第9話 据え膳
イェソドの手がピタリと止まる。
自分が怪しい風体をしていることは自覚していた。好奇心で事情を尋ねられることも想像していたため、どんな質問が飛んでくるかと身構える。
しかし、少女の口から発せられたのは、彼が予想していた質問のいずれでもなかった。
「今夜、泊まるところ決まってるっすか?」
「……は? いや、そんなのないけど」
「じゃあ、今晩はうちに泊まらない?」
突然の提案に、意図が理解できないイェソドは困惑する。
少年の事情を深く聞くこともなく、寝床を提供してくれると言う。イェソドからすれば願ったりだが、うますぎる話は少年の心に不審を産んだ。
自分の身の上を隠すことばかりに意識がいっていたが、よく考えれば目の前の少女のことを何も知らない。謎の技で男子高校生二人を瞬殺したり、身元不明の男を何の躊躇いもなく家に上げようとしたりと行動が普通ではない。
『おい、何とか言えよ、殺人鬼!』
ふと、先刻の路地裏で、高校生グループの一人が発した言葉を思い出す。
あの時は深く考えていなかったが、状況から考えればマルクトに対しての発言だったはずだ。殺人鬼というのは比喩なのだろうが、何の根拠もなく出てくる言葉とも考え難い。
「……遠慮しておく。何されるかわかったもんじゃない」
悪人とは思わなかったが、これ以上関わりあいになるのは怖かったので丁重に断る。彼女が善人であるとするならなおさらのことだ。
断られるとは思っていなかったのか、マルクトは少し思案顔になる。そして、少年の言葉を何か勘違いしたのか、はたと思いついたように腕で胸を寄せながら、小悪魔的な表情で微笑みかけた。
「据え膳食わぬは男の恥とは思わないっすか?」
「っ、思わねえよ! ごちそうさまっ!」
からかわれているとわかっていても、マルクトの胸元につい視線を送ってしまって、少年は赤面してしまう。完全に手玉に取られている状態だ。
これ以上会話を続ければ口を滑らしかねないと判断したイェソドは、早々に席を立つことにした。満腹になった以上、マルクトと一緒にいる理由はもうない。さっさと店を出て、金輪際顔を合わさないに限る。
イェソドに合わせて、少女も席を立つ。彼女はさっと先を行く少年の手を握り締めた。
「あっ? なん――」
マルクトと手を重ねたところに、かさりとした紙の感触があった。見てみると、先ほど飲み食いした分の伝票が、イェソドの手に握られている。
少女はびしっと敬礼のポーズをとって、悪びれもなく言った。
「ごちになるっす!」
「……いやいやいや、おまえの奢りじゃなかったのかよ!?」
「え~? そんなこと言ってないっすよ? 年下とはいえ、イェソドくんは女の子に奢らせるつもりだったんすかぁ?」
にやにやといやらしい笑みを浮かべながら、マルクトはそんなことをのたまった。
本当に言ってなかったかどうか思い出そうとしたが、そんな細かい発言内容まで覚えていない。だが、彼女の言っていることが真実であったとしても、明らかに意図的にイェソドを欺いている。騙された、と少年は気付いた。
「こ、これは、巻き込んだお詫びだって言ってたじゃないか!」
「美少女JKにご飯奢るなんて、それだけでご褒美でしょ?」
「どんだけ自信過剰なんだよ!? だいたい、食事は男が奢るものなんて考え、今どき古いだろうが!」
「んー、しょうがないなぁ。じゃあ、割り勘でいいっすよ」
発言をあっさりと撤回するマルクト。しかし、イェソドはこれにぐっと言葉を詰まらせる。今の彼の所持金では、割り勘でも届かない。
マルクトはイェソドの懐事情を的確に把握しているようだ。悪戯っぽい笑みを浮かべて、反応を楽しんでいる。
「じゃあ、こうするっす。ここは私が奢ってあげるから、それはイェソドくんへの借金ってことで。返し終わるまで、マルクトお姉さんの言うことを聞くこと!」
「はぁ!? なんでそんなことに――」
「じゃあ、割り勘にするっすか?」
小首を傾げて聞いてくるマルクトの背中に悪魔の羽と尻尾が生えているような気がしてきた。少年は観念したように溜息を吐いて頷いた。
「……今は金を持ってないから、後で返す」
「はい、決定! お会計お願いしまーす!」
我が意を得たりと満面の笑みを浮かべたマルクトが支払いを済ませ、頭を抱えている少年とともに外に出る。
「さっ、約束通り、お姉さんの言うことは聞いてもら――」
振り向いたマルクトの瞳には、脱兎のごとく逃げる少年の後ろ姿が映っていた。
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