第11話 サイレン

 殴られたイェソドは、痛みと共に頭が大きく揺れるのを感じ、スマホを取り落としてしまう。早くここから逃げなければという思考が働くが、揺らされた脳が回復するより先に腹に重い一撃を喰らう。

 高校生男子たちにもらった温い拳とは違う。イェソドは食べたばかりの胃の内容物を吐きだしつつ、陸に揚げられた魚のように身動きが取れなくなってしまう。


「すばしっこいが、所詮はガキだな」


 倒れたイェソドは、複数の男たちに取り押さえられ、大通りから路地裏へと引き摺りこまれてしまった。男たちはみな若いが柄は悪く、街の不良グループといった雰囲気だ。やがて、建物の屋上からクラウンが降りてきて、地面に這いつくばるイェソドを見下ろした。


山猿シンミア、おまえの身軽さは大したもんだ。その点に関しちゃ褒めてやるが、直感で動くから、どういうルートで逃げるか丸わかりだ。だから、おまえは猿なんだよ」

「……頭空っぽの道化師に言われたくねえよ」


 こんな状況でも豪気に言い返すイェソドだったが、負け惜しみ程度にしか感じなかったのか、クラウンは仮面の下でくつくつと笑う。

 クラウンは近くにいる男の方を見やると、手で銃を形取り、撃つ真似をした。


「いいんですかい? こいつから聞き出すことがあるんじゃ」

「死んだ後に身体を漁ればいい。この小猿に物を隠す芸なんてねえよ」


 男は頷くと、懐から拳銃を取り出して消音器を取りつける。額に押し当てられた冷たい感触に、イェソドは死の恐怖からぎゅっと目をつぶった。

 その瞬間、けたたましいサイレンの音が響き渡る。

 驚いた男たちが、大通りの方へと目を向ける。人が入って来ないように路地裏の出口を見張っていた二人の男が狼狽しているのが見て取れた。


「おい、何が起きた!?」

「わ、わかりません! 突然、車が……」


 出口付近に停まっていた車の盗難防止サイレンが鳴り響いているようだ。存在を主張する車に、大通りを歩いていた人々の注目が集まり、次いでそのすぐそばにいた見張りの男たちや路地裏にも視線が注がれた。

 拳銃を取り出していた男は、すぐにそれを懐へとしまう。誰かに見られている状況で撃つわけにはいかない。


「ちっ、なんだってんだ。場所を移すぞ」


 忌々しそうに言うクラウンの指示に従って、男たちはイェソドを引き摺りながら、反対側の出口へと向かう。不良同士の喧嘩と思ったのか、それを止める人はいなかった。

 反対側の出口も人通りは多かったが、そこには男たちが用意していた車が停められていた。奇異の目で見てくる一般人たちを睨みで牽制しながら、抵抗するイェソドを押さえつけて、車内に押し込もうとする。


「てめえ、いい加減おとなしく――」


 怒鳴りつける男の視界が急に暗くなる。あたり一面が、急に暗幕に覆われたような闇に包まれ、男たちや通行人たちが騒ぎ始めた。


「停電!? こんなときに!?」

「ちくしょう! さっきからいったいなんだってんだ!?」


 あたり一帯の電気が落ちたとはいえ、車のライトなどはついたままなので完全な闇ではない。しかし、街の灯に慣れた目では、ことさら暗さが際立ち、男たちに動揺が走る。

 理解不能な事態だが、この混乱に乗じてなんとか抜け出せないかともがくイェソド。彼を拘束していた手が緩み、突然身体が自由になる。あまりにあっさりと解放されたことに驚くイェソドの腕を、柔らかな手が引いた。


「長くは保たないっす。しっかり走って!」


 聞き覚えのある声と口調。どうして彼女がここにと思う間もなく、イェソドは少女に引きずられるように走る。少女は闇の中でもはっきりと物が見えているかのように、的確に障害物を避けながら少年を先導した。

 ほどなくして、街に光が戻り始める。視界を取り戻したクラウンは、イェソドを取り押さえていた男たちが倒れ、少年と少女の背中が遠くに見えることにすぐに気付く。


「くそっ、逃げられたぞ! 追え!」


 車のエンジンはすでにかかっていたため、男たちは車に乗り込んで少年の後を追った。

 大通りは車道も広かったため、イェソドたちにすぐ近づくことができたが、車が急に右折して、彼らとは正反対の方向に走って行く。


「おい! どっちに向かって走ってんだ!? あっちだ、あっち!」

「す、すみません! でも、ハンドルが利かなくて……」


 車窓からは、もうイェソドたちの姿は見えなくなっていた。彼らを取り逃がしたクラウンは、いらついたように前の座席を強く蹴る。

 一方、逃げ切ったイェソドは、安全を確認してから足を止め、少女の方へと向き直る。イェソドと違ってスタミナがないのか、少女は息を切らせて壁に手をついていた。


「おまえ、いったいどうやって……」

「いひひひひ、知らなかったっすか? マルクトお姉さんからは逃げられないんすよ」


 玉の汗を浮かべながら、マルクトは悪戯っぽくウインクした。

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