太一の異界手帖

第一章 邂逅

 春が近いというのにやけに冷え込む夕暮れだった。

 いや、恐らく気温のせいだけではないのだろう。竹林に囲まれたこの場所はまさに隠者や世捨て人が住むにはうってつけの場所だが、真っ当な人間にとっては寂しさに心を囚われてしまうような場所であった。

 男は仕事の帰りに偶然ここに立ち寄った。そこに特に理由らしい理由はない。ただ、この侘しさのようなものにどことなく惹かれたからだ。まさか、自分が風流なことを考えるとは、などと自嘲したものの、やはりそこをそのまま素通りするのはどことなくもったいないと感じ、遂に来てしまった。

 やはり特に何もないな。それが男の第一印象だった。しかし、辺りを見回すと、それが真理ではないことに気付いた。

 むき出しの地面の一角。そこには祠があり、その前に人がいた。女の子。それも、やっと走ったり、人と会話したりできるくらいの子供。

「嬢ちゃん。どうした? 迷子か?」

 男は思わず話しかけていた。こんな所に薄着に裸足の小さな子供が一人座り込んでいることに疑問を覚えたこともあるが、何より、子供の存在に心が引き付けられていたからだ。

 ぱっちりした瞳は男の顔をじっと覗き込んでいたが、やがて顔を歪めてしまい今にも泣き出しそうな様子である。

「ああ、すまん。そりゃあ、いきなり知らないおじさんに話しかけられたら怖いよな」

 これは他人に見られたら通報されかねない、などと思いながら男は精一杯の作り笑いを浮かべ、頭を優しく撫でる。すると、今にも泣き出しそうだった顔は表情を綻ばせ、少女は男に抱き着いた。

「嬢ちゃん。お父さんとお母さん。何処にいるか分かるかい?」

 男はほっと胸を撫で下ろしながら、出来る限り優しげな口調で問いかけた。

「いない。わたし、おとーさんとおかーさんいないの」

「いない? そんなことはないだろう」

 しかし、少女は目で訴えながら、頑として首を振り続けた。その必死な様子に、男は少女の境遇を幾らか察し、やれやれとばかりに頭を掻き撫でた。

「面倒事が終わったところだってのに、また厄介なことに足を突っ込んじまったな、こりゃ」

「どーしたの?」

「いいや、何でもない。それより嬢ちゃん。いつまでもこんなとこいちゃ風邪引いちまう。どうだ、ウチに来ないか? 可愛げのない家だが、飯くらいは食わせてやれる」

 少女は男をじーと見つめる。そして何かを感じ取ったのか、「うん」と無邪気な笑顔を男に振りまいた。

「よし、決まりだ。下に車があるからそこまで行こう。ほれ」

 男は膝を付き、華奢な少女の体を背負う。

「ちゃんと肩に手を回して、そう、いい子だ」

 男は少女がしっかり掴まっているのを確認すると、ゆっくりと歩き始めた。

「……ん」

「どうした、おんぶはいやか?」

「ううん。とってもあったかい」

「そうか。それはよかった」

 何ということはない、とある夕暮れの一節。

 そうして男と少女は家族になった。


       ○


 雲で月が陰っている。地方都市である菅原市の港湾地区にある駐車場、そこに人だかりが出来ていた。

「あり得ねえ。一体何がぶつかったらこんな風にぶっ壊れるんだ」

 「立入禁止」と書かれた黄色のテープの手前、駐車場の一角を覗き込んだ坂上は思わず呟いた。

 坂上の視線の先にあるのは、まるで上から象でも落ちてきたかのように無残に潰れてしまった車であった。現在、哀れな車の周りには青、あるいは紺色の服装に身を包んだ警官達による調査が行われていた。

 徐々に人だかりが減っていったのを見計らい、坂上は手持ち無沙汰になっていた見張りと思しき警官の一人に声をかける。

「おいあんた、こいつは何があったんだ」

 まだ顔立ちに幼さの残る警官は、その少しくたびれた男を見るなり手で制した。

「すみません。関係ない人に内容を話すわけには」

「いいやそれなら心配ない。俺も関係者だ」

 坂上は羽織っていたジャケットの内ポケットから手帳を取り出す。それを見た警官は目を見開いて途端に姿勢を正した。

「し、失礼しました! あの、この度はどのような用件でこちらに?」

「いや、今は非番だよ。たまたま通りかかっただけだ。それより、これは一体全体何が起きたんだ」

「はい、それがまだよく分かっていないんです。幸い車の所有者は無事だったのですが、原因の方はさっぱりで、鉄球でも落ちてきたんじゃないかって結論に落ち着きつつあります」

