第10話 道化師

「ああああああああ、食い逃げええええええええ!!」

「後で絶対返すからっ!」


 すぐにマルクトも追いかけたが、みるみるうちに距離を離されていく。マルクトの足が遅いというのもあるが、イェソドも年齢の割に足が速い。

 十分な距離を取ってから、念の為、何度か曲がり角を曲がって少女を完全に撒く。適当なところで歩調を緩め、腹をさすりながら溜息を吐く。


「あ~、気持ち悪ぃ。食後に全力疾走するもんじゃないな」


 悪態を吐きつつも、空腹が満たされたことで気力は戻りつつある。後はひと眠りすれば体力も八割方戻ることだろう。

 マルクトを騙したようで気が引けたが、改めて考えると、見ず知らずの女性を自分の都合に巻き込むわけにはいかない。無理矢理でも彼女と別れたのは、自分の限界を知らない若者らしい意地だった。

 少年はフードを上げて顔を隠す。変装というには心許ないが、ないよりは遥かにマシだろう。不自然にならない程度に目線を下げて、少年は夜の街を歩く。

 とりあえず、今夜の寝床が必要だ。ゴミ捨て場から新聞紙や段ボールを盗んで、公園で適当な場所を見繕えばいいだろう。初めての経験だが、為せば為る。

 繁華街を歩きながら目的の物を探していると、ポケットから振動を感じる。取り出してみると、スマホが見たことのない番号から着信を受けていた。すべての数字が『6』というありえない電話番号で、最初いたずらかと思った。


「(……ん? 俺のスマホって電池切れてなかったっけ?)」


 実際こうして着信しているのだから記憶違いだと思ったが、不気味に感じたので通話終了ボタンを押す。


「あれ、反応しないな」


 何度も通話終了を押すが、接触が悪いのか通話が切れない。それどころか、勝手に通話モードへと切り替わった。


『もしもし、イェソド。聞こえていますか?』


 通話口から聞こえてきたのは、男とも女とも判断がつかない初めて聞く声だ。まるで心当たりのない相手に、イェソドは反応に困って押し黙る。


『返事はないようですが、聴覚に問題はないようなので話を続けます。そのまま振り返ることなく、私の話を聞いてください。今、あなたは二人の男性に尾行されています』

「っ!?」


 反射的に振り返りそうになるのをぐっとこらえる。

 追ってきている相手に心当たりはありすぎる。だが、それを自分に伝えてくれるような相手には心当たりがない。嘘を吐いているにしては、理由が思いつかない。


「あんた、何者だ?」

『質問が曖昧すぎますし、その情報はあなたにとってあまりメリットはない。それより、今あなたが問うべきは、どうやったら追手を撒くことができるかでしょう』


 ずいぶん機械的な物言いをする相手だが、言っていることは正しい。追手が誰であったとしても、捕まって得をするようなことにはならない。

 曲がり角に差し掛かり、追跡者の視界から消えたところで、イェソドは走り出す。頭の中に地図を思い浮かべ、逃走ルートを瞬時に組み上げる。ゴミ箱やパイプなどを足がかりにして、軽業師のような身の軽さで建物の壁へと登った。

 窓枠を掴んでぶら下がりながら見下ろすと、少年を見失った男二名が、頭上のイェソドに気付かず大通りを駆けていくのが見えた。その様子を見て不敵な笑みを浮かべたイェソドは、片手にスマホを持ったままで、建物を器用に登っていき、屋上を目指す。


『見事な身のこなしです。あなたの為に逃走ルートをいくつか策定していましたが、修正の必要があるようです。道案内するので、そのとおりに逃げてください』

「はぁ? 追手ならもう――」


 屋上の縁に手をかけたところで、そこに人影があることにイェソドは気付く。

 人影は、イタリアの祭りで使われるような仮面をつけた男だ。彼は両手で角材を握り締め、イェソドへと力いっぱい振り下ろした。

 少年はとっさに壁を蹴り、バック転で宙へと逃げる。そのまま地面へとまっさかさまに落ちるかと思われたが、向かいの建物の外壁に取り付けられた室外機を掴み、蜘蛛のように壁にへばりついて落下を防ぐ。

 危うく死にかけたところだが、恐怖より怒りがイェソドの胸を包む。


「てめぇ、『道化師クラウン』か」

「よぉ、『山猿シンミア』。会えて嬉しいから、とっとと死んでくれ」


 クラウンと呼ばれた男が、懐から消音機付拳銃を取り出して構える。イェソドは二つの建物の外壁を交互に蹴ってジグザグに飛び、落下速度を削りしながら下へと降りていく。素早く動く少年に狙いが定まらず、道化師は舌打ちした。


『むっ、いけません。そちらに逃げてはダメです』


 地面に足をつけたイェソドが大通りの方に戻ろうとしたところ、スマホから聞こえる声が、焦ったように言う。

 何故かを問い質そうとした少年は、通りに出たところで殴られて吹き飛ばされた。

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