第一章 鬼惑い②

「はあ、さてどうしたもんかな」

 喧騒真っ只中の大学の食堂。あちこちから賑わいの声が聞こえてくるが、多種多様に混ざり合ったそれはもはや人の声ではなく一種の環境音である。

 そのような混沌の中、天野は一人唸り、せっかく並んでまで注文した定食にも手を付けずにいた。

「結局進展なし、か。世の中厳しいもんだ」

「随分としかめっ面だな。なにゆえそんなに不景気な顔をするのかね?」

「うわあビックリしたっ!」

 天野は慌てて振り向く。背後にいたのは十代前半かと見紛うほどの顔立ちも背丈も幼い女性、新宮智映美であった。薄手のコートを羽織った新宮は天野の様子を見て満足そうな笑みを浮かべている。

「新宮か。全く、いきなり耳元でしゃべりかけるんじゃない」

「君があまりに不用心だったからね。ついからかってみたかったのさ」

 そら、吸い物が冷めてしまうぞ。新宮が言っても天野は一向に手をつけないため、終いには「君は食堂への嫌がらせにここに来たのか」などと毒づかれてしまった。

「津田会長がいよいよ隠居をするらしいな」

 新宮が切り出すが、天野は怪訝な顔をする。

「え? ああ、誰だったかな」

「津田家のご当主様だ。ほれ、旧財閥系の」

「ああ、思い出した。あの妖怪のような男か」

「全く、君はニュースを見ないのかね。仮にも講師の職に付いているのなら、もう少しくらいは世の中の動きにアンテナを張り給え」

「そうしたいのは山々だが、生憎自分のことで精一杯なんだよ。ほらあれだ、衣食足りて礼節を知るという言うじゃないか」

「衣食は足りているではないか。君のは只の怠惰ではないかね」

「へいへい。どうせ俺は怠け者ですよ」

「子供か君は」

 そうやってすぐに不貞腐れるからチャンスを逃してしまうんだ。新宮は半ば呆れ気味に言った。

「で、例の件は、どうだった?」

「どうしたもこうしたもないさ。結局何の収穫もなしだ。肝心なことを何も教えてくれなかった」

「ほう、珍しいな。彼女は客人を邪険に扱うような御仁ではないのだが」

「別にぞんざいな扱いを受けたわけじゃないさ。ただ――」

 天野は先日の会話を思い出す。

 千方院家。

 一般には知られていないが、古来より朝廷に仕えてきた一族だということである。

 かつて人は闇を恐れていた。そこには得たいの知れないもの、自分たちの常識では計り知れないもの達が潜んでいたからだ。そして、闇の具現である魑魅魍魎の跋扈するかつての都にあって、その力を持って魑魅魍魎の類から朝廷を守護してきた者達の一つに千方院家がいた。彼らは帝からの信頼も厚く、帝への拝謁も許されるほどであった。

 ただ、千方院家には秘密があった。

 それは、一族の者ことごとくが俗に鬼と呼ばれる者であったということだ。

 彼らの間には基本的に血縁関係はない。経緯はどうあれ、鬼といういささか特殊な境遇に置かれた者達がその寄り合い所として擬制的に設けたものが千方院家である。彼らは強い結束で互いに助けあい、困難に立ち向かいながら時を過ごしてきた。

 しかし、明治期に移行するに伴って次第に妖異の脅威が薄れるようになり、召し抱える意味の薄れた彼らはお役御免となってしまう。それは今までそうして生きてきた彼らにとっては青天の霹靂であり、それ以来、彼らの結束に揺らぎが生じ始め、あるいは離散するものが出るようになった。

 いわゆる没落した家です、当主である八重千代は事も無げにそう語った。

「この件について、あまり人を巻き込みたくないのかもしれない」

 鬼惑いについては私がなんとかいたします。それに、その鬼が誰かに危害を加えることもありませんから、ご心配されずともよろしいですよ、天野は何度もその言葉を反芻させる。

