鬼姫奇譚
第一章 鬼惑い①
「まあ可愛い子。これからよろしくね、坊や」
その人は頼る者もおらず、ただ野垂れ死ぬ運命であった自分を引き取ってくれた。
「怖がらなくても大丈夫よ。誰も貴方を傷つけたりはしないわ」
その声は優しさと慈愛に満ちていた。安らぎをくれる人。多分それは、見えたことのない母という者に対して感じる感覚だったのであろうと思う。
別に怖がってなんかない、と自分は不躾に言っていたのを覚えている。自分でも酷い話だと思う。何ら価値のない捨て子同然の自分に手を差し伸べてくれたというのに、それを仇として返したのだから。もっと、子供らしく愛想を振りまいていればいいものを、やはり自分は生来から愚かであるのだろう。
だが、彼女はそれに不愉快の意を示すことなどなかった。ただ、優しく頷いた。
「そう、強い子なのね。でもこれからは一人で何でも抱え込まないでね。辛い時や苦しい時は私達に相談すること。いい?」
「なんで、僕なんかにそんなに構ってくれるの」
「なんで? そんなの当然じゃない」
「当然?」
「ええ、当然。だって、貴方は私達の家族になるのですもの」
無垢だったその顔は今も脳裏に焼き付いている。私にとってそれは太陽であった。
一体、あれからどれくらいの時が経ったのであろうか。
世は移り変わり、それに併せて必要とされるものや役割は変わっていった。
猛き栄華も遂には夢の跡。
決して揺るがないと思っていたそれは、簡単に軋みを立てて崩れてしまった。
耐えられなかった。
自分の居場所であった、誇りであったここが過去のものになっていくことが。それを崩されてしまったことが。
だから私は――
○
「ここか」
天野は車を駐車場に止め、石段を登った先に建っている武家屋敷風の建物を見上げる。
菅原市郊外にある閑静な住宅街、
(さて、本当にこれで解決の糸口は見つかるのかね。きゃつのことだ。俺をけしかけて何かよからぬことを考えているかもしれん)
まあ他に行く当てもないしな、などとぼそりと呟きながら天野は石段を登っていく。
屋敷前入口に立ち、天野は門を見上げた。四メートルはあろうかという重厚な瓦葺きの屋根に少しくすんだ木の門の存在は、その家がどういう存在であるかを語るのに十分な威容を誇っている。
「やれやれ、大層なお屋敷で」
天野は外観から測りうる屋敷の大きさに感心しながら門の脇にあるインターホンのボタンを押す。今時、こんな屋敷に住んでいるのはどんな人物なのか。天野は心ならずも興味を惹かれていることに気付き、少し苦笑した。
「はい? どちら様でしょうか?」
繋がったインターホンから聞こえてきたのは中年の男性の声。落ち着いた淀みのないその声はどことなく安心感を天野に与えた。
「失礼。紹介された天野ですが」
「お待ちしておりました。どうぞ、中へお入りください」
そう言うや否や、門の扉が一人手に開いた。
「そのまま玄関の方へお越しくださいませ」
「ありがとうございます。それでは」
玄関に着くと、短く刈り揃えられた品のある口ひげが特徴の男に案内され、応接間へと天野は通された。
「綺麗なもんだ。俺も、こういうのを愛でる余裕くらいは持たんとな」
開け放たれた縁側から庭の方を見やり、天野はぼそりとつぶやく。庭からほのかに香しい匂いが漂ってくるが、おそらく、庭に植えられている木から出ているのであろう。
天野が柄にもなくウットリしていると、着物の擦れ合う音が聞こえてきた。当主様のご到着か、と天野は姿勢を正し服装を整え、家の主人を迎え入れる準備をする。
しかし、衣擦れの音は襖の向こうで止まったまま、何の反応もない。
一体どうしたのか、天野は襖の方を見つめ、怪訝な顔をする。
「あの、どうされました?」
耐えきれなくなって、天野は声をかけた。しかし、やはり反応はなかった。
「おかしいな、聞こえていないのか。あの! 一体どうした――」
「えいっ!」
「う!?」
天野の目の前が突如暗くなる。一瞬、何が起きたのか分からず天野は困惑してしまった。
「どうでしょう。驚かれました?」
可憐な花のような声がした。
「え、ええ。それはもう。色々と」
「うふふ。それはようございました」
その無邪気な声を聞きながら、彼は意地の悪い知人から聞いていたことを思い出した。
――この千方院家の当主は悪戯が好きである、と。
「では改めまして。私が千方院家の当主、八重千代にございます」
そう言って八重千代と名乗った女性はゆっくりと頭を下げ、やんわりと微笑む。
「天野幸彦と申します」
天野は、少し訝しげに目の前の日本人離れした容姿の女性を見つめる。白を思わせる薄く長い金髪に白い肌のこの女性はしかし、着物に身を包んでおり、その対照性がより一層千方院八重千代という存在を際立たせていた。
「あの、どうなさいました?」
八重千代は自分を見てぼーっとしている天野の様子に首を傾げた。
「あ、いえいえ、何でもありません。さっきのことは、ひょっとして誰にでもやっているのですか?」
