第79話:伊田さんへの誕生プレゼント?

 広志が水の中を歩き始めると、伊田さんが広志の背中に寄り添うように、ぴたっと後ろをくっついてくる。


「伊田さんは、ここで待っててくれてもいいよ」

「いや、なんか一人でいるのは誰かに声をかけられたら不安だし……空野君にくっついてた方が、他の人に見られないから安心するんだー くっついたらダメかな?」

「あ、いや、もちろんいいよ」


(それもそうだ。いくら水中とは言っても、一人でぽつんと立ってるよりも、僕の身体に隠れてるほうがいいのかもな)


 そう思って、広志は伊田さんが付いて来やすいように、ゆっくりと水中を歩いて進む。


 ──とは言うものの……


 上半身裸の伊田さんが、背中にぴたっとくっつくようにしてる。

 それを想像すると、広志の頭の中には、さっき見た腕の間から垣間見える胸のふくらみが、ついつい思い浮かんだ。



 その時急に後ろの伊田さんが「きゃっ!!」と声を上げて、広志の肩にしがみついてきた。そしてしがみついた伊田さんの体重が、広志の両肩にかかる。


 水中なんで重くはないけど、肩にかかる重みで、より一層伊田さんが密着してるのを感じる。


「ど、どうしたの?」

「足が滑って、こけそうになった……」

「大丈夫?」


 広志は決して後ろを振り向かないようにして、伊田さんに声をかけた。


「うん、大丈夫。ごめんよー」


 伊田さんが体勢を立て直そうとして広志の方に身を寄せた次の瞬間、広志は何か柔らかいものが二つ、背中にぷにゅっと当たるのを感じた。


 同時に頭の中に、伊田さんの可愛い顔が浮かび上がる──


(こ、これはまさか!? 伊田さんの……生の……!?)


 広志は頭の中が沸騰して、ぐるぐると目が回るのを感じて、気が遠くなりそうになった。


「あ、ごめん空野君!」


 伊田さんは慌てて、広志の背中から身体を離す。


「あ、いや、大丈夫」


 大丈夫だって言いながら、広志は何がどう大丈夫なのか、自分でもよくわからない。

 ホントは思わず口から『ありがとう』って言葉が出そうになったくらいだ。


 でもそんな言葉を吐いたら、思いっきり伊田さんに軽蔑されるに決まってる。


「伊田さんこそ、ホントに大丈夫?」

「うん……」

「じゃあ、プールサイドの方に、歩いて行こうか」

「うん」


 また伊田さんが広志の背中の後ろに隠れるようにして、そろりそろりと水中を歩きだす。


「それにしても他のみんなは、なんでこっちに来ないんだろう。女の子達がいてくれたら、伊田さんも僕にくっつかなくて済んだのにねぇ」

「あ、あの……それは……みんなが気を遣ってくれたんだぁー」

「へっ? なんの話?」

「今日はさ。私の誕生日なんだ」

「えっ、そうなの? ごめん、全然知らなかった」

「うん、空野君には言ってなかったし、気にしないでいいよー」


(……で、伊田さんの誕生日が、どういう関係があるんだ?)


「でね。凜ちゃんが他のみんなに、『今日は伊田さんに、空野君を独占させてあげよう』って言ってくれたんだぁ」

「そ、そうなんだ!?」

「うん。私への誕生日プレゼントだって」


(ありゃま。僕の知らない所で、そんな話ができあがってたのか)


 そういえばプールに来る日程を決めた時、伊田さんは日にちを聞いて、ちょっと戸惑ってたことを広志は思い出した。


「そっか。だからみんなは、一緒にこっちには来なかったんだ」

「そうなんだよー それとね、空野君……」

「ん?」


 伊田さんは言いにくそうに、言い淀んだ。


「どうしたの、伊田さん?」

「あ、あのっ……凜ちゃんがさ……」

「うん?」

「せっかくだから、空野君と恋人気分を満喫しなさい! なんて言うんだよー どう思う?」

「えぇっ? 恋人気分!?」


 凜のヤツ……僕にはそんなこと、ひと言も言ってなかった。

 なんでだ? サプライズか?


