04

 一度は目にした光景なのだろうが、少しも記憶にない。初めて見る風景だったが、どこかで見た風景でもあった。

 父と一緒に〈青滝〉周辺の地上を歩いたとき、仲間と一緒に〈青滝〉を脱出して〈一京〉に向かっていたとき、見えていたのはここと似たような景色だった。

 懐かしいと感じたのは、前を行く秋香の背中が目に入るせいだ。

 防護服はある程度体型を隠してしまう。ぱっと見ただけでは性別を判断できない。秋香の上背は父より低いのだが、それでも、銃を担ぎ工具類の入った鞄を提げている後ろ姿は、父を彷彿とさせた。

 最後に父の後について地上に出たのは、二十日ほど前になるか。不意に思い出し、和樹の目頭が熱くなる。涙がこぼれそうになるのをぐっと堪えた。マスクは外せないから拭えない。秋香に顔を見られたら、泣いたとばれてしまう。

〈青滝〉は壊滅した。父も仲間もみんな死んでしまい、生き残ったのは和樹だけ。今はまだ無理でも、いつか〈青滝〉へ戻って弔いをするのが、死んだ仲間たちのためにできる唯一のことだ。その『いつか』がいつになるのかは、まださっぱり見当が付かないが。

「秋香さん。〈青滝〉に行った捜索隊の人たちは、戻ってきたんですか」

 せめて、〈青滝〉の現状がどうなっているのかを知りたい。壊滅したとはいえ、故郷がどんな風になってしまったのかを。

「捜索隊が最深部まで行ったのが昨日。一応、今日戻ってくる予定になっているけど、もう少し探してみると言ってたそうだから、明日か明後日になるかもね。それくらいの装備は用意してあるから、彼らなら大丈夫」

「その人たちが戻ってきたら、話はできますか」

 和樹が何を望んでいるのか、秋香は察してくれたようだった。

「……聞いたら、辛いんじゃない?」

「構いません。〈青滝〉の様子を知りたいんです」

「捜索隊の中には、わたしの同期もいるんだ。高山さんがだめだと言っても、彼女にこっそりお願いしてみるよ」

「ありがとうございます」

 楽しい話は一つも聞けないに違いない。それでも、〈青滝〉の今を知れるのなら構わなかった。

「あれが、今日点検する一つ目の吸気口だよ。見える?」

 秋香が前方を指さす。遠くに、地面から突き出た巨大な煙突状の構造物があった。

「大きい――」

「あれを一人でメンテしろっていうんだから、空調局もなかなか無茶を言うよね」

 立体映像で事前に見せてもらっていたが、縮尺が分からないこともあって、吸気口の大きさがどれほどのものか、和樹にはぴんとこなかった。和樹が知るものより大きいのだろうと思っていたが、想像していた倍以上はある。〈青滝〉の吸気口の三倍はあるだろうか。

「まあ、地上に突き出ている部分は本当に大気を取り込むための口でしかないから、実は案外一人でもできちゃうんだよ。フィルターや空気浄化装置は地下にあって、そっちは別の担当がいるし」

 吸気口に近付くにつれ、巨大なファンが回転する騒音が空気を振動させる。吸気口の脇までくると、大声でなければ会話をするのは困難だった。

 今日のところは、秋香の作業を見ておくだけだ。一度は見ておいた方が、後で具体的な作業内容を教わる段になって理解しやすい。

 秋香は、これから何をするのか簡単に説明をしてから、作業に取りかかった。ファンの作動に関するメンテナンスが主らしい。

 防護服の手首部分に備え付けてあるデバイスを操作して、腕の近くにディスプレイを展開する。そこには点検項目がずらりと並んでいた。秋香はそれを上から順番にこなしていき、チェックをいれていく。三区に戻ったらデバイスに記録したデータを取り出して、メンテナンスの結果を報告書にまとめるそうだ。

