第4話 山猿の少年

 人通りの多い繁華街を、人々の間を縫うように一人の少年が走る。夏も近いというのにフードをかぶり、顔には猿を模した仮面をつけていた。

 年の頃は中学生くらいだろうか。まだ幼さと体格の小ささが目立ち、少年という表現がぴったり嵌まる。しかし、大人顔負けの健脚と反射神経で、通行人とぶつかることなく、狼のように素早く走り抜ける。


「待て、クソガキ! 止まりやがれ!」

「ぶっ殺すぞ、てめえ! こらぁ!」


 一方で、彼を追いかける集団は、少年とは真逆の強面で大柄な男たちだ。彼らは全身で怒りを表しながら、鬼気迫る表情で少年を追いかける。それを見た通行人たちは慌てて道を譲り、避けきれなかった通行人を跳ねのけながら強引に追ってくる。


「(そんなふうに言われて、止まる奴がどこにいるんだよ!!)」


 少年は、後ろから追ってきている男たちを振り返りもしない。声を上げながら追ってきているので、振り返るまでもなく互いの距離を察することができたからだ。好奇の目で逃走劇を眺めている通行人を鬱陶しく思いながら道を何度も曲がる。

 と、前方から別の強面集団がやってくるのが見えた。挟み撃ちの形になった少年に、男たちががなり立てながら殺到する。

 追い詰められたことを悟った少年は、走る勢いをそのままに力強く地を蹴る。軽く跳んだようにしか見えないが、盗難防止ロックの僅かな出っ張りを足掛かりに、たった二跳びで自販機の上に跳び乗った。

 少年はそのまま自販機を足掛かりにして壁を越え、壁の向こうにあった建物の非常階段へと飛び移る。猿のような曲芸的動きに、追手の男たちは目を丸くして一瞬立ち止まったが、すぐに建物の敷地内へと入って追跡を続ける。

 少年は男たちから逃げるため、上へ上へと逃げていく。

 建物は古いビルのようだ。少年は屋上まで逃げてきたが、本階段からも非常階段からも足音や怒鳴り声が響き、そこから下へは逃げられない。

 周囲を見回すが、両隣のビルは少年が今いるビルより高く、飛び移ることはできない。屋上の鉄柵から下を見ても、壁と窓が並ぶくらいで梯子などは見当たらない。

 肩で息をする少年の背後に、彼以上に息を切らしている男たちが屋上へと雪崩れ込んでくる。長い時間にわたる逃走劇で顔が青いが、口元には笑みが浮かんでいる。


「ようやく追い詰めたぞ。手間取らせやがって」

「あぁ、ご苦労さん。せっかくだから、もうちょっとがんばってみろよ」


 そう言って、猿面の少年は、鉄柵を乗り越えてビルから飛び降りた。

 ぎょっとした男たちが鉄柵に走り寄って下を覗くと、窓枠の微かな出っ張りに、少年が指をかけてぶら下がっているのが見えた。男たちがこちらを見ていることに気づいた少年は、片手を離して彼らに中指を突き付ける。


「どうした? ついて来られるもんならついて来てみろ!」


 そう言って、少年は二つのビルの窓から窓へと交互に飛び移りながら、すさまじい勢いで下へと降りて行く。本物の猿のような動きに、男たちは唖然とした顔になる。


「……おい、おまえ、飛び降りろよ」

「ふざけんな。俺は『山猿シンミア』みたいにイかれてねえよ!」


 男たちはすぐにビルを駆け下りるが、少年はすでに下に到着していた。

 距離を空けた少年は仮面とフードを取り、人混みに紛れて姿をくらます。じっくり時間をかけて追手の気配が消えたことを確認してから、路地裏へと身体を滑り込ませ、すぐそばにあったゴミ箱の影で荒くなった呼吸を整える。


「(疲れた……。昨日の夜から、ずっと走りっぱなしだ)」


 足が棒になる感覚とはこういうことを言うのだろう。アドレナリンが抜けて疲労を自覚すると、両の足ががくがくと震えだす。それは過労によるものか、あるいは恐怖によるものか。どちらにせよ、もうこの場から一歩も動ける気がしなかった。

 頭上からカラスの鳴き声がしたので見上げれば、路地裏の狭い空に夕日の赤い光が差していた。いつの間にか今日という日は終わりを告げようとしている。

 今さらになって、ほぼ丸一日走り回っていたということを察する。運動能力には自信があったはずだが、どおりでバテているはずだ。ずっと神経をとがらせていたため、今の今まで時間の経過に気付かなかった。


「(……母さん、心配してるかな?)」


 家のことを思い出して、泣きそうになるのをこらえる。ここで泣いてしまえば、心が折れてしまうという予感があった。いくら恋しくても、今家に帰ることはできない。それならばどこに行けばいいのかという話になるが、とんと見当がつかずに途方に暮れる。

 スマホを取り出して、何かメッセージがないか確認しようとしたが、起動ボタンを押しても画面が映し出されない。どこかでぶつけて壊してしまったかと思ったが、すぐに電源が入っていないことに気がつく。走り回っているうちに電池が切れたようだ。

 うんともすんとも言わないスマホに落ち込む少年を、携帯ストラップの人形がバカにするように笑いかける。

 もちろん、人形に意思があるわけがないのでただの被害妄想だったが、肉体的にも精神的にも疲労のピークにある少年の思考力は落ちていた。


「(腹減ったな……。今晩の寝床、どうしよう)」


 手持ちの金は千円にも満たない。家に帰るわけにもいかない。手詰まりの状況に現実逃避したくなり、少年は膝を抱いてうずくまりながら溜息を吐いた。

 緊張の糸が切れたせいか、泥のような睡魔が襲ってくる。

 今この時だって、いつ追手に見つかるかわからない。こんなところで眠ってはまずいとわかってはいても、誘惑に負けて目を閉じる。少しの間だけ目を閉じるだけだと自分に言い訳しながら、少年は意識を闇の中へと沈めていった。

 にゃあ、と猫の鳴き声が聞こえた気がした。それが夢の中の出来事なのか、現実での出来事かを判断できる思考力は残っていない。

 しかし、その直後に響き渡った怒声に、少年ははっと顔を上げた。


「おい、何とか言えよ、殺人鬼!」

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