第二章 異変

 宿は役場からほど近い所にあった。山を背にした木造二階建ての小さな旅館で、古民家を改装したらしい宿はどこかレトロな佇まいを感じさせる。

「無駄に歩き回ったから、疲れちゃったわ」

 二階にある部屋に入るなり、望月はそう言って座り込んだ。部屋には中央にテーブルと腰掛けある以外はテレビ、電気ポッドなどが設えてあり、どこにでもあるような旅館の和室だった。窓の外は相変わらず田んぼが広がっている。

「湖の方は、何か収穫はあったんですか?」

「うーん、あったとも言えないし、かといって全くなかったわけでもないかんじ。今日は時間がなかったから、明日も要調査ね」

「なるほどですね。一筋縄ではいかない、といったとこでしょうか」

「さて、どうでしょうね」

 望月の言葉に太は首を傾げる。

「どういうことですか?」

「今日会った人達の態度よ」

「ああ、そのことですか。神隠しは村の大人たちに共有される秘密、ですよね」

「そう、多分それは間違えていないと思うの。でも、それだけじゃなくて、神隠しって言った時のあの少し怯えているような表情。ちょっと気がかりね」

 どうしたものかしらね、ゆっくりと背伸びをしながら望月は呟いた。

「さあさ、面倒な話はこれくらいにして、今は旅の疲れを取りましょう」

「はい、ところで」

「どうしたの?」

「部屋はここだけだったりするのですか?」

 太はおそるおそる聞くと、望月は微笑みながらそれに答えた。

「ちゃんと別に取ってあるわよ。念のため隣に」

「そうでしたか」

「それとも一緒がよかった?」

「け、結構です」

 太は頬を赤らめてそそくさと部屋を後にした。

 望月と別れてから、太は途中夕食で部屋を出る以外は今日起きたことを愛用の手帖にまとめたり、息抜きに小説を読んだりしつつして時間を過ごしていた。そうしている内にやがて夜は更けていき、いつしか時計は十二時を過ぎつつあった。

ここの住人は一体何を隠しているのか、などという答えの出ない問いの周りを何度も行ったり来たりしつつ、やがて明かりを消して太は床につく。夜の和室は窓から虫や鳥の声が鳴り響き、さながら自然の大合唱を聞いているかのような様相を呈していた。

 よそ者に対する敵意を持っているわけではない。寝床の中でふと太は考えた。ならいっそ開発に反対している人に話を聞きにいくのはどうだろうか。

「望月さん」

 襖越しに望月を読んでみたが、返事がない。

(もう寝ちゃたのかな。まあいいか、明日話せばいいんだし)

そうして太はそのまま眠りについた。


       ○


 外から物音がする。普段なら取るに足らない騒音だろうと歯牙にもかけない程の大きさの音。しかし、今はどうしてもそれが意識の中に入ってきてしまう。

 太一が耐えきれなくって目を覚ますと、そこは薄暗闇の部屋の中である。時はまだ夜中であった。

「一体なんなんだ、こんな夜中に」

 太はうつらうつらしながら窓の外を見やると、一瞬にして頭を覚醒させるものがその目に飛び込んできた。

「なに、これ」

 旅館の入り口辺りには点々と松明の火が明かりを放っており、その元に人の顔がいくつか浮かび上がっていた。彼らは互いに何かを話し合っているが、その内容は離れているこちらまでは聞こえてこず、表情も読み取ることが出来ない。

 不意にこちらの方を見やる男がいた。

 やばい、咄嗟に太は窓から顔を離した。

 太は瞬時に悟った。理由は分からないが、この異常な事態は十中八九自分達に関することだろうと。太は静かに、音を立てないようゆっくりと望月の部屋の方へと向かう。

 息を殺しながらそっと襖を開けた。隣の太の部屋と同じく、暗闇の部屋の中を見やる。部屋の中を一式見回して太はようやく理解した。

 その部屋はもぬけの殻だということに。

(望月さん。こんな時に一体どこに……!)

 太は心の中で狼狽したが、すぐに我に帰る。今はそれより、なんとかしなければ。

 太は自分の部屋に戻り、ボストンバッグから素早く長方形の木箱を取り出した。

 木箱の蓋を開ける。中から出てきたのは筆であった。

(前に望月さんから教えてもらった方法は確か)

 太は左手に筆を握り目を閉じる。そして徐ろに右手に筆を走らせた。

 全身に書く必要はないわ、っていうか一人じゃ書けないでしょ。望月の言葉が記憶の脳裏に甦る。

(とはいえ、耳なし芳一みたいにはならないかな。少し不安だ)

 そんなことを考えている内に旅館の戸を叩く音がした。

(考えている暇はないか。早くここから出ないと)

 太は必要最低限の物を携行して、寝巻き姿のまま部屋を後にした。一階に降りると、旅館の女将が深夜の訪問者に対応している。太がおそるおそる近づいてみるが、誰も太に気付いている気配はなく、まるでそこにいないものであるかのようにやりとりを続けている。