「せっかく和樹がいるのに、今日は特に調整や修理が必要な箇所がなかったよ」

 三十分ほどかけてすべての項目にチェックを入れた後、秋香が言った。

「でも、まだあと一カ所あるんですよね」

「そっちでわたしの腕の見せ所があるといいけどね」

 秋香が軽く肩をすくめてみせる。思わず和樹が笑うと、秋香も嬉しそうな顔をした。

 もう一つの吸気口――秋香が和樹を発見した場所の近くだ――に向かっていたときだった。

 再び見えてきた地上から突き出る煙突状の構造物を、秋香が指さす。その更に向こうを指さして、あのあたりで和樹を見つけたのだ、と言った。

 彼女の指が示す先を見やった和樹の耳に、吸気口のファンが回転するのとは違う、機械の駆動音が飛び込んできた。

「今の、聞こえた?」

 秋香の耳にもそれは届いていたようだ。眉根を寄せた彼女が和樹を振り返る。和樹が頷くと、秋香は音のした方に向き直った。

 舞い上がった土と塵が、煙となって風に流される。土煙を巻き起こしているのは、一台の装甲車だった。

「――捜索隊だ」

 この時間にこのあたりを走っている装甲車は、それくらいしか心当たりがないのだろうか。

「変だな」

「え」

「このあたりはあまり道がよくないから、走行ルートから外れてるんだ」

 人類が地上で暮らしていた頃の道路は、ほとんどが残っていない。残っていたとしてもそれは瓦礫であり、道としての用はなしていない。ここから離れたところに、もっと凹凸の少ない場所があって、通常はそこを通るらしい。

「何かあったのか……?」

 土煙を上げて向かってくる装甲車の速度は、さほど速くはない。

 装甲車の走行音に混じって、甲高い電子音が聞こえた。秋香が防護服のデバイスを操作して、マスクに手首を近付ける。

「砂上です」

「高山だ。ついさっき、〈青滝〉に行っている捜索隊から連絡があった」

 少しこもった男の声が、秋香の手首から聞こえてくる。どうやら電話らしい。

 現在の地上の大気中には塵が多いため、電磁波は妨害を受けやすい。電磁波を使って通信するためには巨大な施設が必要となるが、秋香が使っている電話は防護服に埋め込まれた名刺サイズのデバイスだ。電話の相手である高山と名乗った男は、確か秋香の上司だ。すると、三区からかけてきているということか。三区からここまでの距離であれば、大きなアンテナがなくても電話を使えるのだろう。

 それにしても、機械が小型なのには驚かされた。〈青滝〉では、地上に出るときはもっと大きな無線機器を使っていた。

「何かありましたか」

 秋香がちらりと和樹を見る。高山の声は和樹にもはっきりと聞こえていた。和樹に聞かせてもいいものか、と秋香は考えているように見えた。

「〈無剣〉の襲撃を受けたそうだ」

「なんですって」

 秋香が目を剥く。和樹も耳を疑った。〈無剣〉はまだ〈青滝〉にいたのか。

「連絡してきたのは重本だ。他の連中とははぐれてしまって、どうなったのかは分からないそうだ」

「高山さん。わたしと和樹は、今、第五吸気口の近くにいます。ここから、捜索隊のものと思われる装甲車が見えています」

「見間違いではないか?」

「地上を走る装甲車なんてそうそう見かけませんし、遠距離走行用の装甲車に間違いありません」

「おかしいな。捜索隊が帰ってくるという連絡はまだない。それに重本は〈青滝〉にいると言っていた」

「重本さん以外のメンバーかもしれません。〈無剣〉の襲撃があったのなら、通信機器が壊れた可能性もありますし」

「すぐに呼びかける。砂上、念のため清水少年と一緒にどこかに隠れていろ。装甲車に乗っているのが誰か確認したら、また連絡する」

「了解しました」

 捜索隊以外の誰が装甲車を運転するというのか。秋香と高山は、なぜそんなにも心配しているのか。和樹は首を傾げ、すぐに思い当たった。

 彼らは、〈無剣〉が運転しているかもしれない、と考えているのだ。〈無剣〉は人間になりすまして〈青滝〉や〈広咲〉に侵入してきた。装甲車の運転くらいできるのだろう。

 和樹は〈無剣〉について、分子機械の集合体で、人間を殺すために生み出された古の遺物、ということくらいしか知らない。人間になりすます以外にどんな性能を持っているのか、まったく知らなかった。

