第二章 依頼①
夜明けを伝える鳥の囀りが聞こえてきた。澄んだ空気が辺りを包み込み、体についた淀みのようなものを洗い流してくれる。
「んー、気持ちいい。深夜と早朝はいいね」
青年は人気のない歩道を歩きながら思わず呟く。彼は精一杯伸びをして空を見上げた。
「週に一、二回くらいは早朝に起きて外を走るようにするのも悪くないかな。よし、検討してみよう」
青年は人がいないのをいいことにブツブツと呟きながら目的地を目指す。
青年の名は太一、日本の地方都市である菅原市の大学に通う学生である。彼はふとした出来事から異界の住人に関するあれこれを請け負う客士院の一員となった。それは、しばしばの戸惑いを彼にもたらしたが同時に、書き物を生業としている彼の好奇心を満たすのに十分な体験をもたらすものであった。
青年の目的地は北宮神社と呼ばれる社である。比較的沿岸部に位置しているこの神社は、高台にあるために境内から海を望むことが出来るが、市内でもその存在を知っているものはそう多くなく、昼間であっても閑散としていることが多かった。
太はそんな神社の石段を登り、境内に足を踏み入れた。
「あれは」
太は拝殿の方を見やると、長い黒髪の少女と思しき人影が拝殿に向かって願い事をしているようであった。
「やあ。また会ったね、たまき」
願い事が終わったのを見計らって太は少女に声をかける。たまきと呼ばれた少女はゆっくりと背後を振り返り、太の姿を認めると、柔和な笑みを彼に投げかけた。
「おはようございます。はじめ」
「うん、おはよう。そういえば前もここで会ったけど、ここにはよく来る方なの?」
「そうね。この場所は好きだから。特に最近はよく来てるかしら」
「最近、というと何か特別なことでもあるの?」
「ええ。実は近いうちに遠い所から親しかった人達が訪ねてくる予定なの。だから、無事に彼らが来られるように参拝しているのです」
「そっか。願い事叶うといいね」
「ありがとう、はじめ。そういえばはじめとは前もここで会いましたね。この神社にはよく来るのですか?」
「うん、まあそれなりに来てるかな」
「では一体何の願い事をしているのでしょうか? とても気になりますわ」
「ああ、僕? えーっと」
太は言葉に詰まる。彼は参拝こそすれ、特に願い事を持ってここに来ているわけではなかったからである。彼の用事は一つ。ここ北宮神社に拠点を構えている客士院に出向くことであった。
「まあ、こう見えても物書きをしている人間だから、それが捗るようにお願いしているんだ」
太はそれっぽいことを言ってお茶を濁そうとした。事実、物書きはしていたし、そう願ったこともあるにはあったからあながち嘘ではあるまい、と太は心の中で呟いた。
「そう、素敵なことね」
たまきは屈託のない笑顔を見せる。
「あとね」
「あと?」
「神様も願い事ばかりじゃうんざりするだろうから、感謝の気持ちを告げつつ日々起きたことを報告しているよ」
「ふふ、はじめは変な人ね」
たまきは口を押さえて笑う。
「えー、そんなに言われることかなあ」
「ねえ、はじめ。少しお聞きしたいことがあるのですけど」
「ん、何かな?」
「この近くでパン屋さんをご存知ないかしら」
「ああ、それだったらここから歩いて五分くらいの所にナガノパンというパン屋さんがあるよ。ちょっと待ってね」
そう言うと太は懐から手帳とペンを取り出し、さらさらと何かを書き出し始めた。そしてそれを書き終えると、紙を破ってたまきに渡した。
「少しアバウトだけどこれ辿っていけばいけるよ、どうぞ」
「ありがとう、優しいのね」
「いえいえ。それより、パン、好きなんだね」
「そう、ね。特に、クロワッサンが好き。いつから好きになったのかも、好きになった理由も覚えていないのだけれど、でも何か懐かしい気持ちがするの」
「凄く小さな頃に誰かに食べさせてもらったことがあったのかも。それが記憶の深い所に残ってるのかもね」
「……そうかもしれないわね。でも、もうさっぱり思い出せない」
風でなびいた髪をたまきは手で押さえる。艶やかで見とれてしまう黒髪。太はついその黒髪に釘付けになってしまった。
「それでは、はじめ。また会いましょう」
「え? あ、うん。またね」
たまきの言葉に我に返った太は返事をした。たまきは境内から階段を下っていき、やがて見えなくなる。
「さて、と。僕も行かないと」
その小さな後ろ姿を見送っていた青年は社務所に向かって歩き始めた。
また、会えるかな。太はいつの間にかそんなことを考えている自分にハッとし、雑念を切り払うかのように頭を振りながらその場を後にした。
「……あれは、まさか、な。考え過ぎだ。第一あいつはもう」
建物の物陰から境内の様子を伺っていた男は小さく呟いた。
「おはよう、太君」
北宮神社の境内に設えられている平屋の一軒家程度の大きさを持つ社務所。その一角にある畳式の広間にて、望月は入って来た太に挨拶をする。
「おはようございます! 望月さん、弓納さん」
「はい、おはようございます。太さん」
同じく広間にいた弓納は太に気付くとペコリと頭を下げる。
「今日は天野君も顔を見せるみたい」
