第2話 PR01 東京駅


その少女の祝詞奏上ことばは、雑踏と喧騒にかき消され、誰の耳にも届いていなかった。

もとより誰かに向かって発せられた言葉でもない独り言のたぐい。

…詠唱…


8月も後半の東京駅。

JR在来線の構内は、夏休みで浮かれている学生たちや家族連れ、ノーネクタイのワイシャツ姿で額に汗を流すリーマンたちで、一層の混雑ぶりを見せていた。


少女は、そんな雑多な人波に迷い込んだ蝶のようにヒラヒラと、左右に軽やかなステップを踏みながら、人と人の波間を一陣の春風のように通り抜けていく。

……急がなきゃ!

何かにき立てられるように、少女はさらに足の運びを早めていった。

「……諸々もろもろ禍事まがつごと、罪、けがれ有らむをば……

はらたまひ清め給へと……」


変わらずに、呪文のような詠唱をぶつぶつと呟く少女の表情は険しかった。


その日は、中学校の補習も午前中で終わったので、お昼過ぎからは、神奈川県に住む友達と横浜元町駅で待ち合わせの予定だった。

そのまま二人で中華街を散策し、美味しいものを思う存分に楽しもうと算段していた。

だって夏休みだ。


ところが……

電車の乗り換えで東京駅の構内に入った途端に、禍々まがまがしい邪気を感じとって、それまで頭の中で妄想していたホカホカの肉まんやマンゴーかき氷は一気に吹き飛んだ。

ただ、少女の険しい面持ちの理由は、そんな夏休みの楽しいひと時に水を差されたから、ではなかった。


……こんなに人の多いところで…

マズイ……


少女の名は、神薙かむなぎ舞子まいこ

東京下町で生まれ育った14歳の中学2年生。

東京の地霊脈の御加護を受け、鬼魔衆きまのすと呼ばれる怪異を浄化する特殊な能力を有する、“御子みこ”である。

肩下まである黒髪は、暑いので後ろにわえてある。

大人しそうで可憐な容姿に似合わず、性格は、小粋な江戸っ子で。その華奢な体躯から似合わぬ食いしん坊であったりもする。


「……つむぎ、祓い給えと……」

詠唱の最後の部分を残して、舞子は、縦横無尽に行き交う人々の真っ只中で、突然に行き足を止めた。


後ろからぶつかりそうになった汗だくのリーマンが、邪魔だな、とでも言わんばかりに舌打ちをし、舞子の肩をかすめ、歩き抜けて行く。

そんなことは、まるで意に介さない舞子だったのだが、焦燥を浮かべてキョロキョロと頭を左右に振る。


……近い……けど……


邪気にかなり近づいてきた。

しかし、迷路のようで幾層にも重なる駅構内と、雑多な人々の思念が入り乱れる中で、正確な方向が曖昧になったらしかった。

顳顬こめかみに汗が、ッー…と流れる。

はぁ…はぁ…と呼吸を整えながら、舞子は、困惑の瞳で天井を仰ぎ見る。


「……虎次郎…ね?どっちかな?…分かる?」


選ばれた御子にだけえるという神使獣しんしじゅうに向けた言葉だった。


神使獣。

舞子の瞳に、その姿は白虎を太らせたぬいぐるみのように映っているらしい。

舞子は、その使いを、虎次郎、と呼ぶ。

別に、なんとなく。


ある日唐突に現れる神使獣に、少女たちは、こう告げられる。

今から授ける特殊な能力を持って“御子”となり、鬼魔衆きまのすという穢れたモノ、人の世に害をもたらすモノを祓い、浄化し、大切なものを守りなさい、と。


もちろん舞子は、そんな突拍子もない出来事と神使獣の話に戸惑った。

だって、ふわふわと浮いている白いデブ虎の声が聞こえてくるのだ。最初は自分の頭がおかしくなってしまい、これは幻聴で、幻覚が見えているのだ、と思っていた。


数日間、神使獣にストーカーのように付きまとわれ。

その存在に慣れてきた頃になると、そんなことがわたしにできる訳がない、と思い始めた。

キマノスだか何だか知らないけど、そんな存在するいるかどうか分からない得体の知れないモノ。

そして……

どうしてわたしなの?…とも。


切っ掛けは直ぐに訪れた。

新体操部の練習から帰宅途中の夜道で、初めて鬼魔衆キマノスなるモノと出くわした。

…何…?……これ…?