 秋香や高山は、少なくとも和樹より知っていそうだ。父は知っていただろうか。知っていたら、地上に活動範囲を広げようとしていた和樹に、いずれ教えるつもりだったに違いない。だが、その機会は永遠に失われてしまった――。

「和樹、何してるの。早く、こっちへ!」

 秋香の声は聞こえていたが、和樹の意識にまでは届いていなかった。

 土煙を上げて装甲車がどんどん近付いてくる。和樹は視力がいい方だ。今は点灯していないヘッドライトやサイドミラーの形が見て取れる。フロントガラス越しに、ハンドルを握る人の顔もはっきりと見えた。

「和樹。早く!」

 動かない和樹に業を煮やした秋香が、彼の腕を取る。だがそれでも、和樹は食い入るよう装甲車を見つめていた。

 車内には汚染大気が入らないのだろうか。運転している人は、防護服を着ているがマスクは装着していなかった。防護服のフードも被っていない。

「……父さん」

「え?」

「父さんが運転してる……」

 和樹は装甲車を指さした。秋香は和樹ほど視力がよくないらしく、目を凝らしていた。

 しかしほどなく、彼女は担いでいた銃を手に取った。

「秋香さん?」

「運転してるのは捜索隊の誰でもない」

「待ってください。あれは俺の父さんだ。捜索隊の装甲車を借りてきたのかも」

「和樹。あれは君の父さんじゃなくて、〈無剣〉が化けている可能性が極めて高い。下がって!」

「嘘だ。俺には父さんにしか見えない!」

「〈無剣〉は見た目だけなら驚くほどそっくりに化ける。捜索隊の誰かに化けたら〈広咲〉に侵入すときに見破られるかもしれないから、〈青滝〉の人間に化けたんだろう」

 秋香は和樹の言葉にはいっさい耳を貸さず、銃を構えた。

 まさかいきなり撃つつもりなのかと和樹が危ぶんだとき、甲高い電子音が響いた。秋香のデバイスだ。

「砂上。装甲車に乗っているのは〈青滝〉の住民だと言っている。見えるか」

 秋香はデバイスをさっと操作すると、すぐにまた銃を構えた。

「見えます。確かに、捜索隊の誰でもない人物が運転しています。和樹によると、彼の父親だと」

清水正樹しみずまさきと名乗っている」

 秋香が和樹をちらりと見る。デバイス越しに高山の声は聞こえていた。

「父さんの名前です」

「和樹の父親と同じ名前だそうです」

「装甲車との距離は?」

「操縦者の顔がはっきりと見えるくらいです。――隠れるのはもう手遅れです」

「すぐに応援を派遣する。それまでもつか」

「相手が〈無剣〉でなければ問題ないでしょうね」

 高山の返事はなかった。秋香も和樹も、運転席の人物をじっと見つめていた。

 ゆっくりと走っていた装甲車は、少しずつ速度を落としていく。巻き上がる土埃の量が少なくなり、和樹たちから十メートルほど離れた位置で停止した。

「――四年前、わたしが〈無剣〉を見破ることができたのは、莉乃に化けた〈無剣〉が、わたしに笑顔を見せたからなんだ」

 操縦席から目を離さず、秋香が言った。

「莉乃は、わたしが蒼平を奪い返すんじゃないかといつも心配して、警戒してた。だから、わたしに笑いかけるなんて、あり得なかったんだ」

 操縦者はマスクを着けると、ドアを開けて装甲車から出てきた。和樹は息を呑んで、父を見つめる。

「和樹?」

 降りてきた人物は確かにそう言った。

 和樹は表情を緩め、秋香を見る。しかし彼女は、油断なく銃を構えていた。

「和樹だろう。そこにいたのか」