 広志はびっくりして、思わず後ろの伊田さんを振り向いた。伊田さんは真っ赤な顔でうつむいてる。


 そして揺らめく水面の下に、伊田さんの小麦色に焼けた肩と、真っ白な胸が見えた。

 コントラストがあまりに綺麗過ぎて、広志は目がつぶれそうになる。


 広志は絶句して固まった。


 伊田さんは何気に顔を上げて、広志に見つめられてることに気づいた。


「ああっ、そ、空野君っ! 見ちゃイヤだーっー!」


 伊田さんは胸を両腕でしっかりと隠して、顔を背けてしまった。


「あ、ごめん! わ、わざとじゃないんだ! ホントにごめん!」


 広志はすぐに前を向いて、伊田さんに背を向ける。


「あ、あのさ、空野君」

「は、はいっ!」

「恋人気分って……そういう意味じゃないから」

「あっ、わかってる。伊田さんの裸を見てもいいなんて、思ってないからっ!!」


 大慌てで顔を左右に振る広志の背中を見て、伊田さんはプッと笑った。


「あははー、空野君って、ホントに真面目だなぁ〜 気を遣ってくれてありがとー」

「あ、いや、気を遣ってるなんて、そんなことはないよ。思わず振り返って、ホントにごめん」


 さっきは背中に伊田さんの生の胸を感じたし、今度は水中とは言え、生肌を見てしまうなんて。


(ヤバい。興奮しすぎて死んでしまいそうだ)


「変なことを言ってごめんよ。凜ちゃんはそう言ってくれたけど、恋人気分なんて空野君には迷惑だよねー」

「いや、僕は全然迷惑なんかじゃないよ。でも伊田さんはどうなの? そんな擬似的なことなんて、かえって嫌に思わない?」

「私は……変に思われるかもしれないけど……嫌じゃない。凜ちゃんの心遣いも嬉しいし、今日だけでも空野君と恋人気分でいられるのなら、嬉しいんだ」

「伊田さん……そっか、わかった。そうしよう!」

「ありがとう空野君。ごめんよ。ホントにごめんよ」


 振り向くわけにはいかないから、伊田さんの表情はわからないけど……彼女はちょっと涙声になってる。


「じゃあさ、空野君のこと、広志って呼んでいい?」

「えっ? あ、ああいいよ」


 案外、伊田さんって積極的だ。

 驚いた。


「私のことも、名前で呼んでくれる?」

「う、うん」

「よーしっ!」


(えっ? 『よーし』って何?)


 伊田さんは広志の後ろから、耳元に口を近づけてくる。耳たぶに伊田さんの息がかかる。


「ひ、ろ、し……」


(うわぁっ、ズキューンと胸に来た……よし、お返しだ)


「な、なんだよ、天美あまみ


 一瞬沈黙が流れた。伊田さんの返事がない。

 もしかして、受けが悪かったのだろうかと広志は不安になる。

 だけど次の瞬間、鼻にかかって甘えたような伊田さんの声が、広志の耳に届いた。


「うわーっ、キュンとするぅ〜」

「そ、そう?」

「うん!」


 伊田さんの嬉しそうな声が耳元に響く。喜んでくれて良かった。

 思いのほか評判は良かったようだ。


 (でもこれが……恋人気分ってやつか。

 いいな……恋人気分)


 広志はそんなことを能天気に考えていたけれど、よくよく考えたら、伊田さんの水着が流されてしまったという危機的状況は、なんら解決していない。

 伊田さんが上半身に何もつけてない、今の状況。

 広志はそれを思い出した。


 こんなところでイチャイチャと、バカップルを続けてる場合ではない。

 誰か他の人に伊田さんの胸を見られてしまうリスクもあるし、広志が興奮しすぎて、頭がおかしくなるリスクも多大にある。


 こんなに楽しいのに……大変残念ではあるけれど、それは仕方がない。


「あ……天美。そ、そろそろ、プールサイドの方に行こうか。もうちょっと近づいたら、きっと凜たちに声が届くから、助けを求めよう」

「う、うん……そうだね。あまりに楽しくて、ついつい遊んじゃったよー」

「そうだね。それは僕もそう」

「ごめんね、広志」


(ああっ!! 広志って呼ばれ方に、またきゅーんって来てしまったぁ……)


 イカン。このままでは、ホントにきゅん死してしまう。

 広志はマジでそう思った。

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