「そうなのですか。珍しいです、天野さんが早朝にここに来ることと、こうして全員が集まるなんて」
弓納が言うと、太は首を傾げた。
「そうなんですか?」
「はい、太さん。基本的に私達は個々で不規則に行動することが多いですから、あまり一同に会することは少ないんです」
「確かにその通りね。実際、太君がここに入ることになったあの日から集まったことないし」
「あー、そういえば」
太一は客士院に入ってからのことを思い出す。確かに何か集まりのようなものがあったことはない。偶然全員集まるということもなかった。特に天野と弓納はいたりいなかったりで、一緒に二人がいるところはあまり見ていない気がする。
「別に仲が悪いわけじゃないのよ」
「別に仲良ししてるわけでもないけどな」
廊下から低い声が聞こえた。声のする方を見やると、二十代後半から三十代と思しき男が気だるげそうに部屋に入ってきた。
「天野さん、おはようございます」
「ああ、太君。おはよう」
そう言って天野は大きく欠伸をする。
「天野君、夜更かしは体に毒よ」
「したくてしたわけじゃない。学生からのレポートを見なきゃいけなかったんだから、仕方ないだろう」
「へえ、昨日呑気に映画を鑑賞していた人の言葉とは思えないわね」
「あ、あれはだな、そのー、な」
「何を観てたんですか」
「恋愛モノ」
望月がニヤニヤしながら言うと、天野はきまりの悪そうな表情をする。
「最近の流行も抑えとかんといかんからな。学生と話を合わせないといかんし」
「ふーん、仕事熱心なんだか熱心じゃないんだか」
「何でそんなことを知ってるか大いに気になるが、とりあえず放っといてくれ。そんなことより、早く本題を頼む」
「そうね。わざわざ連絡を寄越したのはお茶会をするためではないわ。ちょっとした依頼が来たからなの」
「大掛かりな内容、ですか?」
「いいえ、小梅ちゃん。内容を見る限りそう大したことはないと思うのだけど、何せ依頼人がね」
「なんだ、
「違うわ」
「じゃあ誰だ」
「生野氏よ。生野綱って言えば分かるかしら」
「ああ、あの人ですか」
太は納得したように言うと、横にいた天野が尋ねる。
「太君、知っているのか?」
「ええ、もちろん。生野氏は結構有名な資産家で、昔から菅原市の経済発展にも貢献してきたいわゆる地元の名士というやつです。当代の生野綱はかつて菅原市の市長も務めたこともある人ですよ。ちなみに家柄も古いようで、一説には千年くらい前から続いている一族だと聞いたことがあります」
「天野君、もしかして知らなかった?」
望月が半目で天野をじっと見つめてきたので、天野はばつが悪そうにそっぽを向く。
「悪かったな、知らなくて。ああこの感覚、奴に詰られてる気分だ」
「誰よ? 奴って」
「何でもない。それより、そんなのがまたどうして依頼をここに投げてきたんだ」
「屋敷の周りで最近変なことが起きているみたい。だから、その原因を突き止めてほしいって」
「ほおー。そんなんだと、今回の件に関しても先祖が何かやらかしている可能性もありそうだな」
天野は肩をすくめながら言った。実際に、客士に舞い込む依頼にはそういった類のものも多い。戦に勝つために異界の住人と契約したが、約束を反故にしてしまったので、子孫が報復されようとしているだとか、資源の眠っている土地にいた河童をあの手この手で追い出して恨みを買っただとか、中々表沙汰には出来ないような事情のものばかりである。そのいかにも人間らしい背景を持った、煩わしそうな依頼を好んで受ける好事家もいるが、大方はその入り組んだ事情から関わり合いにはなりたがらない。
「そうね、このタイミングでこの件、裏に何かあるような気がするのよ」
「このタイミングといえば、最近、菅原市で変なことが多発していますね」
太は考え込むように言った。
ここ数日、菅原市界隈では連日のように不可解なことが起きていた。港湾地区での車の大破、駅前の焼け跡、記念公園の抉られた地面、など。まるでそう意図したかのように、いずれも人に危害が加わることはなかったが、一部では不安に思う声も出てきており、捜査機関もこの一連の事件の解決に本格的に乗り出そうとしていた。
「そう、最近起きている件とは無関係でやっぱり他愛のない話でした、なんて可能性も十分にありえるけれど、そうとも言い切れない匂いがプンプンするのよね。一先ず私は先に屋敷に行ってみようと思うけど、皆はどうする?」
そう望月が言うと、天野は気だるそうに手を振った。
「いや、俺はいいや。面白そうな話があるから来てみろと言ったから来てみたが、どうも面倒なことの方が多そうだ。パスだパス。手に負えなくなったら言ってくれ。そしたら手伝う」
「そう、残念。小梅ちゃんは?」
「あ、実は今テスト期間でして。出来れば勉強に集中したい、です」
「そっか、うん。それなら仕方ないわね。じゃあ太君、事前に下調べの後、明後日は二人で行きましょうか?」
「了解です!」
太は快活に応えた。
しかしまあ、なんでこの青年はこんなに元気があるんだろうなあ、天野は横で気だるそうにそのはつらつとした表情を見ていた。
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