第2話 夜上がり天気雨近し
朝起きると、そこは浴室だった。
「見慣れない天井だ……」
そりゃそうだ。風呂場で寝るなんて、いつもだったらあり得ない。
それもこれもあの女のせいだ。
普段見ないからこそ、新たな発見もある。天井のいたるところにあるカビにげんなりしながら、水を飲みに台所に向かう。
重い頭を抱えながら風呂場のドアを開けると廊下にはカズシロが横たわっていた。まるで自分の家かのように気持ちよさそうに寝息を立てている。
なんとなくムカつくから一回踏んでおこうか。
「あ、起きたんだ」
声がした方を見ると、会長がちゃぶ台にだらしなく顔を乗せてくつろいでいた。
「昨日は災難だったね」
はい、と言おうとしたが声がかすれてうまく出ない。
うめき声しか出せない僕に会長はミネラルウォーターを渡す。
気の利かない他の奴らと違って、会長は気配りのできる人だ。おそらくあの後も僕とカズシロを介抱してくれていたのだろう。久しぶりに人の優しさに触れて思わず涙がにじむ。
おぼろげな記憶の中では、会長が先陣きって雨原さんを煽り立てていた気がするが、そこは気にしたら負けだ。
「まあ、見てる方はかなり面白かったけどね」
会長は聞いてもいないのに昨日の飲み会の顛末を語り出した。
僕が早々につぶれた後、次の犠牲者はカズシロだったようだ。雨原さんに首根っこを掴まれながら、寝ている僕に起きてくれと泣きついていたらしい。
ばっちり動画も撮ってるよ、と会長は自分のスマホを差し出すが、僕はそれを丁重に突き返す。
今は飲み会のことは思い出したくもない。ワイングラスを見るだけで吐きそうだ。
「動画といえば、もっと面白いものがあるんだけど」
何度も断るが、しつこく動画を見せようとする会長に折れて、僕は仕方なくスマホの画面をのぞき込む。
かなり型遅れのスマホの小さな画面に映っていたのは僕と雨原さんだった。
それはどうやら僕がつぶれる少し前のようで、顔を赤くした僕は焦点の合わない目で何やら大声で訴えていた。
『こんなのは間違ってる!こんなんじゃ晴れ男と雨女の決着はつけられませんよぉ!』
最後の力を振り絞って立ち上がる僕の健気な姿に涙があふれる。
『ほお。じゃあどうやったら決着がつくのよ』
酔っぱらってはいるものの、まだまだ元気そうな雨原さんは座ったまま、僕を試すように睨みつけた。
『そんなの簡単じゃあないですか。二人で一緒に外に出て、晴れたら僕の勝ち、雨が降ったら雨原さんの勝ちですよぉ』
あんたわかってないねぇ、と雨原さんは僕を鼻で笑う。
『雨女は特別な日に雨が降るから雨女なのよ。なんでもない日まで雨が降ってたらやってらんないわ』
特別な日という雨原さんの言葉に僕の様子が変わる。
そして、特別な日ならいいんですか、と僕は持っているグラスを空にする。
『じゃあ、僕とデートしてくださいよ』
僕の言葉に再び会場は水を打ったように静かになる。
その沈黙を破ったのは雨原さんの豪快な笑い声だった。
その場の誰もが雨原さんの迫力に気圧されて、口を開くことができない。
ひとしきり笑った後、彼女は挑戦的に口角を上げる。
『いいじゃない。やってやろうじゃない』
雨原さんも立ち上がり、僕の胸倉をつかむ。
『来週の日曜!逃げたらその時はあんたの負けだから』
逃げるわけないじゃないですか、その言葉を最後まで言い終わらないうちに僕はそのまま雨原さんの足元に倒れた。
「どう、面白いでしょ」
会長は面白そうに僕の顔を覗き込む。
「あのう…これは、お酒の場だからノーカンですよね。だって僕覚えてないですし」
「でも証拠残ってるじゃん」
「向こうはきっと覚えていないから大丈夫ですよ!部長がこのままその動画をここで削除してくれれば――」
「同じものを雨原さんにも送っておきました」
会長はスマホの画面を見せる。雨原さんとのトーク画面にはさっきの僕の醜態がしっかり送られていた。
退路は断たれた。だがまだ打つ手はある。
約束を取り消せばいいのだ。昨日は酔った勢いであんなことを言ってしまい申し訳ありません、と。頭を下げるのも幻滅されるのも慣れている僕にとってこれくらいはへでもない。
「あのね、これ会長命令だから」
言い訳を百通りほどシミュレーションしている僕に向かって会長は告げる。
会長命令。
僕が所属させられている唐傘同好会に脈々と受け継がれている悪しき伝統の一つ。会長の肩書を持つ者のみに許されている権限で、1ヶ月に一度発動する命令に部員は全力で従わなければならない。
まともな組織ならば、職権濫用の名のもとにこっぴどく糾弾されてしかるべき事案だが、そんな悪法が堂々とまかり通るのが我らが唐傘同好会だ。
「ちゃんと雨原さんにも言っといたから、結果はちゃんと教えてね~」
そう言って会長は立ち上がる。
どうやら本当に会長は雨原さんに伝えたらしい。すぐさま僕のスマホの呼び出し音が鳴る。画面には雨原さんの間抜けそうな犬のキャラクターのアイコンが映っている。
「会長ぉ……」
どうにかしてくださいよと顔を上げると、会長はまだ眠り込んでいるカズシロを担ぎ上げるところだった。あの蹴れば折れてしまいそうな体のどこにそんな力があるのか、会長は軽々とカズシロをおんぶする。
「じゃじゃじゃあ、あとは若い二人におまかせしようかな」
会長は年寄りじみた言葉を残して玄関の扉を閉める。
あとには、途方に暮れた僕といつまでも鳴りやまないスマホが残された。
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