「そうか。何にせよ彼女が元気そうで何よりだ。そういう意味では、私にとっては収穫アリかな」

「おいおい、お前」

「そう疑念の目を向けるな。実際、彼女が何か知っているかもという話は嘘ではなかっただろう。まあ私としては、ついでに彼女の様子を確認してもらいたかったわけだ」

「はあ、確かにな」

「私は異界騒ぎだの何だのについてはノータッチだ。後はどうするか、君が決め給え」

 そう言って、新宮は颯爽と行ってしまった。


       ○


「人の縄張りに無断で入ってくるとは、中々いい度胸をしているじゃない」

 夕暮れの北宮神社。望月の前で中年の男が倒れていた。夕日に照らされたその男は一見すると普通の人のようだが、決定的に人にない部分がある。

 男には雄牛のような角が生えていた。

「不覚である。よもや人の如きに遅れをとろうとは」

 男は呻くように言った。

「さて、どうしてくれようかしら。うーん、見世物にするには少々いかついわね」

「おのれ、悪鬼羅刹をも恐れぬその所業、貴様何者だ」

「何者も何も、私はこの神社の祭宮よ。他に答えようがないわ」

「くそ、よく分からんが、要するに巫か」

「正確には違うのだけど、まあいいわ、そういうことで。説明するのも疲れたし」

 半ば諦め気味に溜息をつきながら望月は言った。

「で、そういう貴方は鬼? それとも子鬼? それとももっと別の何か? まさかそんな雄々しい角生えてるのに人間って言うんじゃないんでしょうね?」

「はん、答える義理はないわ」

 男はそっぽを向く。

「ふうん、そう。じゃあ質問は取り下げるわ。貴方の正体は別に重要なことではないから。それより」

「なんだ?」

 男は不安そうに望月の方を見る。

「ここに入った理由を教えてほしいわ。何が目的?」

「さてな。何故答えなければならぬ」

「答えた方が身のためよ。さもないと貴方」

「ふん、どうなるというのだ?」

「これから毎晩ずっと枕に顔を埋めざる負えないような、みっともない目に遭うわよ」

 嗜虐性を伴った声音。望月はまるで新しい玩具を見つけた時の子供のように、満面の笑みをその顔に浮かべていた。

「わ、分かった。話そう」

「あら、意外と素直ね。ちょっと拍子抜けだわ」

「つ、つまらぬことで恥をかいても仕方ないからな」

 男はその尋常でない様子を感じ取ったのか、体を少し小刻みに震わせていた。


       ○


 大学の中心地に建つ菅原大学の図書館は、学生や一部教員のたまり場である。三階建てのこの建物は図書スペースや自習スペースのみでなく、ディスカッション用のエリアや各種科学雑誌や文芸誌を取りそろえた休憩室も備えており、本に飢えた人々、試験に追われる人々以外にも様々な人間が出入りしていた。

 試験やレポートの提出時期も過ぎ、比較的人の空いた図書館の自習スペース。いくつかある個人用机の一つに座り、天野は紙や手帳を机に広げて唸っていた。

「ふむ。こうやって詰めていくのも悪くはない、か」

「あれ、天野先生」

 その声に天野は振り向く。話しかけてきたのは太であった。天野はその姿を見るなり意外そうな顔をした。

「太君。こんな所で会うとは珍しいな」

「僕も一応ここの学生ですからね。天野さんはお仕事ですか? 大学の」

「いいや。例の鬼が出る件についてだよ。この前とある伝手から有力な情報が手に入りそうだと思ったんだが、不発に終わってしまった。だからまた振り出しというわけだ」

「それは残念です。お手伝いしましょうか? 微力でしかないでしょうが、猫の手よりは役に立てますよ」

「ああ、太君、ありがとう。では少し聞いてみたいのだが」

「はい。なんでしょうか」

「最近の鬼が出没するという噂について、太君が知っていることを教えてくれないか」

「それは確か、鬼惑いのことですね。そうですねー」

 太は頭を伏せて少し考えてから、思い出したように頭をあげる。

「ああそういえば、鬼が出没している地域がランダムではなくある種の規則性を持っている、というのはご存知ですか」

「ほう。それは初耳だ」

「ええ。これは知人の考察なのですが。鬼はですね、目撃情報を辿って行くとどうやら市内をブロックごとに回っているみたいなんです。多少乱雑性はありますが、ある日は港湾地区、又ある日は住宅地、又ある日は大学地区、など」