その身丈は優に二階建てほどもある人型に雄牛顔の物の怪ミノタウルスで。そのかたわらにはスーツ姿のおじさんがひとり、倒れ伏せていた。

アスファルトに広がる血溜まりにすくみ、助けを呼ぼうにも、周りには人影すらない。

そもそも悲鳴すら上げられないほどの恐怖に、ガチガチと奥歯が震えているのだから、どうしようもない。

雄牛の物の怪は、その毛むくじゃらの剛腕に鋭い鉤爪を生やしている。

殺気満々のようで。舞子には、どう見てもあれで八つ裂きにされる未来しか思い浮かばなかった。

あのおじさんと同じように…


「…ぐぅ……に……逃げろ……」

そのおじさんがまだ生きていることに驚く。

どころか瀕死の状態で舞子の身を案じてくれているのだ。

…助けなきゃ……

どうしてそう思えたのか、舞子自身にも不思議だった。と同時に、何故か沸々と怒りが込み上げてきた。キッ…と唇を引き結び、震える膝で異形のデカブツをめつける。


「…と……虎次郎……“御子”やるわ…ど…どうすればいいの?」


…と、いきなり。舞子の頭上でふわふわと浮いていたデブ虎が、こうまばゆく光るのを見た。

そのまぶしさに双眸そうぼうすがめる。

……きゃ…!…何!?…

辺りに暗さと静けさが戻った時に、舞子は雄牛の物の怪が間合いを詰めて来ているのを知る。

その赤黒い、禍々しい獣眼が舞子の頭上にあり。

…!!殺される……

もう駄目だと悟った。

ただ反射的に、その刃鋭い鉤爪が振り下ろされるのを、両の腕を上げて防ごうとしていた。

いつの間にか、自分がその手に何かを握っているとも知らずに。

ギン…!!…と鈍音が響き、その重みと衝撃に、グッ…ゥ…と歯嚙む。

ズン…と足元のアスファルトが沈んだ。


…うそ……信じられない……

何か棒のような物で、振り下ろされた鉤爪を受け切ったらしい。


舞子は、自身が何をしているのか全く理解できていなかった。

ただ無我夢中で、手にしていた棒のようなモノを、雄牛の怪異に向けて突き出していた。

その棒は、双頭ダブルエッジランスだった。

その切っ先が、雄牛の怪異の喉奥の骨肉らしきを、ズッ…!と突き通した感触を、舞子は、未だに覚えている。


雄牛顔の怪物はもう倒れていた。

まるで崩れる炭塵のように、その形が瓦解していくさまを唖然と見下ろしていたが。

それが自分がやった事だとは到底信じ難かった。

…はぁ…はぁ…はぁ…

胸奥が焼けるように呼吸が苦しい。

それでもふらふらと、倒れているおじさんに歩み寄る。

まだ息があるのは、見て分かった。

ただ、出血が酷い。

救急車呼ばなきゃ…と思いながら、おじさんの傍らで膝を落とし、無意識に手をかざしていた。

その手をまとうように、ボォ…とほのかな光がともり、舞子は驚く。

どうしてか知っている。この光に治癒の力があることを。

スゥ…と息を整え、祈るように集中する。


「……グッ…ゥ…き…君は…?…」


「…喋らないで下さい……治ります……たぶん…」

舞子にも確信はない。が、そう思えた。

ゼー…ゼー…と息の荒かったおじさんの呼吸が、眠るように穏やかになっていく。

そうしていると、ガヤガヤと幾人かの大人たちが寄り集まってきた。

血溜まりを見て…「おい、何があった!?」と、血相を変える。


「……ぁ……救急車をお願いします」


「知り合いか?」と訊かれ、「違います」と首を横に振る。

「…お嬢ちゃん…どこの店の子だ?」

「…未成年か?」


……店…?


ジロジロと、大人たちの視線が舞子の服装にあって、そこで初めて気づく。

…ぇぇっと…何?…これ……?

いつの間にかとんでもない衣装を纏っていることに。


白地に抹茶色ティ グリーンの、前襟合わせた振袖付き和装のようなワンピースで、傘のように裾開くミニスカート。

おまけに花のような唐草模様の白いニーハイブーツまで履いている。

あわわ…となった舞子は、その場から逃げるように駆け出していた。

そして…何と、その勢いで体が宙に浮いた。

「きゃぁぁぁ……!」


聞いてない、聞いてない、こんなの聞いてない…!!