「鉄球って、んなもん何処にそんな痕跡があるんだ」

「この位置からじゃ見えにくいんですが、車から数メートル離れた地面に窪みが出来ているんです。入りますか?」

 警官がテープを上に上げようとするのを男は手で制した。

「いや、いい。さっきも言ったが非番だ。人の仕事を奪うつもりもないしな。じゃあ、その鉄球ってのも、そこら辺にあるのか」

「いえ、それがまだ捜索中で」

「なんだ、それじゃ鉄球って線は薄いんじゃないか」

「そうとも言い切れないですよ。私の推論なのですが、ここは海に面してますし沈んでしまったのなら納得がいきます。おっと、申し訳ありません。お呼ばれのようですので、ここで失礼いたします」

 警官は近くにいた別の警官に呼ばれてその場を後にする。

 まさか、鉄球が沈んだなんて可能性も低いだろう。そう男は思った。それなら落下地点から海に至るまでの痕跡もあるだろうし、真っ先にその可能性を探る筈だ。それがないということは。

 坂上はふと横に目をやると、少しぎょっとした。坂上の視線の先には、いつの間にか髪を後ろにまとめたポニーテールの女が立っていたのだ。

 女は表情の読み取れない顔で凄惨な現場の方を見やる。

「大惨事ね。車の所有者が欲のないお金持ちで車マニアでないことを祈るばかりだわ」

「あんた、いつからそこに?」

 坂上が尋ねると、女はゆっくりと坂上の方を振り向いた。

「あら、ついさっきよ。どうかいたしました?」

「いいや、何でもない」

 坂上は再び車の方を見やる。相変わらず警察の調査が行われているが、特に何か進展した様子はなさそうである。

「貴方、さっきから随分と熱心に見ているようだけど、もしかしてあの車の持ち主?」

「違う。そもそも俺はあんな気取った車なんて持つような柄じゃねーしな」

「じゃあ持ち主の関係者?」

「それも違う」

「そう」

「逆に聞くが、あんたは何故ここに来た?」

「只の野次馬よ。ちょうど人が少なくなってるようだったから来てみたの」

「ほう。わざわざ人がいなくなる時間を狙ってでもこれを見たい理由があったのか」

「大した理由なんてないわよ。たまたま通りかかったから見てみたかっただけ。それにおおよその原因は分かったんでしょう? それならすぐに只の陳腐な事故の一つになってお終い、でしょ」

「どうだか」

「あら、警察のご英断に何か不満でも?」

「何か含みを感じる言い方だが、まあいい。少しだけな。警察が導き出しつつある判断は常識的で真っ当だが道理に適っていない」

「じゃあ貴方の考えは?」

「道理にかなっているが幼稚で非常識で真っ当な人間の考えじゃない」

「ふーん。その心は?」

「”妖怪の仕業”、じゃあないのかね」

 坂上は女を見据える。女は相変わらず表情の読み取れない顔で坂上を見ていたが、突如ぷっと吹き出した。

「なるほど、たしかにトンデモね」

「はは、そうだろ。傑作だろ。ところで」

「何かしら」

「あんた何か知ってるんじゃないか」

 束の間の間、二人は沈黙する。そして女が口を開いた。

「まさか。事故なんてものは道理に叶っていないものも多いでしょうに。大事なことは道理に叶っているかではなくて真実ではなくて? それでは御機嫌よう、刑事さん」

「おっと待ってくれ」

 女は踵を返して去ろうとするが、坂上は呼び止める。

「後学までに聞かせてほしい。あんたの名前は?」

「望月、望月詠子よ。貴方は?」

 女は振り返ってそう告げた。

「坂上だ。坂上護」

「そう。坂上さん。また会うことがあればよろしくね」

 そう言い残して、女は静かな足取りで去っていく。

「ふう。どうして人っていうのは秘密主義が多いのかね」

 一人残された坂上は吸い込まれそうなほど暗い虚空に向かってボソリと呟いた。

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