そう聞かれると八重千代はにっこりと微笑んだ。
「いえいえ。そんなことはありませんよ。私も子供ではありませんので、ちゃんと人は選んでおります」
つまり俺は悪戯しても問題ないと思われたわけか、天野は内心げんなりする。
「不躾ながら、早速話に入りたいところですが」
「鬼が市内に出没している、という件でしょうか?」
「はい。それについて新宮から、貴方が何かご存知ではないか、と伺って参ったのですが」
「はて、鬼ですか」
目を伏せて考えこむ八重千代。何か心当たりがあるらしい、と天野は思った。
鬼惑い。最近、いかにも鬼のような風体をした男が、夕方から深夜の菅原市に出没しているという噂が立っており、そのことを巷ではそう呼んでいた。だが所詮は只の噂。本来ならばすぐに静まる筈だったが、警官を始めとした人間の目撃証言も出始めており、そのことが噂の信ぴょう性に拍車をかけることになった。
当然、始めは静観をしていた客士院もこの件を放置をしているわけにもいかず、天野が動き出すことになったのである。
八重千代はふと思い出したように顔をあげる。
「ところで、天野様はそのようなことをお知りになってどうするおつもりなのでしょうか?」
「もちろん、この馬鹿げた騒ぎを解決するつもりですが」
「そうですか。では少しばかり質問を変えましょう。貴方を見くびっているわけではございませんが、もし相手が暴漢の類でなく本当に鬼だったら、どうなさるおつもりでしょうか?」
「それはもちろん、桃太郎よろしく鬼退治と洒落こむしかありませんな、ははは」
「ふふ、まあ随分と事も無げに語られるのですね。流石は智映ちゃんのご友人、といったところでしょうか」
「まさか、友人なものですか。私があれに一方的に振り回されているだけです。それより、何か知っておられるのであればお教えいただきたいところですが――」
しかし、八重千代はそれには答えず外の方を見やる。
「少しばかり、縁側の方に出ませんか」
「この時期になると、庭の梅が香ばしくなって、とてもいい匂いをさせるのです。天野様は花に興味はおありですか?」
「いえ、生憎あまり」
「そうですか。普段屋敷に篭っていると、こういうことばかりに目がいってしまいます。今時少々古臭いでしょうが」
「いいえ、そうは思いませんよ。少なくとも、花を愛でる女性というのはいつの時代も風情があって魅力的なものです。むしろ今時なぞはー」
「うふふ。口がお上手なのですね。そうして、何人の方を口説かれてきたのでしょうか?」
「ははは、そんなまさか。私みたいな根無し草に女性は寄ってきませんよ。いつも日々の生活で精一杯です、学校の非常勤講師というだけでは心もとない」
「あら、先生でいらしたのですね。智映ちゃんと同じ」
「あれの方が全然偉いですよ。まあ、あんなんだから丁重に接する気も失せてしまうのですが」
八重千代は口に手をあてて、ふふ、そうですね、と目を細める。
「しかし貴方は随分なお嬢様のようだ。やはり、旗本か華族の末裔といったところかな? それとも、異人の末裔?」
「……私のことは、智映ちゃんから何もお聞きしていないのでしょうか?」
「さあ。貴方と知己であり、この件について何か手がかりを持っているかもしれない、ということ以外は何も聞いていませんが」
「そうですか。もう智映ちゃんったら、つくづく意地悪な方ね」
庭の方を愛おしそうに見ていた八重千代は天野の方を向き、そっと告げる。
「天野様。突飛なことをと思われるかもしれませんが、私が仮に人間でないと言ったら、信じてくださいますか」
「さて、それはどうでしょう。裏稼業柄そういうのは見慣れていますが、ここまで人里で根を降ろしている例はあまりない。信じるにしても、何か証拠がほしいといったところです」
「そうですか。では、仕方ありません。少々強引ですが」
そう言うや否や、八重千代の周りの風の流れが微かに変わり始めた。
そしてそれは地に落ちていた木の葉を巻き込んで次第にうねりを大きくしていき、まるで生き物のように躍動し始めた。
「これは」
天野は目を見開く。
「少しは驚いていただけたようですね。ですがこれはほんの前座。次にはこれを――」
天野は慌てて彼女を手で制す。
「あ、ああいや。いいや。そこまでで大丈夫です。もう分かりました」
「あら残念。もう少し驚いていただこう、などと胸を踊らせておりましたのに」
八重千代の言葉と共に、さっきまで踊っていた木の葉達は静かに地面に落ちていった。
「はは、そいつは結構です。しかし、貴方は一体……」
「旗本や華族の末裔ではありません。無論、異人の末裔でも。ですが、当たらずといえども遠からず、といいましょうか」
そうして八重千代は静かにこう告げた。
私はいわゆる鬼です、と。
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