舞子は、なんと…空を飛んでいた。


服だけでなく、黒髪も伸び、瞳の色も翠玉色エメラルドグリーンに変わっていた。

少し大人びた顔つきなっていて、…うそ…!?…貧相だった胸が立派に膨らんでいた。

その事後、神使獣の虎次郎から、変身と神起具かむのきの、そして治癒能力の説明を受けて。ぶーッ…と怒った膨れっつらを見せる舞子だったが。

事前に聞いていたとしても信じなかっただろう、と言われて、「その通りです」と項垂うなだれた。


その日を境に舞子は、東京の街を鬼魔衆きまのすからまもる“御子みこ”となり。

学校に通いながら、日々、夜な夜な、物の怪のたぐいを浄化する仕事を負う羽目になった。

虎次郎が舞子の前に現れてからかれこれ1年余り。この神使の獣は、いつも舞子のかたわらでフワフワと浮いているパートナーだった。


神使獣は、御子にだけ視える存在。

棒立ちで、何もない空気に向って喋り出した制服姿の少女に、駅構内を行き交う人々は怪訝けげんな視線を向ける。

いつもなら、こんなに人の多い所で神使獣に話しかけたりしないのだけど、この時ばかりは、そんなことに気を遣う余裕がなかった。

急がなければ大変なことになる、と、御子の血が騒ぎ立てていた。

虎次郎の声に耳を傾けた舞子は、「うん」と頷き、「こっちね…」と再び足運びを始めた。

そうして、再び人波を縫い、駆け抜け、目指す方向に見えたのは、東海道新幹線への乗り換え改札口。


……新幹線…?…だね……そう書いてある…

実は舞子は、新幹線に乗ったことがなかった。


そこで立ち止まった舞子は、これまで感じたことのないほどの穢れた妖気が、改札の奥からドロドロと、大波のように伝わってくるのを感じていた。

ゾクリ…と嫌な悪寒が、膝の裏から背筋を駆け上り、薄っすらと汗に濡れた首の後ろを冷やりと逆撫でる。


……この奥ね…間違いない…


ここまで走ってきたことによる荒い呼吸の奥で、ゴクリ…とつばを飲み下した。

その邪気のあまりの大きさにひるんだことを舞子自身も認め、フーーッ……と長い深呼吸をひとつで、気持ちを落ち着かせる。


ここでも早足の乗客たちは続々と、舞子の左右を通り抜け、改札に向って行く。

……あれは?…何かしら…?

