第32話:凜に伊田さんのことを伝える

 伊田さんは潤んだ瞳で「お願い、空野君。好きでいさせて」と言った。


「う、うん。だけど僕は伊田さんの気持ちに応えられないのに、ホントにいいの?」

「うん。今はホントに、それでいいと思ってる」


 伊田さんははにかんで笑った。


(仕方ない。凛にはちゃんと事情を話して、誤解のないようにしておこう)


 今の伊田さんの勢いだと、ホントに凛に挨拶に行くかもしれないと、広志は思った。


「空野君、ありがとう」


 伊田さんはスッキリした表情になって、ぺこりと頭を下げた。


「あ、それからさ。もし空野くんが嫌じゃなかったら、また時々私の部活見に来てくれないか? そしたら私、もっと楽しく走れて、頑張れる気がするんだぁ」

「あっ、それはもちろんいいよ。また見に行くよ」

「良かった! ありがとう空野くん!」


 伊田さんはこれ以上ないくらい可愛い笑顔を浮かべた。





 その後神社を出て伊田さんと別れてから、広志は『部活終わったら電話ちょーだい』と凛にスマホメッセージを送った。


 すると十分くらいで凛から電話が入った。


『あれ? もう部活終わった? 早かったね』

『あ、まだだけど、ちょっと手が空いたから部活を抜けてきた。こんな時間にヒロ君が電話が欲しいなんて珍しいね。どうしたの?』


 広志は伊田さんとのできごとを凛に話した。


 伊田さんが広志に付き合ってほしいとまで言ったことには、さすがに凛も驚いたけど、広志を好きだということに対しては『やっぱりねぇ』という反応だった。


『なんとなく、そんな気もしてたんだぁ』

『ごめんな、凛』

『ヒロ君が謝る必要ないよ。それだけヒロ君が素敵だってことだし』

『いやいや、そんなことないって! ……でもそれで凛に心配をかけるのは、僕も嫌だ』

『私は大丈夫。いつも言ってるでしょ。すべてのモノはね、落ち着くところに落ち着くの』


 凛は穏やかな口調でそう言った。


 ──それって、僕の気持ちが伊田さんに行くことも覚悟してるってこと? それともやっぱり、僕の心は絶対に凛から離れないって自信?


 広志はそう思ったけど、電話で話す内容じゃないと考えて、そのことは口にしなかった。


『まぁ、なるようになるよー 私もヒロ君に愛想をつかされないようにがんばろっと!』


 相変わらず凛は達観してるというか、すべてを受け入れて、でも努力は怠らないっていう姿勢だ。やっぱり凄い。


『いやいや何言ってるんだ凛。凛みたいな可愛くて素敵な女性と違って、何の取り柄もない僕こそ、凛に愛想づかしされないようにしなきゃいけないんだって』

『何言ってるのヒロ君。ヒロ君はとーっても魅力的で、だからこそ伊田さんだって好きになったんだし。私が頑張って努力しないと……』

『伊田さんがああ言ってくれたのは、ホントにたまたまだよ。凛の魅力に比べたら、僕なんてまるでアリンコみたいなもんで……』


 夫婦喧嘩は犬も食わないって言うけど、犬はバカップルのイチャコラも食べたくないに違いない。


 ただひたすらお互いに相手を褒めて、褒めまくって、褒めくたびれてから、ようやく広志は電話を切った。





 広志が帰宅してリビングに入ると、ソファに寝そべってた妹の茜がパッと立ち上がって、広志の方を振り向いた。黒髪のポニーテルがふわりと揺れる。


「広志君、お帰り〜!」

「ああ、ただいま。あかね、元気か?」

「うん。元気だよぉ」


 いつもの『元気か』の挨拶に答えた茜は、言葉とは裏腹に少しねたような顔をしてる。


「広志君の帰りが遅いから、茜待ちくたびれちゃったぁ~」


 茜は頭の後ろで両手を組んで、わざと大きな口を開けて言った。少し幼いけど凄く可愛らしい容姿に、広志も微笑ましく思う。


「ごめんごめん。でもまだ夕食までは時間があるだろ? 何か僕に用事があった?」

「べーつに。用事はないけどねー」


 茜はぷいと横を向くと、またソファに腰を下ろしてテレビを向いた。


「最近、広志君がちょこちょこ帰りが遅いからさー 何してるのかなって思って」


 伊田さんと帰りに神社に寄ったり、部活を見に行ったりしたからだ。


 とは言っても5時頃とか、遅くとも5時半には帰宅してる。高三男子の帰宅時間としては、全然遅くないのに、と広志は苦笑いした。


「ごめんな茜。先生に頼まれごとをされたり、友達とちょっと話し込んだりがあってさ。高三にもなると、色々あるんだよ」

「わかってるけど……高三の広志君と違って、どうせ茜は子供だよ」


 茜は頰をぷくーっと膨らませてる。


「あはは、そんな意味で言ってないって。茜ももう来年は高校生だし、もうすぐ大人だよ」

「もうすぐってことは、まだ子供って言いたいんでしょ?」

「こらこら、そんなにねるな」


 広志はソファに三角座りしてる茜の頭を、くしゃくしゃっと撫でた。その途端に、茜の顔もくしゃくしゃっと緩んで、気の抜けた声を出した。


「ふにゃ」


 茜は精神的なダメージが完全回復してないってこともあるけど、元々の性格が可愛がってほしいって欲求が強い。父が思いっきり甘やかして育ったからかもしれない。


 だからいつの日か、茜に彼氏ができるなら、受け止め幅の広い優しい男性だったらいいなぁと広志は思ってる。


「でも茜だってもう中三なんだから、色々なことがあるだろ?」


 広志は特に深い意味もなく、ホントに何気なく言ったのだけれど、茜は座ったまま広志を見上げて、びっくりするようなことを答えた。


「まぁそうだねぇ。今日学校で、違うクラスの男の子からこくられた」

「へっ?」


(えっ? なんだって? 今茜はなんて言った? コクリコ? いや、それはお笑い芸人だ。いや、お笑い芸人はココリコか)


 あまりに突然のカミングアウトで、広志は一瞬頭がパニックになった。

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