 大きく手を振り、近付いてくる。

 あれは、本物の父ではないのか。しかし、何か違和感を拭えない。父はきっと死ぬ覚悟で和樹を地上へ送り出したのだ。それなのに、再会を果たした割には感極まる様子もなく、笑みを浮かべているものの、淡泊だった。

 けれど、あれが〈無剣〉だとして、果たして和樹を見て、その名前が分かるものだろうか。

「和樹。〈無剣〉は、人間の脳を一部取り込んで化けるんだ。だからある程度記憶を盗める」

「え」

「でも、古い記憶は無理だ」

 あれが本当に父なのか、確かめなければならなかった。

「父さん……母さんは無事なの?」

「もちろん無事だよ。お前を心配してる」

 次の瞬間、秋香が引き金を引いていた。銃弾は父の額を貫通した。それは体を大きくのけぞらせる。

 その隙に、秋香はベルトに装着していた拳銃を和樹に寄越した。

「非常事態だから持ってなさい。使い方は分かる?」

「はい」

「応援が来るまで十五分はかかるとみた方がいい。戦うのは無理だ。逃げるよ」

 そう言う秋香に返事をするかのように、体をのけぞらせていた父――いや、父の姿に化けていた〈無剣〉が口を開いた。

「――いきなり撃つなんてひどいじゃないか」

 にたりと笑う顔には、血の一滴も流れたあとがなかった。顔は和樹の父のものなのに、表情はまるで別人だった。父はあんな笑い方はしない。しかし、父の顔で不敵で不気味な笑みを浮かべている。

 和樹の記憶と実際に目にしているものの落差は大きく、〈無剣〉の存在を禍々しくさせていた。

 秋香が無言で撃った二発目を〈無剣〉はかわした。柔らかくなった飴のように首を伸ばして湾曲させ、不気味な笑みを貼り付けた顔を九十度近く傾けて。

 和樹は、手の中にあった拳銃をぐっと握りしめた。父の姿を模した化け物。父の顔のまま、人間ではあり得ない動きを見せることに、ふつふつと怒りが湧いてきた。

〈無剣〉は父を殺し、その姿と記憶の一部を奪った上に、人間らしからぬ動きをする。それは、父の存在を貶めるものだった。

 平穏だった日常を崩され、故郷を壊滅させられた悲しみや怒りと混じり合い、和樹は喉を震わせていた。

 汚染された大気で痛めた喉は、もうほとんど治ったと思っていた。だが、喉が張り裂けんばかりに叫ぶと、ひきつるような痛みがぶり返す。だがそんなことは構わなかった。

 立て続けに発射した。三発撃って、三発とも避けられた。かすりもしなかった己の腕の悪さに苛立ち、うなり声を上げる。

「和樹! 落ち着いて。よけいな弾は使わなくていいから」

 秋香が叫び、和樹の腕を引く。

「逃げるんだよ!」

 今ここに十分な武器がないことは、和樹も承知していた。秋香は予備の弾丸を持っているが、それで〈無剣〉を倒せるかどうかは分からない。

 いや、無理だろう。和樹も、〈無剣〉の力をまったく知らないわけではないのだ。

 それでも、和樹は秋香の腕を振り払った。

 ちっぽけな拳銃一丁で倒せるような化け物でないのは分かっている。だが、何もせずにはいられなかった。父を、仲間を、故郷を奪われた憤りをぶつける相手として、これ以上のものはいないのだ。

「和樹、逃げるんだ!」

「逃げたって、俺にはもう何も残っていない!」

 和樹が手にしていたすべてのものは、目の前の化け物に食われてしまった。

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