目を凝らした改札の、その奥の方から黒紫の霧のようなものが漂い始めていた。


「…マズイ…毒気が溢れてきてる……」

思わず、独り言ちた。


それは、ある種の鬼魔衆が生成する禍々しき毒を帯びた霧で、大量に吸い込めば意識昏倒となり、死にも至る劇毒。


舞子の左手首には、煌河石こうがせきと呼ばれる珍しい石から作られたブレスレットリングが通されていた。

淡く美しい翠玉色エメラルドグリーンを蛍火のように放つリング。

それを、腕時計を見るような仕草で手首を顎下に寄せ、声音を乗せる。


「舞子です。見つけました…東海道新幹線の改札の奥。じわじわと毒気が溢れてきてます……マズイかも……」


ふわっ…とリングが淡い菫色パープルに変わり、司令本部からの女の子の声が、舞子の頭の中に響く。

「了解です。特0トクゼロがすでに、スリーユニット体制でそちらに向かった模様です。防毒マスクは……」

ここでその声の主が間を置いているのは、特0に確認しているからだと舞子は知っている。

「……大丈夫、持ってるみたい。……気をつけてね、舞子ちゃん」


「うん…」

舞子が頷いたその直後だった。

毒気にあてられた人々が意識を失ったのか、改札の奥の方でドミノ倒しのようにバタバタと倒れ始めた。

それに気づかず、改札に向かって行く人々の足を止めようとして、舞子は咄嗟に大声を張り上げた。


「ダメェ!中に入っちゃダメ!」


舞子の必死な叫びは、むなしく雑踏に吸い込まれ、誰の足も止められない。

どころか、頭のおかしな女の子がいる、とでも思われたらしく、人々は舞子から微妙に距離をとり、足取りを更に早めていく。


虎次郎に、無駄なことだ、と指摘されたらしく。

恥ずかしくて耳まで朱に染まった舞子が、頬を膨らます。

「…もう……そんなこと、分かってるわよ…」


ちょうどその時、改札脇にいた男の駅職員が改札内の異変に気づいたらしいが。オロオロと何が起こっているのか把握出来ずにいた。

改札に入ったばかりの人々も、視線の先で倒れ始める乗客に気づき、足を止めた。

後退りする人々も重なって、あっという間に改札は塞がり、人の壁ができあがってしまった。

行き進めない改札の手前で、「何事だ?!」と首を伸ばす人々の脳裏に、毒ガステロ、という言葉が頭に浮かび始める。


……いけない!…パニックになる!


改札をキッ…とめつけた舞子は、力強い声音で詠唱の最後の部分を唱えた。


かしこみ…かしこみ申す!!!」


すると…

舞子の頭上で、神使獣が目眩めくらむほどの白い発光体となり。と同時に、舞子の足元からまばゆい魔光の粒子が湧き立ち始め、舞子の体を包み込んでいく。

一瞬のことだった。

その近くにいた人々は、声を上げる間もなく、ただその眩しさに双眸そうぼうすがめ、瞼に手をかざす。


まゆのような光塊となった舞子は、改札に向かって駆け出し、エイッ!と床を蹴った。

低い天井と人垣の狭い隙間を、伸身の背面飛びですり抜け、宙でひるがえる、

そして、人々の頭上を越えた先で、両手を広げてふわりと着地した。

白い発光が治まっていくと、独特な巫女装束に身を包んだ舞子の姿が現れ。

ザワッ…と騒然とする人々の目に、それはまるで、いきなりアイドルが舞い降りてきたようにも映った。


改札脇で、あまりの驚きに目を丸くしていた駅職員に、舞子はペコリと頭を下げる。


「…ごめんなさい。切符は持ってません」


駅職員の、ポカン…と開いた口から「……ぁ…いえ…」と小さな声がれ落ちた。


同じように、ポカン…としたつらを並べる改札外の人々に向き直って。

舞子は、いきなり自己紹介を始めた。


「…あの…こんにちは。公安部特務ゼロ課のお手伝いで参りました。東京の御子、“舞子”と申します」

静謐せいひつで耳心地の良い、透き通る声音だった。


“御子”という言葉に反応した人々の表情が、えっ?…と驚きに変わるのを見計らって。

ひとつ、コクリ、と強く頷いた舞子が続ける。


「この奥から鬼魔衆キマノスの毒気が流れ込んできています。すぐに浄化しますので…“みなさん”…そこから一歩も前に出ないようにお願いします」


そう告げ、人々を制した舞子は、今度は奥に向き直った。

唖然と、人々が見守る中。

舞子は、スッ…と両の手を前に突き出し、その指先が魔光をまとい始める。

すると、まるでイルージョン手品でも観ているかのように、何もないところから槍のようなものが現れた。

ザワッ…とした観衆だったが、自らを御子と称するその少女が、それを軽々とバトンのようにクルクルと回し始める姿に、固唾かたずを呑んだ。


舞子の口から「ハッ!」と力強く“気”が放たれると。クルクルと扇風機のように回っていた双槍から、ふわっ…とシャボン玉のような翠玉色エメラルドグリーンの光膜が大きく広がる。

それがそのまま、ユルユルと奥の空間をスキャンするよう流れ進んでいくと、もやっと濁りくすんでいた構内の空気がみるみると、無色透明に塗り替えられていった。


……この女の子は…

いったい…何をしているんだ?……


人々は、初めて目にするその光景に、ただただ唖然とするばかりだった。

脇で見ていた駅職員も、突然に目の前に現れた可憐な少女から目が離せなかった。

……御子?…確かにそう言った。

この女の子が!?…東京の御子?…

マジか!?…SNS上で噂通りの可愛い女の子じゃないか……


公安部特務ゼロ課、鬼魔衆きまのす、そして御子みこ

その駅職員、斎藤たけるがそれらの言葉を初めて耳にしたのは、ちょうど1年ほど前のことだった。

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