ほろ苦いキリマンジャロコーヒー

 僕はコーヒーを1日1杯は飲みますが、コーヒーの産地とか銘柄?みたいなものはあんまり気にしていません。コーヒーなら何でも良いかなという感じです。


 ただ、キリマンジャロのコーヒーだけは特別な思い入れがあります。


 高校生の僕は不登校に片足突っ込んでいる状態でした。


 中学生までは頑張っていた勉強も、一度つまづいたらもう止めることが出来ず底の底まで転がり落ち、テストの点は一桁は当たり前でした。先生からはもっと真剣に授業を聞きなさいと何度も怒られました。でも、授業で喋っている内容が、日本語なのに何言ってるかさっぱり理解出来ない状態で、黒板に書いてあることも良く分からず、僕のノートには授業の内容は一切書かれず、ただその日の日付があるだけでした。


 そんな全く理解出来ない授業に出るのは苦痛で、しだいに僕は授業をまともに受けなくなります。

 少人数の授業で席が自由の場合は一番後ろに座り、周りの空席でバリケードを作りそのバリケードの内側で寝ていたこともあります。その時は数学で使う大きな三角定規で突かれて起こされるという漫画みたいな経験をしました。

 授業中、手を上げ唐突に「トイレに行きたいです」と言い、先生の「分かりました。すぐ戻って来てくださいね」との声かけに「分かりました。すぐ戻ります!」と威勢良く返事し戻らなかったこともあります。

 

 そのうち授業に出るのが億劫になり、学校をさぼるようになりました。

 よく使っていた休む理由は「お腹が痛いから」でした。不思議なものですね。お腹が痛いと念じれば、本当にお腹が痛くなります。リアルの痛みがあると僕も心が痛まずに休むことが出来ます。

 さすがに毎日学校を休んでいるのも良くない気がするので、昼から学校に行くなど遅刻という技も使い始めます。当時僕は電車で通学していました。

 最寄駅に行くまでに、本当に後少しで駅につくというところに踏み切りがあり、その踏切は電車が駅に着く少し前には閉まり、電車が出発するころにやっと開くというものでした。

 8:00発なら7:55くらいには踏切が閉まってしまいます。8時の電車が出るギリギリを狙うと、踏切に阻まれ電車には乗れません。それが分かっていながら、僕はこれに乗り遅れたら遅刻するという電車の出発ギリギリの時間を狙って家を出ました。

 僕が踏切をくぐろうとするタイミングで警報機が鳴り始めます。急げばまだ間に合う。そんな気持ちもありますが、足が進みません。そのうち完全に踏切は閉まってしまい、僕が乗る予定の電車が目の前を通り過ぎます。

「ああ、今日もまた乗れなかったな」

 そう呟きながら僕は駅周辺に設置されているベンチで時間をつぶします。クソ田舎だったので、無人駅でしたし、その駅の周りには何もありません。何も無いのですが、学校という苦に向かうぐらいなら何も無いを選ぶ僕でした。真冬のめちゃ寒い時でも、暖房の効いた学校の教室よりも極寒の吹きさらしのベンチを選びました。それぐらい嫌だったのです。


 学校に着いてもすぐに教室に入りません。授業中に遅れて入っていくのが嫌とかじゃありません。ただ、単純にまだ授業に入りたくないという気持ちでした。

 その頃僕は50分の授業に最初から最後まで参加するというのが奇跡のようなことに思えていました。10分ぐらいなら耐えられるけど、50分なんて!!