「そうか? 俺も地図上でマークを付けてみたが、そんな風にはとても思えなかったが」

「すみません、ちょっと地図を見せてもらっていいですか?」

 太は天野がペンで紙に書きつけた地図を覗き込む。少し見るなり、顔を横に振る。

「確かにこれでは、推察のしようもないですね」

「ん? どういうことだ。これで目撃情報は揃っている筈だが」

「天野先生。あの、電子掲示板とかは見ていないですか?」

「学校の講義情報をとかを掲載するあれか?」

「いえ、それとは違います。匿名掲示板です。なんとかちゃんねるとかってよく聞きませんか」

「ああ、分かった。だが、そういうのはあまり見ないようにしている。何か変なものに引っかからないか怖いからな」

「そうですか。それならこの情報量は頷ける」

「ん? つまりなんだ、電子掲示板にはこんな噂話まで書かれているのか」

「ええ、それはもう一杯。むしろ、こういう記事の方が盛んにやり取りされてますよ。皆、なんだかんだ言ってオカルトな話や低俗な話が大好きなんです。天野先生、この手帳に目撃情報とか、書いていっていいですか」

「もちろん」

「では遠慮なく」

 太は机上に置かれていたペンを借りて次々に手帳に情報を書き込んでいく。

「うん、こんなもんかな」

「どれどれ、見せてくれないか」

 天野は手帳を覗き込む。地図上には天野が書き込んだものより多くの情報が書き込まれており、パッと見たらそれが地図なのかが分からないくらいである。

「どうですか。ちゃんと情報は信憑性のあるものだけを書き込んでいます」

「ふうむ。言われてみれば確かにそう見えなくもない。だが何故そんなことをしているのかね」

「さあ、それまでは。ただ、適当にぶらついているわけではなさそうです。何か目的を持っているのかも」

「目的、ね。こんな人里に出てきて人を取って食うわけでもなし、一体何がしたいんだか」

「案外、探しものをしているのかもしれませんね。最近、目撃情報がなくなってきたのは探しものを見つけたからかも」

「待ってくれ。目撃情報がなくなっているだって」

「ええ、ご存知でなかったですか? まだ完全に目撃情報が絶えたわけではありませんが、これは学生の間でも話題になっていますし、てっきり知っているものかと」

「いいや、ありがとう。太君」

「いえ、どういたしまして」

 太は思わず顔を少し横にそらす。目はやり場のなさそうに宙を泳いでいた。

「この目撃情報なんだが、直近で目撃された場所は何処だろう」

「菅原公園付近ですね」

 菅原公園は市内でも有名な公園である。中央に湖を配したこの公園は市民の憩いの場所となっており、夏にはここで花火大会も催されている。

「あの公園か」

「景勝地ですからね。そういえばここだけ、他より目撃頻度が多い気がします。鬼の物見遊山といったところでしょうか」

「呑気なもんだ。こっちは詰まっているという――」

 ふと、天野は何かを思い出したように目を見開く。

――あの付近は確か。

「どうかしましたか?」

「藤坂に近い。もしそうだとすれば」

「え? どうしたんですか?」

 きょとんとしていた太を尻目に天野は急に席を立ち、机に散らかしていたものをまとめ始める。

「太君。すまない、急用ができたのでこれで失礼する」

「え、ああ、はい」

 嫌な予感がするな、天野は荷物をまとめて外へ向かいながら、微かな胸騒ぎを感じていた。

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