第二章 考本②
旧市街の一角にある東方文庫。ここは明治時代に資産家であった早川氏が自分のコレクションを市民に開放するために開設された私設図書館である。ルネサンス建築のこの建物は本の有償貸出の他、読書・自習スペースの提供なども行っているため、試験前にもなるとよく大学から流れてきた学生で賑わっている。
「小梅ちゃんか。珍しいね、こんな所に来るなんて」
ほっそりした中年男性は刈り揃えられた自分の髭をさすりながら呑気そうに言った。
「ご無沙汰してます。早川さん」
「今日は何の用だい? 自習?」
「いえ、自習ではないです。早川さん、つかぬことをうかがいますが、”生きている本”って知ってますか?」
生きている本、と聞いて早川は「ううむ」と唸る。
「そういう本があると聞いたことはあるが、実物を見たことはないな。そういうのって、ほら、付喪神というのとは違うのかい?」
「多分違うのではないかと思います。意図せずして物に意志が宿った、というものではなく、元から意志を宿して作られたみたいなので」
「なるほどなあ。ああ、ひょっとしてその本について探しに?」
「はい。詳しくはお話出来ませんが」
「まあそれならそれでいいさ。女子高生の繊細な内面にズカズカと土足で入り込むほど、無粋なやつでもない。さて」
早川は受付カウンターの席からゆっくりと立ち上がり、弓納にカウンターの中に入ってくるようジェスチャーを飛ばす。
「付いてきなさい」
「はい、よろしくお願いします」
東方文庫は市民にコレクションである書籍を提供しているが、それは表向きの話である。ここには、一般に開放されていない区画が存在する。
葦原文庫。古今東西の奇書、あるいはそれに関する情報が所蔵されている部屋である。元々は蒐集家であった早川氏が所蔵していたものだけだったのだが、”奇特な人間”などからの寄進によってその数を増やしていき、今では一万冊の蔵書を持つに至っている。そして、破格の利用料金で運営されている東方文庫の経営を支えているのは、そうした奇特な人種からの支援によってであった。
ここを利用出来る者は限られており、弓納ら客士もその利用条件に該当する者の一人であった。
「書名が分かるなら、目録で探してみるといい。概要だけ知りたいなら『幻書集成』が一番手っ取り早いかな。分からないことがあったら聞いてくれ」
葦原文庫の入り口で早川は言った。
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ終わったらまた声をかけてくれ」
「考本の起源は古く、確認されている限りでは古代メソポタミア文明まで遡ることが出来る。当時の文書行政を始めとする人間の様々な活動は粘土板によって担われていたが、いかんせん物がかさばるために、その欠点をどうにかしてしまおうと考える者達がいた。それは古代の魔術師であるが、彼らは……考え……端末として……ここらへん、欠けてる」
分厚く重厚に装幀された巨大な本を書見台に置いて、弓納はページをゆっくりとめくっていく。
「ふう。なんだか、大事な所が抜けてるような」
探している本の名前は『Promethean filia《秘匿されるべき書架》』。ひい爺ちゃんは考本って言ってたわ、弓納は日夏から伝え聞いていたことを反芻しながら、ゆっくりと本を閉じた。
「おや、考本ですか。懐かしいな」
「わっ!」
弓納は咄嗟に振り向く。そこには、彫刻のように顔立ちの整った長身の男が立っていた。
「失礼。驚かせてしまったようだ」
男はゆったりとした動作で軽く頭を下げる。
「いえ、別に大丈夫です」
「私は秋月洋介という。君の名前は?」
「弓納です。弓納小梅。失礼ですが、秋月さんは外国の方、でしょうか?」
「いいや、名字の通り日本人だよ」
「そうなのですか? 確かに、日本語はナチュラルですが」
「はは、やはり見た目がそう見えてしまうからか。そうだな、昔は確かに日本人ではなかったが、色々あってね。さて、そんな私の身の上話より、ふむ、弓納君。君はまたどうして考本などというものに興味を?」
「それはのっぴきならない事情が有りまして。あの、考本について何かご存知なのですか?」
「ああ、少しくらいだが知っている。考本というのは生きた魔導書だ。自分で物を考え、行動する。今で言う所のArtificial Intelligence、つまりAIといったところか。中には魔術の類を駆使する考本もある」
「魔法使いの本なんですか? あれ、本の魔法使い?」
「ははは、そこは魔法を使う本、でいいのではないかな」
「そ、それもそうですね」
「余談だが、本などと銘打ってはいるものの、別段本の姿をしているとは限らない。それこそ、どういう姿をしているかはその製作者の思想、嗜好性によりけりなのだが」
「なるほどですね。ありがとうございます、参考になりました」
「いや、これくらいは構わないよ」
「秋月さんはここには何を?」
「遠い昔に読みそびれた本があってね。それがここにあると聞いたから読みに来たのさ」
「客士、でしょうか?」
「まあそんなものだと思ってもらっていい。君も”この世界に関わる者なら”またいずれ会うこともあるだろう」
秋月は踵を返そうとしたが、ああ、と弓納の方を振り返った。
「それと一つ、考本について大事なことを伝え忘れていた」
○
「ああもういけない、遅くなっちゃった」
日夏は急いで荷物を学生カバンにまとめる。外はもうすっかり日が沈んで闇が町を包んでいた。
「まだ八時くらいだってのに、どうして学校ったらこんなに夜中にいる気分にさせてくれるのかしら」
そう言い放ちながら彼女は生徒会室の明かりを消して廊下に出る。
「流石にもう誰もいないわよね。さっさと鍵戻して帰ろうっと」
「ねえ、……ちゃん」
「お?」
日夏は廊下の前方を見て、それから後方を振り返る。
「気のせいか。私疲れてるかなーひょっとして――」
突如、日夏の横を突風が通り過ぎた。乱れた髪の下からは、ゆっくりと汗が滴り落ちていく。
「ど、何処かに窓でも空いてたかな。うん、きっとそうだ」
「そんなわけないでしょう。すぐに現実逃避する癖はいつまでも治らないのね」
何処からともなく、女の子の声が廊下に響く。聞き覚えのある声。最後に聞いたのはいつ頃だっただろうか。
「……その声」
「そうよ。久しぶりね、”アリスちゃん”」
「ちょっと、こそこそ隠れてないで顔出しなさいよ」
「ふふ、残念だけどそれはお断りするわ。それよりいいのかしら?」
「な、何がよ」
「小梅ちゃん、あの娘のこと」
「え、あんた……!」
「どうしてそんなに怒るのかしら。あの娘を巻き込んだのは貴方でしょう?」
「う、それは」
「確かにあの娘、どこか浮世じみた気配があるものね。貴方がどうやって彼女に協力させているのか分からないけれど、当てにする気持ちも分かるわ」
「あの娘に非道いことしないで。そんなことしたら許さないから」
「……じゃあね。これ以上余計な詮索をしないんだったら、私も何もしないわ。でも、まだ詮索するんだったら、ね?」
そう言い残したきり、声はしなくなってしまった。
「させないわよ、そんなこと、絶対に」
日夏は誰もいない虚空に向かってポツリと呟いた。
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