第二章 襲撃

 夕暮れ時。昼と夜の交わる時間の空はかすかな暗雲が立ち込めていた。

 天野は千方院家を見上げる。

 案の定、杞憂ではなかったか、天野はぼそりと呟いた。

 千方院の屋敷から異様な空気が流れている。あまりに重々しいそれは、本能的に家の前の通りを避けてしまうようなものだった。

「庭の方か。本来なら芳しくない出来事だが、俺としては願ったり叶ったりだ」

 石階段へと急ぎ歩を進める。

 門を無理やりこじ開け、千方院家の庭先へ向かった天野は目の前の事態に突如脚を止めた。

「こいつは……!」

 庭先では八重千代と、精悍な顔つきをした見知らぬ青年が向かい合っていた。

「では我らに与することはないということだな」

 青年が言うと、八重千代は首を横に振った。

「ええ。何度も言っているでしょう。私の気が変わることはありません」

「ふん、そうか。ならばとっとと撤退、と行きたい所だが、貴方をこのまま野放しにしておくのも厄介だ。変な横槍を入れられても困るのでな」

「ではどうするのです?」

 八重千代は青年を見据える。

「長年の恩義もある故、あまり非情なことは出来ない。となればここは」

 男は鞘に収まったままの刀を取り出して、八重千代に向ける。

「捕えて、ことが終わるまで大人しくしてもらおう」

「待てっ!」

 天野の掛け声に二人はほぼ同時にこちらの方を振り向く。

「先生っ!?」

「なんだ、客人か」

 男は天野をじっと見つめると何かを感じ取ったように口角を上げる。

「この男は」

「なんだ。俺になんか付いてるか」

「面白い」

「っ!?」

 天野が身構えると、数十メートル離れていた距離を男は瞬時にして詰め、自らの得物を振り下ろそうとした。

 途端に周囲を豪風が襲い、庭に生えていた草や木々は大きくその体を揺らしてその風を受け流す。

「ちっ。余計な真似を」

 青年は前を睨め付ける。

 そこには、刀を素手で受け止めている八重千代がいた。棒は微動だにしない。

「無関係の者を襲うなどと、恥を知りなさい」

「ふんっ」

 男は二人から距離を取って笑う。

「無関係だと。笑わせてくれる。最近、我々のことをこそこそと調べ回っている者がいると聞いているが、それがその男ではないのか。現に今、ここに出向いているではないか。それに」

 男は天野に好奇の目を向ける。

「……なんだ」

「その男、少々歪なものを感じる。何か得体の知れないものを隠しているな」

「たとえそうだとしても、先生は貴方とは無関係です。家を出て誇りまで捨ててしまいましたか、聡文」

「誇り、だと?」

 聡文と呼ばれた男は表情を一変させた。先ほどまで持っていた余裕は消え、その表情は怒りに包まれている。

「誇りを捨てたのは……お前の方だっ!」

 八重千代めがけて聡文は再び得物を振り下ろすが、八重千代はそれを難なく躱してしまう。その後も幾度か追撃を行うが、彼女はそれを全ていなしてしまった。

「軽く見られたものですね。貴方の目には私はそんなに弱々しく映っているのかしら」

「ああ、そうとも。もはや何の影響力もなくなったこの家にしがみついているお前を弱々しくなくて何だというのだ」

「そうですか。ですが」

 八重千代の手が棒を握るような形をとる。すると長い柄先を持った薙刀が空を掴んでいたその手に収まるように出現した。八重千代はその得物を聡文に向ける。

「そんな弱々しい私に貴方はこれから敗北するのです。さぞ口惜しいでしょうね、聡文」

「はは。戯れ言を、それでどうする――」

「構えなさい」

 風を切る音がした。

「ウッ!?」

 聡文はとっさに手にしていた刀で薙刀を受け止めるが、踏ん張りが効かず、そのまま吹き飛ばされてしまう。

 転がっていく聡文に向かってゆっくりと歩を進める八重千代。

「ごめんなさい。上手く力の加減が出来なくて駄目ね。感覚が鈍っちゃったかしら」

「……金色夜叉め」

「さて、何のことでしたか。そんなことより、悪い子には折檻が必要ね。少し懲らしめてあげましょう」

「おのれ。何故日和っていただけの者にこうまでも」

 聡文は眉をしかめてぶつぶつと呟きながら空を見上げた。

 薄暗い空に雁の群体が飛んでいる。それを見た聡文は薄い笑みをその顔に浮かべた。

「頃合い、か」

 そう言うやいなや聡文は庭の塀に飛び上がり、八重千代から距離を取る。

「少し見くびっていたようだ。この場は仕切り直すとしよう」

「聡文、貴方は一体」

「では御機嫌よう、八重千代様。くれぐれも我々の邪魔はされないように。なに、これより起きることをご覧になれば、貴方も気が変わりましょう。それまで悶々と楽しみに待っているといい」

「待ちなさいっ!」

 止めるも聞かず、聡文はそのまま塀の向こう側に消えてしまった。


 曲者の消えてしまった庭先に残された二人の間には、束の間の沈黙が起きた。

「あの、先生……」

 八重千代が申し訳なさそうに話しかける。

「あいや、すみません。全く蚊帳の外でした。しかし、人と人とがやり取りしている中に割り入むのは本当に難しいですな、はははは」

 天野のとぼけたような態度に、それまで目を伏せていた八重千代は頬を緩める。

「ふ、ふふ、蚊帳の外だなんて。先生ったら変なことを気になさるのですね」

「いえ、これが結構大事なことなんですよ。特に今の世の中はね。それより、あの男は一体何者なんでしょうか?」

「……彼は、聡文といいます」

「ああ、確かにそう呼んでいましたね」

「元々、この家の者だったのです。前々から確かに反骨的なところはありました。しかし、それでもなお私達を信じて付いてきてくれていたのです」

「ほお。まあ確かに、彼は素直な子ではなさそうだった。思春期かね」

「え、ええ、まあそんな感じかと。それが崩れてしまったのは昔、もう百数十年くらい前になるでしょうか。世に有名な維新をキッカケにして、千方院家はお暇をいただくことになりました。つまりは多くの武士だった者達と同じく自分達で生計を立てないといけなくなったわけですが、彼はそうして右往左往する一族の姿を見て、きっと嫌になったのでしょう」

「斜陽を潔しとせず、か。いえ、失礼」

「いいえ、構いませんよ。いくら取り繕っても、それが事実なのですから」

「そういえば、彼がここに来た目的は一体?」

「私を仲間に入れたかったみたいです。何処ぞに鬼の国を築いているみたいで、そこへ来ないかと誘われました」

「それだけ、か。最後に彼が言っていたことも気になるな」

「ええ。ですがいずれにしても、このまま野放しにするわけにはいきませんね」

 目を伏せる八重千代。

 その顔には深い影が落ちていた。

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