 遅刻して学校に行き、学校の周りを歩くと授業をしている風景が窓から見えます。みんな真剣な顔をして先生の話を聞いています。前に立つ先生をきちんと整列した席に座り、一心に授業を聞いています。50分も。僕には出来ません。


 というわけで、学校に着いてもなかなか教室に入るまでに決心がいるのでした。 そんな時良く飲んでいたのがキリマンジャロコーヒーでした。

 学校のピロティに自動販売機が置いてあり、そこにコーヒーは三種類ありました。本当に甘いカフェオレ、本当に苦いブラックコーヒー、ミルクや砂糖が少し入ったほろ苦いキリマンジャロコーヒー。僕はキリマンジャロコーヒーを選びます。

 初めてその自販機でキリマンジャロコーヒーを選んだ時は「なんか良く分からない名前のコーヒーがある。カッコいい!!」ぐらいの気持ちで買い、その味が気に入り、それから愛飲するようになりました。ちなみに僕以外の人がキリマンジャロコーヒーを買っているのをあまり見たことがありませんでした。あんまり人気は無かったようです。

 

 ピロティにあるベンチに座って飲んでいたら、先生に見つかる可能性もあったので、木の陰とかそういう所で隠れて飲んでいました。そのキリマンジャロコーヒーを飲んで、深呼吸をして「よし頑張ろう」と決心して教室に向かうという感じです。その頃には大体授業が終わる5分前とかになっていましたけどね。


 なんであんなに学校に行くのが嫌になったのかなと思います。

 中学生の頃はすっごく勉強して、良い点取って、周りから期待されて入った高校で、僕も頑張ろうと思っていました。でも、心のどこかで「勉強して、良い大学に入って、その後どうなるんだろう?」と考えている自分もいました。

 その頃の僕の夢は医療系の仕事で、何でその仕事を選んだのかというと「なんか将来安定そう」というふざけた理由でした。その他に自分の将来を決める材料が無かったのです。

 数回の模試を経て、僕は、目指している大学の医療系の学部に行くのは難しいことが分かります。先生は一生懸命考えて、僕に夢に続く道を提示してくれました。少しランクを落とした大学、似たような学部、でも、そのどれも僕は興味を示しませんでした。もともとの夢の理由がしょうもないものだったので、その夢が難しくなって、いざ自分の将来をまた考えろとなった時、何にもなりたくないという気持ちが強くなっていました。

 大人を見てみました。テレビに映る企業の社長、芸能人、金持ち、自分のやりたいことを手に入れて頑張る人たち、その他、色々な人たちを見て見ましたが、僕はその誰にもなりたくないと思っていました。「私は今の人生が幸せだ」と目を輝かせて言う人も、僕には幸せそうには見えません。ああ、そうか、僕はどうあがいても幸せにはなれんなかもな。そう思いました。何かの主人公になったかのようで傍から見ると少し気持ちが悪いですが、本気でそう思っていたと思います。


 そんな感じで人生にやる気を出せず、ただ、だらだらと日々を消費するだけになり、何事にも興味が出ないダメ人間が出来ていきました。だって、どんなに努力しても、なりたいものは一つも無くて、幸せになれない気しかしないから、だから、努力しない方がマシだって、そうキリマンジャロコーヒーを飲みながら考えました。


 そんな惰性で過ごしている自分がまともな道を進めるわけは無く、僕は普通に道を踏み外しました。でも、そんなこともどうでも良くなっていたんですけどね。


 今になって、あの頃のことを思い出して「やり直したいか?」と聞かれても微妙な返事しか出来ません。あの頃に戻ったところで、僕が将来に対する無意味感を消せるかと言ったらたぶん無理ですからね。同じ道をたどるに決まっています。


 そんな感じで生きてきましたが、今でも何にもなりたいとは思っていません。ヘルマン・ヘッセは「詩人になりたい。でなければ何にもなりたくない」と言ったそうですが、僕は詩人になってもどうかなと思います。詩人以外に何かあるかと言えば、無いですし。


 今、僕が考えているのは「将来のこととか色々考えず、ただ生きよう」ということだけです。1日1日を生き続けるというのが僕の人生の目標です。どんなに無意味だと思っても生き続ける。「人生は無意味だからこそ、どんな人生でも良いんだという」虚無感から生まれる前向き思考ですね。そんな感じで生きてます。


 今でもキリマンジャロコーヒーは好きで、飲んでいる時は色々考えます。

「これから先自分にはどんなことが待っているのだろう?」

 良いことでも悪いことでもそれら含めて全部楽しむ気持ちで、少しワクワクします。もしかしたら、これが幸せなのかも知れないですね。

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