでとは打って変わって少女は冷たい口調になっていた。

 冷静になろう。

 スマホが使えない。ここがどこだかもわからない。近くに泊る場所もない。雨まで降っている。日も暮れて商店街に人影もない。そして話しかけてくれたのはこの少女だけだ。

 このまま少女が行ってしまったら、私はこの軒下で野宿することになるだろう。まだ寒くて凍えるような季節ではないけれど、快適でないのは間違いない。

「えっと、念のために、どうして犬なのか、聞いてもいい?」

 私はできるだけ静かな声で少女に問う。

「小さなころから犬を飼うのが夢だったの。だけど親がダメだって……」

 少女は幼い頃からの夢に思いを馳せているのか、少し悲しそうな顔で続けた。

「雨の中で捨てられた仔犬を見つけたら、絶対に拾ってあげようって思ってたの。仔犬じゃないけど、この際、まぁいいかなって」

 妙な性癖ではなさそうだし、犬を飼いたいというのも、ごく一般的なかわいらしい憧れだ。だけど、特に最後の方の言葉がひっかかる。

「ねぇ、どうするの? 犬になるの? ならないの?」

「うぅぅぅ……」

「犬にならないなら、手を離してくれない?」

「うぅぅ……」

 こうして唸っていると、本当に犬になったような気分になってしまう。

 こんな屈辱的な提案があるだろうか。十歳近く年下の少女に犬になれと言われているのだ。だが、この提案を蹴れば野宿が決定する。

 屈辱的ではあるのだけれど野宿はもっと嫌だ。

「な……」

「な?」

「なり、ます」

 振り絞るように私が言うと、少女はパッと明るい笑みを浮かべた。そして私の頭をガシガシと乱暴に撫でる。

「いい子ね。あっ、そうだ、名前を付けなきゃ。名前は……そうだなぁ、ポチにしよう」

「え?」

「おいで、ポチ」

 そう言うと少女は私の手をグッと引いて立ち上がらせた。

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