(よし、狙い通り。見えてないみたいだ)

 太が右手に書いたのはまじないの一つである。「神字」と呼ばれる特殊な形状をした文字を一定の規則に沿って体の一部分に書くと、その姿を見えなくさせることが出来る。ただしあくまで見えなくするだけであって掴むことは出来、声などが消えるわけでもないので音を立てれば容易に居場所が分かる代物であった。

 太はそのまま女将と話していた男の脇をすり抜ける。外に出てみたが、集まっていた者達はただ玄関の様子を伺うほかは、時々太と望月のいた客室の方を見やるばかりである。

(本当に誰も気付いてないみたい。これって便利だな。まあ別に悪用するつもりもないけど。さてと)

 太がその場を後にしようとすると、女将が事情を理解したのか男を渋々中に入ているところであった。他に集まっていた者達もその後に続く。

「やれやれ、間一髪」

 太一は人の気のなくなった旅館の入り口で小声で呟いた。


「はあ、どうしたものか。少なくとも、今起きていることを解決しないことには旅館には戻れないだろうし」

 太一は右手に書かれた文字を見やりながら吐息を漏らした。

「困ったね。このまじないも僕の技術じゃ持って後十二、三分ってところか」

 少し体が重かった。元々の体の疲れもあるのだろうが、おそらく、このまじないによるものが大きいのだろう。望月曰く、多用しないこと。一時的とはいえ体の性質を変えてしまうものなのだから、体にそこそこの負担がかかるらしい。そしてどれくらいの負担がかかるのかを以前太は聞いたが、「そうね。感覚的にはランニングを続けているくらいの負担がかかるかしら」と望月が答えたことを思い出す。

 当て所もなく村の小道を歩いていると、住人らしい男が明かりを持って何やらそこここを照らしていた。

「……誰か探しているのかな」

 小声で太が呟くと、男が眉をひそめてその場を照らした。太は咄嗟に口をつぐんだが、男はそこに誰もいないことを認めると、怪訝な顔をしつつもまた別の所へと明かりを向けた。

(あ~危ない、声は聞こえるんだったな。独り言なんて言うもんじゃない)

 おそるおそる男の側を通り過ぎようとする。

「全く、こんな深夜に二人組の男女を探せだなんて無理があるよ」

 男は唐突にぼやいた。太は思わず反応しそうになったが、なんとかこらえた。

 やはり、この男は自分達を探している、太は考えた。今頃宿に入った男達は部屋がもぬけの殻だったことに気付いて慌てふためいている筈だ。では次に何をするのか。

(決まっている。もしこれが村ぐるみなんだったら、他の住人に連絡を取って探させる)

 つまり、今この村にいては危険であるということである。好意的な印象を受けた村人の家やあるいは村長の家に匿ってもらうことも考えたが、こうなってくると彼らもどこまで信用出来るかは分からない。例え彼らに害意がなくとも、先程の男達に有無を言わさず家に押し入られてしまえば一貫のお終いだ。

(とりあえずどこか村の外れに行くしかない)

 そこまで考えて太は思った。

(望月さんは夕暮れ頃に湖の方に行っていたっけ。どうせここらをうろちょろしても仕方がないし、一回行ってみよう)

 太がその場を後にしようとすると、男がぼそっと呟いた。

「神様ってのも酷いね。何も祟ることはないじゃないか。ちょっとあんまりだ」


 神社の辺りの方は人がまばらに集まっているようだったので、迂回して湖へと続く別の山道を登っていった。

「望月さん、一体どうしてるのかな」

 携帯で連絡を取ってみたものの、電源を切っているのか、返ってきたのは機会音声による味気ないアナウンスだけ。

「まさか捕まっているわけじゃないだろうけど」

 山道の坂を駆け上がっていく内に少しずつ息が切れてきたので、太は走るペースを弱めることにした。

「はあ、目的地に着いたらとにかく休憩だ。それからどうするか考えよう」

 ほっと一息ついて、何の気なしに山道から外れた脇の茂みを見やった。生い茂った草木の隙間は深い暗闇に包まれていて、中身を窺い知ろうとすればたちまちに呑み込まれてしまいそうな恐ろしさがあったが、それに相反するかのように所々から虫の心地よい音が聞こえてくる。

 そうして耳を澄ませながら、茂みをぼんやりと眺めていた太一は息を呑んだ。

 見やった場所から一瞬誰かの視線を感じたのである。しかし暗闇の中を目で凝視してみたものの、人影らしきものは特に見当たらなかった。

(流石に気のせいか。あんな所に人がいるわけがない)

 太は茂みの方へ意識を集中することをやめ、再び歩き出そうとした。

(もうちょっとの辛抱だ。頑張れ)

 不意に、太の視界は大きく揺れ、そして為す術もなくその場に倒れ込んでしまう。

 体を動かそうとしても言うことをきかない。

「からだ、が」

「悪いな、坊主」

 薄れゆく意識の中で誰かが呟く声が聞こえた。

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